伝説の歌番組・夜のヒットスタジオを語る

伝説の音楽番組「夜のヒットスタジオ」の22年間の足跡を通じて、日本の歌謡界が最も輝いていた時代を振り返ります。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(55-3) 1977年11~12月③

2008-07-17 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年12月26日(第477回)>
■中島みゆき、テレビ生放送音楽番組初出演。
・追想 ヒデとロザンナ
 詞:松任谷由実 曲:出門 英 R:1977/09/25 HC:18位
・恋人たちの100の偽り 太田裕美
 詞:松本 隆 曲:筒美京平 R:1977/12/21 HC:27位
ブーツをぬいで朝食を 西城秀樹
 詞:阿久 悠 曲:大野克夫 R:1978/01/01 
 HC:7位 BT:1位(78/02/09-02/16)
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)32位
◆第7回(78年)東京音楽祭・国内大会 ゴールデンカナリー賞受賞曲
曲の冒頭の部分でライターに火をつけるアクションを披露し話題を呼んだが、翌78年に入って早々これを小学生が真似たことが原因で火災事故が発生。この事故が発生した直後に放送された「ザ・ベストテン」(TBS系)出演時に、西城自ら、方々への影響を考慮して同アクションの封印を宣言すると共に、注意喚起を促すコメントを発表した。
【メドレー】アザミ嬢のララバイ~わかれうた 中島みゆき
 ・アザミ嬢のララバイ 中島みゆき
  詞・曲:中島みゆき R:1975/09/25 HC:38位(75年)
中島みゆきのデビューシングル。当初は全国でのプロモーション活動に中島本人も帯同する予定としていたが、この曲の発売前後の時期に実父が病気のため療養生活にはいったことから、満足のゆく宣伝活動ができなかったという。
 ・わかれうた 中島みゆき
  詞・曲:中島みゆき R:1977/09/10 
  HC:1位(77/12/12) BT:4位
中島みゆきにとり、初のオリコンチャート1位獲得シングル曲。以後、中島は1980年代(「悪女」)・1990年代(「空と君のあいだに」「旅人のうた」)・2000年代(「地上の星」)と4つの年代にでそれぞれオリコン1位を獲得するという偉業を達成する(この「4つの年代に渡っての1位獲得」という記録を持っているのは現時点では彼女一人のみである)。また、77年8月第2週~78年2月第3週までの半年間、ピンクレディーが「渚のシンドバッド」「ウォンテッド」「UFO」の計3曲でオリコンチャートで1位の座を独占したが、その間隙を潜り抜ける形で唯一、1位の座を奪還したのがこの作品であった。
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<中島みゆき>
①1952年、北海道・札幌市出身。高校3年の時、文学祭で自身のオリジナル作「鶫(つぐみ)の唄」を披露したのをきっかけにアマチュアミュージシャンとしての活動を開始。大学進学後は、地元ラジオ局でスタッフのアルバイトをする一方、他の大学のフォークソング研究会メンバーとの交流を広め、各種の音楽コンテストにも出場し軒並み入選、「コンテスト荒らし」との異名をとる。72年、「バイト代わり」(本人談)で出場したフォーク音楽祭の道内予選で優勝、北海道代表として全国大会に出場し、「あたし時々おもうの」で入賞を果たす。大学卒業後も、親交のあった地元のジャズ喫茶のマスター・渡辺晃氏が主宰する「自由集団」の企画・構成によるライブに数多く参加する一方、100曲以上にも上るオリジナル作品を創作するなど、更に音楽活動を活発化。アマチュアミュージシャンながら既にこの時期には道内の音楽ファンの多くにその名前が知れ渡る存在となっていた。
75年、ヤマハ音楽振興会主催によるアマチュア歌手の登竜門「第9回ポピュラーソングコンテスト(ポプコン)」に出場し、「傷づいた翼」で入賞。この入賞を契機にキャニオン・レコードと契約、同年9月にシングル「アザミ嬢のララバイ」でレコードデビューを果たす。続く11月には、同じくヤマハ主催による「第6回世界歌謡祭」にも出場。当初はポプコン入賞曲である「傷づいた翼」での出場を予定していたが、急遽曲目を「時代」に変更、この曲で見事グランプリを受賞。「時代」はその後、12月に「世界歌謡祭グランププリ受賞曲」という触れ込みのもとにレコード化され、オリコン週間チャート最高14位累計売上16.4万枚(オリコン調べ)のスマッシュヒットとなった。
