ここ最近、地球環境の保全活動に熱心なグレタという16歳の少女が国連でスピーチを行い、注目が集まっている。一人で始まった彼女の活動は世界中の若者を中心に伝播し、各地で温暖化対策の急務を訴えるデモが行われていると聞く。
でもどうなんだろう。
言ってることは解る。そのために世界中の研究者や政治家、民間の活動家達がどうやったら地球環境を守れるか、実際に活動しているし目標を立ててやっているのだ。そういった面を知らずに、ただただ騒いでいるのであれば、彼女の活動は至って狭い視野で物事を見ているとしか思えない。
彼女の主張は反対側からの視点だけを印象的かつ感情的な言葉で訴えているに過ぎず、ある意味危険だ。また彼女を担ぎ上げ利用する環境団体も少なからずいるはずで、国際社会に対し、良くも悪くも影響を及ぼしかねない。
ボクから見れば、彼女の活動の特徴はワン・イシュー。
実はこれほど怖いものは無い。
かつてナチスがやった扇動もこれに近い。一つの極端な主張を声高に訴えて周りの人々が扇動されていくのを見ると、恐怖でしか無い。デモは民衆が自分達の主張を訴えるための一つの手段だ。だがその中には必ず雑多な輩が入り込んで何の為の集まりなのか解らなくなってしまう。
どうみても彼女の主張は環境を破壊する経済=悪と決めつけているフシがある。
しかしその経済で生み出された富によって困窮する人々を救ったり、病気を治す施設が出来たりしているのも事実だ。彼女の言う環境保全活動だって寄付金によって賄われたりしているという現実を見るべきではないか。
彼女の主張を頭ごなしに批判するつもりは毛頭無いし、高い志に拍手を送りたいとも思う。環境問題に取り組む現場から離れた所に居る彼女にしてみれば、遅々として進まない(ように見える)世界はもどかしく感じていることも理解できる。しかし彼女が言う理想のために多くの人々が国際的枠組みを構築し、協力し合っている事も分かって欲しい。
確かに彼女にしてみれば、これほど環境破壊につながる社会を造った大人達への不信感はあるだろう。だが彼女が国連でスピーチすることが望ましい一石であるかどうかは…疑問だ。地球温暖化対策の救世主であるかのようなマスコミの取り上げ方をみると、こんな小さな少女をシンボル化しないで欲しいし、かわいそうだ。
ただし、「無邪気な子供の主張」と片付けるつもりはない。
みんなで地球環境を守っていくという思いはこれからも持ち続けたいし、一歩ずつでもその方向で進むよう願っている。今回のスピーチを肯定的に捉えるならば、まぁ誰かがインパクトのあるコトしないと物事ってなかなか進まないから、その意味では有意義だったかもしれないな。
追伸
彼女に関連して小泉環境大臣がやたらと叩かれているが、軽々しい発言が許されない立場の人間に向かって「それはないだろう」と思う。マスコミは大臣の失言を狙って質問してるって事に、何故気がつかないのだろう。