リーガル・ハイ。テレビドラマのタイトルである。
堺雅人と新垣結衣が主演する弁護士の物語だが、ウチの家族が揃って観るというのに、ボクだけは観る気がしなかった。何故なら、あのクールなイメージの境が極端なオーバーアクションで法廷を暴れ回る姿が、ボクにはどうしても受け入れ難かった。
ところが、である。
先日録画しておいたリーガル・ハイを訳あって観るハメになったのだが、ちょっと感動した(笑)
そのドラマの中の裁判は、有名なアニメスタジオで働く若い作画担当が、監督の余りに酷い仕打ちにたまりかね、監督に謝罪を要求するというものだった。新垣扮する弁護人は、原告に才能があるから余計に辛くあたっていたんではないかと思い、一言「君には才能がある。」という言葉を期待した。が、監督は逆に、こう突き放した。
「君に才能があると思ったことは一度も無い。」
そしてこう続ける。
そもそも才能なんてものは、自分で掘り起こし、積み上げていくものだ。自分は天才でも何でも無い。一生懸命努力して階段を一歩ずつ踏みしめてきただけだ。怠けた奴らは上を見上げて「アイツは天才だから。」と嘯く。冗談じゃ無い。オレより若くて体力も在り感性もある奴らが怠けてムダにするくらいなら、その全てをオレにくれ!もっともっと作りたいものがあるんだ! だからオレにくれ!!
このセリフが、ボクの心を強く打ったのだった。
ボクがチェンソー・カービングを始めたのは、人より目立とうなんて思って始めたワケではなかった。当時はカネも無く、生活に事欠くような状況にあって、なんとか少しでも収入を増やしたい、その一心で始めたのがホンネだ。チェンソー・カービングは、今持ってる機材、そこにある材料という、全く設備投資を必要としない、ボクにとってそれしか選択の余地の無い手段でしか無かったのだ。
今でこそ「アンタにはもともと才能があったんだ。」等とあちこちで言われるようになったが、始めた当時は人から笑われるようなものしか作れなかった。チェンソーアートが流行りだし、巧い人から習い始めた人は、あっと言う間にボクよりも多くの作品を作るようにもなった。そんな人達を横目で見ながら、自分なりの手法で勉強し、少しずつ少しずつ、カメのような歩みでようやく「今」がある。
才能というのはあるのかも知れないが、ボクみたいに才能が無い人間でも10年近くやっていれば少しずつ形になっていくものだ。このドラマの監督が言うように、「勉強して積み上げて」こそ、物事が少しずつ形になっていくのだと思う。
つい先日のクボタでも、郷里の人間がボクを観て驚く。こんなとこでもやっているのか、と。しかし、全くの無名から少しずつ応援してくれる人達が少しずつ増え、それが繋がり合って今に至っているワケで、突然今の姿が出来上がったワケでも何でも無い。チェンソーアート大会での輝かしい賞など無縁の僕が、こうやっていられるのはずっと昔から少しずつやってきたその成果で在り、応援してくれた人々のお陰だ。
「チェンソーアート大会に出てみたら?」
そういう人も中にはいるが、ボクにとってなんの意味もなさない。
それは、自分の事は自分が良く解っているし、人と比べなきゃ自分の実力が解らないほど脳天気では無い。「チェンソーアート大会○位!」なんて肩書きは、お客さんの前では意味をなさない。ボクが作れないモノは山ほどあるし、それを全部作れるようになりたいとも思わない。まだボクは自分が目指す方向性すら定まっていないのだ。まだボクはそれを探す、道半ばにいるに過ぎない。だから人が何を作ろうがどんな世界大会へ出場しようが、気にもならない。そういう人達はそういう道を選んでいるのであり、ボクが目指すべきだとも思っていない。何より、ボクの周りの人達はそういう事を臨んでいないし、自分達が欲しいものをボクに作って欲しいと願っている。ボクはその期待に応えるよう頑張るだけだし、そのために試行錯誤し努力して上手くなっていかなければいけない。
ボクの場合お客さんに「生かされている」以上、そのお客さん達に応えていくことがボクの使命だと思っている。
人はボクに「芸術品」など求めてはいない。
人はボクに、アーティストになって欲しいとは思ってもいない。
多分それはこれからも変わりなく続いていくんだろうと思う。
ボクは木で作品を作るのが好きだ。
チェンソーのハンドルを握って、拙い作品であっても、一生懸命、これからも頑張って作っていきたいと思ってる。