76年には、初のアルバム「私の声が聞こえますか」を発表。また同時に他の歌手への楽曲提供を開始し、研ナオコには「あばよ」「かもめはかもめ」、先輩シンガーソングライターである加藤登紀子には「この空を飛べたら」桜田淳子には「しあわせ芝居」「二十才なれば」など多数の作品を輩出、何れも好セールスを記録し、作詞・作曲家としても一躍注目を浴びる。オリジナル作品でも77年発表の「わかれうた」が翌78年にかけて累計76.9万枚(オリコン調べ)を売り上げ、自身初のオリコンチャート1位を獲得。同世代でテレビ出演よりも創作活動・コンサート活動に重点を置きながら音楽活動を展開していた松任谷由実と共に、以後の日本の女流ミュージシャンの一つの流れを築く存在へと成長してゆく。他方、この時期よりラジオ番組でのパーソナリティー業にも進出。79年からはニッポン放送の人気深夜番組「オールナイトニッポン」の月曜担当パーソナリティーに抜擢され、暗く思い曲調の多い彼女から想像がつかない、明朗・軽妙なトーク・番組進行が話題となり、以後、87年まで8年に及ぶ長寿番組となった。
82年、「悪女」で自身2度目のオリコン1位を獲得して以降、「誘惑」「横恋慕」「あの娘」「ひとり」と自身のオリジナルシングルが次々と同チャートのベストテン入りを果たすヒットを連発。柏原芳恵の「春なのに」、元ピンクレディー・増田けい子(現・恵子)のソロ第1弾シングル「すずめ」など、引き続き他の歌手にもヒット曲を提供し続け、彼女の人気は絶頂に達する。しかし、その後、曲作りの面でスランプに陥り、甲斐よしひろら外部の人気ミュージシャンを自身のオリジナルアルバムの製作プロデューサーに起用するなど、それまでの作風からの大幅なイメージチェンジを模索し続ける時代(本人いわく「御乱心の時代」)が数年続き、その影響もあってかアルバム・シングル売上も徐々に下落傾向を辿るようになった。
88年、通算16枚目のオリジナルアルバム「グッバイガール」のプロデューサーとして長渕剛、チャゲ&飛鳥(CHAGE&ASKA)ら、多くのミュージシャンの楽曲でアレンジャー・作曲を手掛けてきた実力派の瀬尾一三を起用。楽曲製作の段階でそれぞれが目指す音楽スタンスなどの点から瀬尾と意気投合し、彼との出会いがそれまでのスランプ状態を打破する一助となってゆく。89年には、後に彼女のライフワークとなる「夜会」コンサートを瀬尾の総合プロデュースの下でスタートさせ、「コンサートと演劇の融合」という斬新な興行スタイルを提案。そして、92年にはドラマ「親愛なる者へ」(フジテレビ系)の主題歌として使用された「浅い眠り」がデビュー17年目、通算26枚目のシングルにして初のミリオンセラーを達成累計売上:105.7万枚<オリコン調べ>)し、スランプ状態から完全に脱却。その後も94年には「空と君のあいだに」、続く95年には「旅人のうた」(何れも日本テレビ系ドラマ「家なき子」主題歌)がミリオンヒット(「空と君のあいだに」は累計売上146.6万枚<オリコン調べ>という、自身の全シングル作品中最高の売上を記録)。これらの作品はドラマ主題歌として採用されたこともあり、ドラマの主な視聴者層である若年層の間にも彼女の独特の音楽センスが広く浸透、更なるファン層の拡大へと繋がってゆく。
⑥2000年、新レーベル「ヤマハミュージックコミュニケーションズ」の創設に参加することとなり、デビューから25年間在籍してきたポニーキャニオンから同レーベルへと移籍。移籍後初のシングル作品である「地上の星/ヘッドライト・テールライト」はNHKのドキュメンタリー番組「プロジェクトX~挑戦者たち~」のテーマ曲に採用され、番組の人気上昇と比例するように主な視聴者層である中高年のサラリーマン世代から絶大な支持を獲得。最終的には自身4度目のミリオンセラー累計売上:111.6万枚<オリコン調べ>)を達成すると共に、オリコン週間チャートTOP100圏内連続チャートイン記録で杉良太郎の「すきま風」が持っていた連続147週の記録を大幅に塗り替える、連続174週ランクインという大金字塔を樹立。「地上の星」が本格的にヒットした2002年には、これまで幾度も出演依頼を受けながらも辞退を申し出てきた年末のNHK紅白歌合戦にも、NHKの番組からヒットの口火が切られたという恩義から出演を了承。黒部ダムからの生中継で同曲を熱唱した(因みにテレビの生放送音楽番組への出演はこのヒットスタジオへの唯一の出演以来、25年ぶりのことであった)。
⑦他方、ライフワークとなっていた年末恒例の「夜会」は98年を最後に一旦休止されたものの、2000年から不定期上演スタイルに転換して再開(以後、02年、04年、06年と1年おきに上演)。また人気アイドルバンドTOKIOに「宙船」「本日、未熟者」を提供するなど、70年代以降の日本のミュージックシーンに多大な影響を及ぼした大御所の一人として現在も第一線で活動を展開している。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・12/25 「黄金狂時代」「独裁者」「モダン・タイムス」「ライムライト」などの名作喜劇で知られるイギリスの”喜劇王”、チャールズ・チャップリン死去。88歳。
・12/31 同年度の日本レコード大賞に沢田研二「勝手にしやがれ」。最優秀歌唱賞は八代亜紀「愛の終着駅」(2年連続受賞)、最優秀新人賞は清水健太郎「失恋レストラン」。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(55-2) 1977年11~12月②

