炎と水の物語 2013 Apprehensio ad Ignis et Aquarius.

広大な宇宙を旅する地球。私たちは今、どの辺にいるのでしょう. 

一瞬の何かが....-.登呂遺跡、最後の日を考える.-

2004-12-16 | 日本列島の災害


 今日は、私たちの祖先が遭遇した、ある災害について考えます。

 登呂は、弥生時代末期の社会や農業の様子を知る上で、とても重要な遺跡です。その発掘は、総合的学術分野を結集させた、戦後の新しい日本初の実証的歴史研究として、今も光輝いています。登呂遺跡の発掘は、それまでの、天皇の名前を暗記するだけの抽象的な歴史から、真実を探る歴史への出発点としての意義をもっています。

 私は、この発掘に参加した考古学者の講義を聴講したことがあります。その先生は、戦時中、米潜水艦に撃沈され、数度、海上を漂流、「もし生きて帰ることが出来たなら、本当の日本の歴史を知りたい。」と祈り念じ、生還された方です。戦後、夜学に通われ歴史を学んでいた先生は、勤務先の大蔵省へ、ノイローゼという口実を編み出し、登呂発掘に参加されました。実際現地に行ってみると、おびただしい遺物が「出るわ、出るわの状態」で、連日その整理に明け暮れたそうです。

 普通、建物が放棄され人が居なくなると、生活用品は持ち出され、風化してしまい、遺物はあまり残ることはありません。なぜ登呂には、かくも沢山の遺物が残ったのでしょうか。発掘に参加した地質学者達は、建物の柱の海側への傾き、床面の泥層の堆積など、ある種の洪水の痕跡を認めています。当時の登呂遺跡は、安倍川から約2km、標高は現在より5m低い、2mほど。当時の海岸砂丘は未発達で、海に通じた潟湖にほど近い位置にあったと推定しています。

 しかし、普通の洪水であれば、木製品など軽いものは水に浮いて流れ去り、現場に残ることはありません。
登呂遺跡では、1メートルほどの青い砂土に埋もれた状態で、そっくり当時の生活用品が残っていました。上掲の写真は、登呂遺跡で発掘された、板張りの小屋の跡です。普通の洪水であれば、こうした板や材木は、水とともに流れてしまい、残らないはずです。この板小屋は、泥に埋没する寸前に、何らかの原因で倒壊し、火災を発生させた痕跡があります。火災は短い時間続き、その後、一瞬にして青い砂土に埋まったようです。
      (掲載の写真、『登呂』1949.毎日新聞社)

 その災害は、単なる河の氾濫だったのでしょうか。私は、この発掘報告書*を読んでいて、怪訝な部分を見つけました。戦争末期、この場所に軍用機のプロペラ工場が作られる事になり、その造成工事中、訪れた歴史学者が、校倉式の建物が横倒しのまま放置されているのを目撃し、静岡市の施設に保管させたとあるのです。弥生の建物がそのまま残っていたのも驚異ですが、それが洪水で他の遺物と伴に、流出しなかったのも不思議です。普通の洪水であれば、すぐそばの海まで流れて行ったのではないでしょうか。

 いったい、どのような災害がこの村を襲ったのでしょうか。海外の考古学者**は次のように述べています。
「 登呂遺跡について入手出来た驚くべき詳細な情報は、おそらくこの遺跡が突然崩壊した所産であろう。」「 OZETTE遺跡 *のように、一瞬のうちにすべてを飲み込んだ水が、遺跡を泥と細砂の下に埋めてしまったのであろう。」


また、この発掘を指導した杉原荘介***(写真中央。『登呂』1949.毎日新聞社)は、次のように述べています。「 登呂の村はどうして埋まったのか。その集落の上にも一様に、一メートルもの青い砂土が、かぶさっていた。.....一瞬にして登呂の村も、水田も、地下に埋没してしまったのである。」
遺跡は、今も未発掘の部分を残し、眠っています。




-ご参考-

* 『 登呂 』1949年.『 登呂本編 』1954年.日本考古学会編発掘報告書 毎日新聞社

** JHON COLES &BRYONY 『 低湿地の考古学 』 雄山閣 1994年

***『 登呂遺跡 』杉原荘介 1959年.中公美術.

*『 LIVING WITH EARTHQUAKES' 』 YEATS,ROBERT S. 1998.
オレゴン~ワシントン州の地震最新情報.

*「 OZETTE遺跡 」:17世紀の北米太平洋岸先住民の捕鯨・漁撈集落遺跡。遺物が登呂の如く泥に覆われて、夥しく出土。 1700年のオレゴン沖の巨大津浪 で、埋没した。 拙ブログ* 「太平洋を越えた巨大津波」 -江戸時代の北米から到来した大津波- に掲載。

* オゼット遺跡付近の映像 [TERRA GALLERIA Photography]

* 「 タイ南部沿岸の堆積物に記録された過去の巨大津波 」 産業総合研究所 2008年 10月


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6 コメント

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参考映像 (リンク)
2004-12-16 17:10:10
オゼット遺跡付近の映像.

[TERRA GALLERIA Photography] !!

 http://www.terragalleria.com/parks/np.olympic.3.html

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登呂遺跡と災害 (o_sole_mio)
2004-12-16 17:11:59
2004-10-10 00:53:54

登呂遺跡といえば弥生時代の稲作の様子を当時の原型そのままに残しているということは有名ですが、それが自然災害によるものであることを初めて知りました。



自然災害により集落が滅亡しそれが遺跡として発掘された例としてベスビオス火山の噴火によって滅亡したイタリアのポンペイ遺跡がありますが、後世の人間にとっては当時の生活の様子を知る貴重なものではありますね。
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眠れる村々 (U-1) (眠れる村々 (U-1))
2004-12-16 17:12:54
2004-10-10 08:08:47

0-さん ありがとうございます。

登呂は、立派なクリークで、汐入遺跡や小黒遺跡などと繋がり、いろんな機能を持っていたようです。農村の原型、もっと明らかになるとよいですね。



世界の火山の周りには、各時代の「ポンペイ」が眠っていますネ。東洋では、ジャワ島のBOROBUDURが有名ですが、日本の岩手山、岩木山などは「埋葬された」山の意味のようです。海岸部にも、村々眠っています。
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参考映像 (リンク)
2004-12-16 17:14:44
オゼット遺跡付近の映像.

[TERRA GALLERIA Photography] !!

 http://www.terragalleria.com/parks/np.olympic.3.html



http://www.terragalleria.com/parks/np.olympic.all.html
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Unknown (ひろもと)
2008-11-27 22:17:42
コメントありがとうございました。
わたしが「疑史」や「吉薗周蔵の手記」(いずれも落合莞爾氏著)を引用・紹介しているのは、専ら日本・近現代史の真実に近づきたいためのささやかな営為で、他意はございません。
お問合せの「根拠は如何」については落合氏の論考なので直接質問なさるのがよいかと思います。
私の場合は、主に月海黄樹・『秀吉の正体』第一章、『竜宮神示』第一章の二つの文です。
落合氏の「佐伯祐三調査報告」(ブログ)もぜひご参照ください。
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ひろもとさん、ようこそです(^^)。 (U-3)
2008-11-27 23:25:19
そちら記事、とてもユニークでよいと思いました。実証的な肉つけをして行くと、楽しいですね.お知らせ、ありがとうございました。
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