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一昨日、久しぶりに大野一雄を観ました。
本来は大野慶人のミニ公演だったのですが、珍しく体調が良かったので、大野一雄も来たのでしょう。
大野一雄とは、日本舞踏界の第一人者で、土方巽と共に舞踏を世界に知らしめたその人です。
もう100才近いため、殆ど公演を行うことはできなくなってしまいましたが、それでも本人は健在です。
それにしても舞踏はなぜ廃墟のイメージと繋がるのでしょう?
土方巽も大駱駝艦も山海塾も、そして勅使河原三郎も、
それぞれまったくアプローチは違いながら、そのどれもが観るたびに常に廃墟を連想します。
人の息吹が十分に感じられる若い廃墟の土方巽、
さらにもっとわぎわぎとして体液を感じる麿赤子の廃墟、
逆に乾ききって、もう人の息吹を感じなくなった山海塾の廃墟、
そしてインダストリアル・エイジの廃墟、勅使河原三郎。
そんな中にあって、大野一雄の廃墟は、凄く身近であり、常にそこには花があります。
できる事なら、見る物を涙の渦に誘い込む、
生体廃墟-大野一雄の指先から咲く一輪の美しい花を、また観てみたいものです。
goo検索でお寄りしました。
個人的には、大野一雄は受けつけ、
土方巽は受けつけない、
なぜか自分でも謎。
これ、感覚体質、、とでもいうんでせうか、、、。
トラックバックとコメント、ありがとうございます。
土方巽を受けつけない・・・
詳しく伺っていないので間違ってるかもしれませんが、
自分の感覚を思い出してもみても、そういう所はあります。
土方巽の舞踏は、
ある意味神経を逆撫でするようなところがあると思います。
ただそれと同時に、
その感覚は確実に自分の中にあって、
でも普段は眠っている、というよりは
あまり出てきて欲しくない感覚、
そんな印象も受けるのですが。
共感覚とでもいうんでしょうか、混じりあう状態。
常には独立している感覚が『ないまぜ』になってしまって、
うろたえて自分のそれを受け入れ難いというか、、、。
お返事いただけるとは思いもよらず、
驚きました。ありがちうございました。