2008-07-15 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年12月5日(第474回)>
【メドレー】あずさ2号~コスモス街道 狩人
※発売時期・オリコンチャート最高位等の補足情報については、「あずさ2号」については「曲目リスト(52-3) 77年5~6月③」「コスモス街道」については「同(54-4) 77年9~10月④」内の当該曲目の記述をそれぞれ参照のこと。
【メドレー】帰らざる日々~冬の稲妻 アリス
 ・帰らざる日々 アリス
  詞・曲:谷村新司 R:1976/04/05 HC:15位(76年)
<楽曲について>
①谷村が過酷なライブ活動の末に倒れ入院した際の自身の心情を基に製作された楽曲といわれている。74年、アリスは年間303ステージという驚異的かつ過酷なライブツアーを敢行。その最中の同年夏に催された、ファン同伴によるグアム島ツアーの際に、谷村がコレラに類似した症状を訴えダウン。その後、1ヶ月近く検査・療養のため、隔離病棟での入院生活を強いられた。その際に抱いた心情がこの曲のベースとなったとされる。
②初のオリコン週間チャートベスト20入り作である前作「今はもうだれも」(75年9月リリース)に引き続き好セールスを記録。累計売上31.9万枚、オリコンチャートTOP100圏内に通算45週ランクインするロングヒットとなり、それまで主だったヒットもなく全国的には無名に近い存在であったアリスの存在が徐々に世に浸透していく契機を築いた。1978年には藤田敏八監督・永島敏行主演・にっかつ製作により映画化もされている(アリスは同映画の劇中音楽も担当している)。 
 ・冬の稲妻 アリス
  詞:谷村新司 曲:堀内孝雄 R:1977/10/05 HC:8位 BT:5位
◆年間チャート(78年)16位(50.7万枚)
◆TBS「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)29位
この曲によりアリスはデビュー5年目にして初めてオリコン週間チャートのベストテン圏内にランクイン。アリスを名実共に一線級の人気バンドに押し上げた作品である。当初は売上は低空飛行を続けていたが、このヒットスタジオ出演を境にセールスが好転。78年に入ってから本格的にヒットし(78年最初のオリコン週間チャート(1月9日付)でベスト20圏内に初ランクイン(11位)、同月30日付の同チャートで、発売から実に3ヵ月後で初のベスト10入りを達成。アリスの歴代全シングル曲中、「チャンピオン」(78年12月リリース)に次ぐセールスを記録累計売上:55.4万枚<オリコン調べ>)する大ヒットとなった。
・逆光線 Char
 詞:阿久 悠 曲:Char R:1977/12/10 HC:23位
・木枯しの精 南 沙織
 詞・曲:丸山圭子 R:1977/11/21 HC:63位
てぃーんずぶるーす 原田真二
 詞:松本 隆 曲:原田真二 R:1977/10/25 HC:6位
◆年間チャート(78年)47位(26.4万枚)
<原田真二>
①1958年、広島県出身。75年、高校2年の時にフォーライフレコードの新人オーディションに応募。1/3000という狭き門を潜り抜け入選。77年、青山学院大学入学と同時に上京し、彼のデビューのきっかけとなった上記オーディションの審査に当たっていた吉田拓郎(※当時、拓郎はフォーライフの取締役であった)のプロデュースの下で、同年10月、「てぃーんずぶるーす」でレコードデビュー。続く11月には「キャンディ」、12月には「シャドー・ボクサー」と3ヶ月連続でシングル盤をリリース、何れも20万枚を越える好セールスを記録し、オリコン調査開始以来初の同一アーティストによる3曲同時ベスト20入りという快挙を達成(※78年1月23日付~2月27日付)。上記3作を発表した後に製作・リリースされたデビューアルバム「Feel Happy」も、これもまたオリコンアルバムチャートの創設以来初となる初登場1位を獲得、衝撃のデビューを飾る。元々渡辺プロダクションでキャンディーズのマネージャーを務めていた大里洋吉が同プロから独立して設立した新興の芸能事務所「アミューズ」に籍を置き、大里の全面的なバックアップを受けてその後も音楽活動を展開、「タイム・トラベル」「サウザンツ・ナイト」「OUR SONG」「スウィート・ベイビー」などのシングル作を次々と発表し、同時期にデビューしたChar、世良公則&ツイストと共に「ニューミュージック御三家」の一画を形成、アイドル的人気を獲得する。
②1980年、3年間在籍したアミューズを離れ、独立事務所「クライシス」を設立(自身のアイドル的なアーティストとしての位置付けと理想としていた活動スタンスとの間に矛盾を感じた事が独立の理由であったとされる)。これを境にヒットからは遠ざかる状態に陥ってしまうが、その最中にも83年には「雨のハイウェイ」、86年には「見つめてCarry On」が話題となったほか、吉川晃司・山下久美子らにも楽曲を提供するなど作詞・作曲家としても活躍。近年では、かつて原田のファンクラブにも入会するほどの熱狂的なファンであったという松田聖子からの依頼により、プロデューサーとして彼女の音楽面での活動を全面的にサポート、健在ぶりを発揮している。

