沖縄には、人の泣き声や涙で育つ木があるという。
墓場の横に立っていて、拝みに来る人の涙や悲しみを吸い取って
大きくなる木。
…まるで、詩人のよう。
何時まで悲しみが続くのでしょう。
何処まで木は大きくなるのでしょう。
愛する者の、永遠の不在。
人間よりは短命だからこそ避けて通れないのがペットの死。
でも、人も長生きするとペットを置いて先立たなくてはなりません。
置いて逝かれる方と、置いて逝く方。
どちらが辛い現実でしょう。
だからこそ、
どちらも辛い事を知っている、この木の歴史があるのでしょう。
飼い主のおばあちゃんが亡くなった日、
猫はおばあちゃんを捜して家中を歩き廻る。
葬儀の間中、親族の泣き声よりも大きく、声が嗄れる迄
猫は鳴き続けた。
辛い時、悲しい時、いつも傍に居て慰めてくれた猫。
ある日、長い長い闘病生活に終止符を打つべく
苦しみながらも喉を鳴らす猫は、静かに逝った。
飼い主の腕の中で。
お腹の毛が禿げるまでしつこく舐めていたのは、
痛みを和らげる為に人間が手で擦るのと同じだったんだと
急に猫の様態が悪くなって、呆気なく逝った後に気付かされた時の
悲しみや後悔は、きっと海よりも深い。
私は、猫好きの心の中にだけ伸びる木があると思うのです。
花が咲いて。
実がなって。
尻尾が伸びて。
ポトリ、ポトリと熟した猫が落ちるのです。
この「猫の木」のお話は、またの講釈で…
←ここをクリックしたら、涙を拭いて明日へ歩き出しましょう。
こんなにも悔やんでくれて、何時までも覚えていてくれている人がいるのですから。
そう、時間が薬ですよね。
忘れられない思い出は、心にしまって歩き出さなくてはならないし。
自分が許せなくて何十年もたっているのに今も思い出すと涙が出ます。
猫も飼っていました。子猫のときから毎晩一緒に寝て愛していたのに新しい猫が来たときに出て行きました。
忘れたころにかさぶただらけで一度だけ会いに来て二度と現れませんでした。
この救いがたい自責の記憶は死ぬまで忘れることはないと思います。
可愛がって可愛がって死なれたとしてもその猫も犬も幸せだったのです。
あぁ・・・。私のラッキー、私のチー・・。ごめんね。
立ち直るまでの時間も薬。