スキーといえば、ジャンプ競技で高梨沙羅選手は、W杯52勝を達成しましたが、これは、
新潟県上越市高田で行われているスキーのお祭りなんです。古くは“高田スキー祭”とも
呼ばれていたそうですが、当地は、日本スキー発祥の地だそうです。今年、日本スキー発祥
106周年で、2月4~5日に大々的なイベントが行われたそうです。
レルヒ祭HPによれば、当地 金谷山は、明治44年(1911年)、オーストリア・ハンガリー
帝国の軍人、テオドール・フォン・レルヒ少佐によって、日本にはじめてスキー術が伝えら
れたスキー場で、このレルヒのスキー術は、瞬く間に広まったというのです。 山頂には、
「大日本スキー発祥之地」記念碑、日本スキー発祥記念館のほか、レルヒ少佐の銅像があり、
多くのスキーヤーに親しまれている・・とありました。
金谷山スキー場(レルヒ祭HPより) 日本スキー発祥記念館(上越市博物館HPより)
レルヒスキー術は、現在のスキーとは少し違っていたようで、ストックは2本ではなく1本
の竹竿のようなのだったとか。 靴のかかとも板に固定しなかったようです。
1本杖スキーのデモ
(上越観光HPより)
お祭りのイベントは、かなり大がかりなもののようで、ゲレンデをバックにしたミュー
ジック花火なども人気があり、高田商店街あげての賑わいを見せるそうです。 花火の
もようは、文末に u-tube 映像をアップしましたのでご覧ください。
http://www.joetsu-kanko.net/special/lerch/
私のスキーの想い出は、スキーをあまりやらないので数が知れていますが、札幌赴任の頃、
現地でお正月を一人で過ごすことになり、年末からニセコの昆布温泉にお正月中遊んだ記憶
があります。
昭和40年(1965年)12月31日札幌駅構内の気温が氷点下20度に達したと構内放送がありま
した。長い袋に入れたヒッコリーのスキー板を担いで、函館本線 昆布温泉駅から、どのよう
に旅館に行ったかなどは、全く記憶の外となっていますが、何しろ年末の混雑時期でした
から、部屋は、相部屋ということでした。
同室の相方は、小樽で鉄工所を営む三浦さんという60代の小柄なおじさんで、毎年湯治に
来ているとのことでした。それ以来、亡くなるまで文通をすることとなりましたが、いろん
な話を伺ったり、お正月料理やミカンなどもご馳走になったことを覚えています。
31日の夜は、NHK紅白歌合戦が、広間のテレビでやっていましたが、山間部のせいか
全く映りが悪く、見るに堪えない映像が流れていました。 翌、元日は、部屋に運ばれた
お膳には、お雑煮、煮しめなど正月料理と、お神酒が添えられていて、三浦さんと二人で
それなりの正月気分を楽しめたのでした。 三浦さんは、スキーはされなかったので、
私一人で、“行ってきます”という形で、午後遅くまで、遊んで、帰りは、旅館の前まで、
スキーを履いたまま来れるのが何とも愉快というか、面白かった記憶があります。
当時の札幌の住まい近くには、今のコンビニみたいな店は無く、正月はどことも閉店して
いて、一人住まいには不便でしたので、正月一杯、昆布にいて、3日にアパートに戻ってき
ましたが、まぁ、それなりに楽しかった思いはありますが、何といっても一人であったこと
が、やはり満足できなかったようでした。
翌、昭和41年の冬は、専属の指導員(会社上司)について札幌近郊のスキー場でもっぱら
腕(脚)を磨くべく精進していましたが、3月頃に、右ひざ靭帯損傷で北辰病院に1か月入院
する羽目になりました。退院したころは、もう、道路の雪はありませんでした。
この時入院ベッドが先輩であった、北御門さんという人は、私と同年令で、ANAカーゴの
会社員で、スキーのベテランでしたが、木に激突して瀕死で担ぎ込まれたということでした。
ずっと年賀状のやり取りをしていましたが、2年前に他界されました。
楽しいスキーの想い出も、ありましたが、この二つがいつまでも印象深く心に残っていま
す。 プライベートな話を長々と申し訳ありませんでした。