<1977年12月12日(第475回)>
・ノクターン 梓みちよ
 詞:喜多条忠 曲:常富喜雄 R:1977/09/05
・夜更けのレストラン 和田アキ子
 詞:山口あかり 曲:平尾昌晃 R:1977/10/25
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(8回)
禁猟区 郷ひろみ
 詞:阿木燿子 曲:宇崎竜童 R:1977/12/05 HC:8位 BT:5位

<1977年12月19日(第476回)>
・CRY CRY CRY 太川陽介
 詞:杉山政美 曲:都倉俊一 R:1977/10/25
<太川陽介>
 1959年、京都府出身。76年、17才のときに「陽だまりの中で」で歌手デビュー。翌77年、3作目の「Lui-Lui」が曲中の親指と人指し指でL字を作り、「Lui-Lui」と叫ぶポーズと共に話題となりスマッシュヒット、レコード大賞新人賞などこの年の各音楽賞レースの新人賞を多数受賞。その後は俳優・タレント業を中心とした活動に移行、俳優としてはドラマ「熱中時代」「かくれんぼ」「猿飛佐助」(以上、日本テレビ系)、「熱愛一家・LOVE」(TBS系)、映画「晴れときどき殺人」(角川春樹事務所)などに出演。タレントとしては、79年にNHKの若年層向音楽番組「レッツゴーヤング」の司会に抜擢され、以降番組が終了する86年まで7年間に渡り同番組の顔として活躍、彼の代表的な仕事の一つとなった。90年代後半以降は舞台を中心に活動している。
しあわせ芝居 桜田淳子
 詞・曲:中島みゆき R:1977/11/05 HC:3位 BT:3位
◆年間チャート(78年)44位(29.5万枚)
◆第20回(78年)日本レコード大賞金賞・西条八十賞(作詞者・中島みゆきに対して)受賞曲(西条八十賞についてはこの曲と加藤登紀子への提供作「この空を飛べたら」の2作品に対して受賞)。
◆第29回(78年)NHK紅白歌合戦出場曲(5回)
桜田はこの曲以降、「追いかけてヨコハマ」「20才になれば」「化粧」と計4作品で中島みゆきからシングルA面曲の提供を受けている。尚、作者の中島自身も79年11月リリースの6枚目のオリジナルアルバム「おかえりなさい」の中で同曲をセルフカバーしている。
風の駅 野口五郎
 詞:喜多条忠 曲:筒美京平 R:1977/10/25 HC:5位 BT:10位
◆第19回(77年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第8回(77年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(6回)
※この曲で翌78年にTBS系でスタートしたランキング形式の音楽番組「ザ・ベストテン」の第1回放送(1月19日放送)で第10位にランクイン。同番組は下位のランキング歌手から順番に出演する形式であったため、野口は同時に「ベストテン」の最初の出演歌手となった
わな キャンディーズ
 詞:島 武実 曲:穂口雄右 R:1977/12/05 HC:3位 BT:2位
◆年間チャート(78年)30位(39.1万枚)
◆TBS系「ザ・ベストテン」年間ランキング(78年)50位
キャンディーズの全シングルA面曲の中で、ミキ(藤村美樹)がセンター(リードボーカル)を担当したのはこの作品のみである。これは他のメンバー2人から、同曲を製作するに当たって「ミキをセンターに置いた曲を作ってほしい」との要望がなされたことによるものである。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・12/01 「天と地と」「海と風と虹と」「真田幸村」など歴史小説の大家として知られる作家・海音寺潮五郎が死去。76歳。
・12/13 社会党(現・社民党)の定期党大会にて、飛鳥田一雄が新委員長に選出される。
・12/17 国鉄(現・JRグループ)、リニアモーターカーの初の浮上走行試験に成功。


【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(55-1) 1977年11~12月①

2008-07-13 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年11月7日(第470回)>
■放送開始10周年突入記念企画・第2弾として総集編を放送。

<1977年11月14日(第471回)>
・I'm Agnes(アイム・アグネス) アグネス・ラム
 詞・曲:布施 明 R:1977/07/10
「雨あがりのダウンタウン」B面。アグネスと同じ事務所(渡辺プロダクション)に所属しているという縁から、自身のオリジナル作を中心に創作活動も展開していた布施明が同曲の製作を担当することになった(因みにA面曲「雨あがりのダウンタウン」の作曲者・”弾厚作”こと加山雄三も当時、歌手活動のマネージメントについてはナベプロに委託していた)。
・しあわせ岬 都はるみ
 詞:たかたかし 曲:岩久 茂 R:1977/10/01
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(13回)
秋桜(コスモス) 山口百恵
 詞・曲:さだまさし R:1977/10/01 HC:3位
◆年間チャート(77年)35位(31.9万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞歌唱賞・西条八十賞(作詞者・さだまさしに対して)受賞曲(※西条八十賞については、同曲を含め、77年度のレコード大賞選考対象期間内に発表されたさだの全作詞担当作品に対して受賞)
◆第8回(77年)日本歌謡大賞放送音楽賞受賞曲
◆第6回(77年)FNS歌謡祭・音楽大賞 最優秀歌謡音楽賞受賞曲
◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭女性視聴者賞受賞曲
<楽曲について>
①この年、「雨やどり」のヒットにより、ソロでの音楽活動も軌道に乗り始めたさだまさしが詞・曲を担当。さだは、それまで「横須賀ストーリー」や「イミティション・ゴールド」など一連の宇崎竜童・阿木燿子夫妻コンビによる楽曲のヒットにより山口百恵に付いていた「突っ張った女性」のイメージをあえて排して、実際の彼女が純日本的な心を持った女性であるという想定の下で、いつの日か訪れるであろう実妹(佐田玲子)の嫁ぐときのイメージを加味して同曲の詞・メロディーを書き上げたという。
②さだは同曲のレコーディング終了後、百恵に直接電話をかけ、同曲の内容につき「ピンとこなかったでしょう?」と聞いたところ、彼女は率直に「そうなんです」と答えた。その際、さだは付け加えて、「いつの時か、それ(曲の内容=嫁ぐ日の心情)がわかる日が来ると良いよね」と述べ、その後もこの言葉が常に百恵の印象の中に強く刻み込まれていたという。その後、彼女が結婚・引退を表明し、そのラストコンサート(80年10月5日)のステージに立つ直前に、コンサートツアーのため大阪にいたさだに対して百恵は、上記のさだから言われた言葉に対する返答として「この歌の意味がようやくわかるときがやってきました。ありがとうございました」とのメッセージを送ったと伝えられている。
③当初の企画段階では「小春日和」というタイトルがつけられていたが、当時、百恵を担当してたCBSソニーの酒井政利プロデューサーの提案によって「秋桜(コスモス)」というタイトルに変更された。同曲のヒットをきっかけとして「秋桜」という語の読みとして「コスモス」が定着化した。

<1977年11月21日(第472回)>
・春の岬 森 昌子
 詞:杉 紀彦 曲:市川昭介 R:1977/12/01 HC:37位
・ふたりの砂時計 丸山圭子
 詞・曲:丸山圭子 R:1977/11/05
・ボタンを外せ 西城秀樹
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1977/09/05 HC:12位
◆第19回(77年)日本レコード大賞 大賞候補ベストテン入り曲
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(4回)
※オリコン週間チャートではべスト10入りを逃し(累計売上:14.0万枚<オリコン調べ>)、5作目「情熱の嵐」(73年5月リリース)以来、17作続いたベストテン連続チャートイン記録はここで一旦途切れた
・港・坂道・異人館 いしだあゆみ
 詞:喜多条忠 曲:大野克夫 R:1977/11/01 
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(9回)
<楽曲について> 
①この曲の主な舞台となっているのは、明治初期の神戸開港により外国人の来客が急増したことに伴い、彼ら専用の住宅地として開発された「北野町異人館街」とその付近一帯である。具体的には「港」とは「神戸港」「坂道」とは「北野坂」を意味し、北野坂が通っているその付近に「異人館」と称される洋風建造物が多数点在している(戦前は最も多いときで200以上の異人館が点在していたが、第二次大戦時の空襲や、阪神大震災の影響で現在は約60棟まで減少している)ところからこのような曲名が付けられた。
②同曲を歌唱したいしだあゆみは、この年、後に(内縁の)夫婦となる萩原健一との共演によるテレビドラマ「祭ばやしが聞こえる」(日本テレビ系)や東宝映画「青春の門・自立編」などの話題作に次々と出演し、女優業を本格再開。その影響から翌78年の紅白では選に漏れ、69年・第20回紅白に初出場して以来続いていた連続出場記録は同曲を披露した77年・第28回紅白、9回目の出場でストップした。

<1977年11月28日(第473回)>
・終着駅は始発駅 北島三郎
 詞:佐東さとる/星野哲郎<補作> 曲:中山千里 R:1977/09/-
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(15回)
・愛の終着駅 八代亜紀
 詞:池田充男 曲:野崎真一 R:1977/09/25 HC:13位
◆第19回(77年)日本レコード大賞最優秀歌唱賞受賞曲
◆第8回(77年)日本歌謡大賞放送音楽賞・放送プロデューサー連盟特別賞受賞曲
◆第10回(77年)日本有線大賞有線ヒット賞受賞曲
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞優秀スター賞受賞曲
◆第43回(92年)NHK紅白歌合戦出場曲(19回)
・セイタカアワダチ草 十朱幸代
 詞:吉岡 治 曲:岸本健介 R:1977/09/05
※「夢色ヒコーキ」(久保田育子)同様、当時平日夕方の時間帯で放送されていた ミニ番組「NHKニューソング」の中で取り上げられた楽曲の一つ。
・北の子守唄 十朱幸代
 詞:吉岡 治 曲:岸本健介 R:1977/10/-【Album】
アルバム「風の盆」収録曲
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<十朱幸代>
①1942年、東京都出身。父親で名脇役として知られた俳優・十朱久雄の影響で、1958年、16才のときにNHKドラマ「バス通り裏」にレギュラー出演し女優デビュー。翌59年、松竹と契約し、木下恵介監督作品「惜春鳥」でスクリーンデビューを果たす。以後も映画「光る海」「伊豆の踊子」「陽の当たる坂道」(以上、日活)、ドラマ「おねえさんといっしょ」(NHK)や「東芝日曜劇場」などの一時間単発枠ドラマを中心に、主に主人公の娘役・恋人役など主に二番手・三番手の位置で多数の映画・ドラマへの出演を重ね、次第に主役級女優へのステップアップが図られてゆく。売り出し中の頃から歌手・俳優の小坂一也と同棲関係にあり、74年に約15年もの長い交際期間を経て結婚するも、わずか数ヶ月で離婚。
②離婚後は主にテレビドラマでの主演を中心に活動していたが、1980年、松竹映画「震える舌」で久々に主演としてスクリーンに登場。迫真の演技で同年度の日本アカデミー賞最優秀主演女優賞を受賞し、映画界でも主役級女優としての人気を決定的なものとする。その後も映画「魚影の群れ」「花いちもんめ」「極道の妻たちⅡ」「桜の樹の下で」(以上、東映)などの大作に次々と主演。他方、テレビドラマの世界でも土曜ワイド劇場「女検事・朝霧里矢子」シリーズ(テレビ朝日系)などに出演、同年代の三田佳子・岩下志麻らと並ぶ大女優として、高い演技力と貫禄を存分に視聴者や観衆に印象付けた。近年は主な活動のフィールドを舞台の世界に移して女優業を展開している。
③歌手としては、「セイタカアワダチ草」のほかに、「ビローフレンド」(81年)、「Shadow Blanca」(82年)など、主に80年代中盤にかけて数枚のシングル・アルバムを発表。ヒットスタジオにも歌手としてもこの初出演回のほか、82年10月11日放送、83年12月19日放送、84年5月21日放送の計4回登場している。


【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・11/11 韓国・裡里(イリ)駅でダイナマイトが爆発、1,300人もの死傷者が出る大惨事に。
・11/15 新潟市の海岸で当時13歳の地元の中学生、横田めぐみさんが何者かによって誘拐され行方不明に(後に北朝鮮工作員による拉致であることが判明)。
・11/17 大阪・吹田に完成した国立民族学博物館の一般公開が開始される。
・11/17 同年度の日本歌謡大賞に沢田研二「勝手にしやがれ」。
・11/25 ハイジャック防止法成立。
・11/28 福田改造内閣発足。
・11/30 アメリカ軍の立川基地が約32年ぶりに日本に全面返還される。



【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(54-4) 1977年9~10月④

2008-07-12 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

(77年10月3日放送(第465回)~同10月17日放送(第467回)の曲目については「曲目リスト(54-3) 77年9~10月③」に記載)

<1977年10月24日(第468回)>

・ほたる坂 清水由貴子
 詞:阿久 悠 曲:三木たかし R:1977/10/10
・ルララ・リララ 矢吹 健
 詞:森雪之丞 曲:丹羽応樹 R:1977/10/-
コスモス街道 狩人
 詞:竜真知子 曲:都倉俊一 R:1977/08/25 HC:5位
◆年間チャート(77年)31位(36.5万枚)
◆第8回(77年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第6回(77年)FNS歌謡祭・音楽大賞 優秀新人賞受賞
・マイ・ラグジュアリー・ナイト しばたはつみ
 詞:来生えつこ 曲:来生たかお R:1977/07/10 HC:17位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)  
<しばたはつみ>
①東京都出身。父親はピアニスト、母親はヴォーカリストという音楽一家の下で育ち、1961年、わずか9歳で米軍キャンプの将校クラブで初ステージを踏み、63年にはジャズバンド「スマイリー小原とスカイライナーズ」の専属歌手に起用される。1960年代半ばから「はつみかんな」の芸名でCFソングを中心に活動し、「レナウン娘」(レナウン)、「OH!モーレツ」(丸善石油<現・コスモ石油>)などコマーシャル史に残るCFソングも数多く担当。68年にはシングル「乙女の季節」でレコードデビューを果たし、同年制定された新人歌手を対象とした音楽コンテスト「新宿音楽祭」の第1回大会で金賞を受賞した。
②しかし、ヒット作には縁がなく、その後「麻まにか」に芸名を変えてシングル「紙の舟」をリリースするも振るわず、心機一転を誓い72年に単身渡米を決心。約2年間、ショービジネスの本場・アメリカでのレビュー経験を重ねた後、74年に帰国。これを機に芸名を「しばたはつみ」に改称し、シングル「合鍵」で再デビュー。また、渡米前に師事していたジャズピアニスト・世良譲の誘いを受けて、TBS系の新番組「サウンド・イン・S」にもレギュラーとして起用され、これを機に彼女の顔が視聴者にも広く知れ渡るようになり、また小学生時代のキャンプ廻りの時代より積み重ねてきた歌唱力が注目され、実力派シンガーとしての定評を獲得。75年には「濡れた情熱」で東京音楽祭銅賞・外国人審査員団賞を受賞。サミー・デイヴィスJr.ら海外の大物アーティストにもその実力を買われ、彼らのコンサートツアーにも前座歌手として帯同した。
③77年、東洋工業(現・マツダ)の常用車「コスモ(コスモAP)」のCFソング「マイ・ラグジュアリー・ナイト」がヒットし、米軍キャンプで初舞台を踏んでから16年目にして、同年末のNHK紅白歌合戦に初出場、師匠である世良譲とのセッションスタイルで同曲を披露。この後も「化石の荒野」などのオリジナルシングル・アルバムをコンスタントに発表する傍ら、ジャズシンガーとしてライブ活動を展開している。
④尚、この4年後に「センチメンタル・ジャーニー」でアイドル歌手として芸能界デビューする事となる松本伊代とは遠戚の関係にある。
<楽曲について>
マツダ「コスモ(コスモAP)」CFソングとして発表。この後も翌78年には「夜はドラマチック」、79年には「ラブ・イズ・イリュージョン」と、1年につき1作のペースで、歌手にしばたはつみを起用した同車両のCFソングが引き続き製作された。因みに、シングル盤では日本語バージョンとなっているが、同シングルリリースから約2週間後にリリースされたアルバム「Love Letters Straight From Our Hearts」(77/07/25リリース)では全編英語によるバージョン(来生えつこの日本語詞を元に一條諦輔が英訳詞を付けたもの。尚、アレンジもアルバム・シングルではそれぞれ異なっており、シングル版では林哲司が、アルバム版では大野雄二がそれぞれアレンジャーを務めている)が収録されている。
②この後、80年代にかけて多くのヒット作を世に送り出す事となる、詞:来生えつこ・曲:来生たかおの姉弟コンビが一躍注目を集める契機を築いた作品としても知られ、その後、山口百恵、三浦友和、市川染五郎(現・松本幸四郎)、伊東ゆかりら多くのアーティストに、主にアルバム収録曲を中心として楽曲を提供。その後の薬師丸ひろ子の歌による「セーラー服と機関銃」の大ヒットにつながる下地が徐々に築かれていった。因みに来生たかお自身もこの曲のセルフカバー版を79年10月リリースのシングル「あなただけGood Night」のカップリング曲として吹き込んでいる

<1977年10月31日(第469回)>
・ひとり旅 細川たかし
 詞:中山大三郎 曲:三木たかし R:1977/09/10 HC:82位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(3回)
・私が選んだあなたです 五十嵐夕紀
 詞:橋本 淳 曲:筒美京平 R:1977/09/05
・求愛専科 岡田奈々
 詞:有馬三恵子 曲:森田公一 R:1977/09/25
・GOOD-BYE BABY LOVE 大上留利子
 詞・曲:大上留利子 R:1977/10/-
・SEXY WOMAN 大上留利子
 詞:KURO 曲:西岡恭蔵 R:1977/06/-【Album】
※アルバム「タイフーン・レディー」収録曲
<大上留利子>
 「クイーン・オブ・ソウル」の異名を取る大阪府出身のR&B歌手。フォークソングサークル「万座」から大前Brothers Bandを経て、74年、ロックバンド「スターキング・デリシャス」にコーラスとして加入。翌75年、ヤマハ主催による音楽コンテスト「YAMAHA 8・8 ROCK DAY」では、バンド自体でグランプリを受賞する傍ら、大上自身もベスト・ヴォーカル賞を受賞、ソウルフルなヴォーカルが注目を集める。バンド解散後、77年にアルバム「タイフーン・レディー」でソロアーティストとしてデビュー。アメリカのフュージョンバンド「Stuff」など、海外アーティストのツアーに多くの帯同する傍ら、泉州弁を前面に押し出したトークとキャラクターの個性の強さがドラマプロデューサーの久世光彦の目に止まり、彼の初監督映画である「夢一族」やドラマ「真夜中のヒーロー」などにも女優として出演。一時関東に拠点を置いたものの、85年に大阪・キタに「R&Bヴォーカルスクール」を開校して以降は、専ら大阪を中心にゴスペル・シンガーとして音楽活動を展開している。
・東京物語 森 進一
 詞:阿久 悠 曲:川口 真 R:1977/10/05 HC:20位
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(10回) 
<楽曲について>
①この曲のタイトルは、小津安二郎監督による日本映画史に残る傑作「東京物語」(1953年、松竹)から取ったものである。作詞者の阿久は、この映画に対する個人的な畏敬の念を元にしてこの詞を書き上げたと伝えられている。
ロックバンド「近田春夫とハルヲフォン」もアルバム「電撃的東京」(78年6月リリース)の収録曲の一つとして同曲をカバーしている(因みに右記アルバムは同曲以外にも、山本リンダの「きりきり舞い」や郷ひろみの「恋の弱味」、平山三紀の「真夜中のエンジェル・ベイビー」など、他の歌手のヒット曲のカバーを中心とした構成が採られている)。

【司会】 芳村真理・井上 順

(参考)この頃の主な出来事
・10/29 社会市民連合(社民連)が正式発足。代表は江田五月。
・10/- 一部番組につきモノクロ放送を続けていたNHK教育テレビジョンが全日カラー放送を開始。再放送・外国番組の放送等の例外を除き、日本のテレビ番組の完全カラー化が実現する。

【改訂版】歌謡曲黄金時代と夜のヒットスタジオ-曲目リスト(54-3) 1977年9~10月③

2008-07-12 | 夜ヒット/曲目(改訂・増補版) 77~78年

<1977年10月3日(第465回)>
■放送開始10周年突入を記念して2時間の特集番組を放送。過去のヒット曲を中心に様々な企画モノを織り交ぜた番組構成で10年の足跡を回顧する。
よろしく哀愁 郷ひろみ 
 詞:安井かずみ 曲:筒美京平 R:1974/09/21 
 HC:1位(1974/10/28-11/11)
◆年間チャート(74年)16位(41.1万枚)
※NET(現・テレビ朝日)系ドラマ「ちょっとしあわせ」主題歌
郷ひろみの全シングル作品で(現時点では)唯一のオリコン週間チャート1位獲得曲にして最大のヒット曲(累計売上枚数:50.6万枚<オリコン調べ>)。また、歴代のジャニーズ事務所所属歌手のシングル曲で最初のオリコン1位獲得曲もこの作品でもある
※意外にも同曲をヒットスタジオで披露したのはこの回が最初である(74年8月12日~75年2月3日まで約半年間出演実績がなく、この期間内に同曲が発売・ヒットしていた)。
・マイ・ウェイ(My Way) 森 進一/布施 明/五木ひろし/沢田研二
 詞:Gilles Thibaut/Lucien Thibaut/Paul Anka(英訳)/中島 潤(日本語訳)
 曲:Claude Francois/Jacques Revaux
 R:1967/-/-(仏<詳細求む>)/1969/03/-(米)/1972/05/10(日、布施明盤)
 HC:8位(米)/25位(日<オリコン>、布施明盤)
※10周年特別企画の一環として、黎明期から番組を支えてきた、森・布施・五木・沢田の「ビッグフォー」が揃い踏みして、同曲をジョイント。尚、布施は72年に「愛すれど切なく」との両A面扱いでこの曲をシングルとして吹き込んでいる。
【メドレー(新御三家×花の中3トリオ・デュエット大会)てんとう虫のサンバ~昭和枯れすすき~イエスタデイ・ワンス・モア
 ・てんとう虫のサンバ 郷ひろみ/山口百恵
  詞:さいとう大三 曲:馬飼野俊一 (R:1973/07/05) (HC:5位<73年>)
オリジナルはチェリッシュの73年のヒット曲。因みにチェリッシュ自身はこの曲でのヒットスタジオの出演実績はなし
 ・昭和枯れすすき 野口五郎/森 昌子
  詞:山田孝雄 曲:むつひろし (R:1974/07/21) (HC:1位<74年>)
オリジナルはさくらと一郎の74年発表の作品。TBS系ドラマ「時間ですよ・昭和元年」主題歌として翌75年にかけて大ヒットした。
 ・イエスタディ・ワンス・モア(Yesterday Once More) 西城秀樹/桜田淳子
  詞・曲:John Bettis/Richard Carpenter 
  (R:1973/06/-<米>/1973/07/10<日>) (HC:2位<米>/5位<日(オリコン)>)
<楽曲について>
 オリジナルはアメリカの兄妹デュオ、カーペンターズのヒット曲。73年、アルバム「NOW&THEN」の中の収録曲の一つとして発表。その後シングルカットされ、同年6月にまずアメリカで、その後イギリス・日本でも同曲のシングル盤がリリースされ、全米(ビルボード)チャートで最高2位日本でもオリコン週間チャートで最高5位(※尚、オリコンの洋楽チャートでは26週連続1位という前代未踏の記録を樹立)の大ヒットとなった。歌詞の中に「ラジオから昔流れてきた歌を懐かしむ」といった趣旨のフレーズが登場することから、日本ではラジオリスナーたちからの評判が高く、各局の洋楽チャート番組でも軒並み高順位に位置付け、特に文化放送の「ALL JAPAN POP20」では同8~9月にかけて、計8週連続で1位の座を保守、最終的には年間1位を獲得している。現在でも多数の歌手によりカバーされ、またCMソングや番組BGMなどでも多用されるなど、現在ではカーペンターズの最大の代表作として親しまれている。
【補足】上記以外で同回放送にて披露された楽曲(判明分のみ記載)
・危険なふたり/沢田研二
・傷だらけのローラ/西城秀樹
・せんせい/森 昌子
・私鉄沿線/野口五郎
・あの鐘を鳴らすのはあなた/和田アキ子
・春一番/キャンディーズ
・瀬戸の花嫁/小柳ルミ子、ほか

<1977年10月10日(第466回)>
・ねえ 麻丘めぐみ
 詞:喜多条忠 曲:川口 真 R:1977/10/05
<楽曲について>
 同年6月20日放送のヒットスタジオで結婚・引退を発表した麻丘めぐみの、通算19枚目にして最後のシングル盤。この出演から約1ヵ月後の11月18日に行われたラストコンサートを最後に5年に及ぶ芸能活動に終止符を打った(その後、83年に離婚し、女優業を中心として芸能活動を再開)。同曲は元々麻丘が結婚・引退を表明する以前より新曲として企画されていた作品であったが、この引退表明を受けて、当初用意された歌詞に一部修正が加えられるなど、ラストナンバーであることを意識した内容に改編した上でリリースされた。
・帰っちまえ! ものえ和恵
 詞:伊藤アキラ 曲:森雪之丞 R:1977/07/-
・走馬燈 奥村チヨ R:1977/09/-
・捨てぜりふ 角川 博 
 詞:千家和也 曲:伊藤雪彦 R:1977/10/25
【メドレー】煙草のけむり~ゲーム 五輪真弓
 ・煙草のけむり 五輪真弓
  詞・曲:五輪真弓 R:1973/10/01 HC:40位(73年)
 ・ゲーム 五輪真弓
  詞・曲:五輪真弓 R:1977/10/21 

<1977年10月17日(第467回)>
・ジャニスを聴きながら あおい輝彦
 詞・曲:荒木一郎 R:1977/10/05 HC:34位
・過ぎてしまえば 森田公一とトップギャラン
 詞:阿久 悠 曲:森田公一 R:1977/08/21
・二人の青春 片平なぎさ
 詞:東海林良 曲:鈴木邦彦 R:1977/10/20
・夢色ヒコーキ 久保田育子
 詞:久保田育子/吉岡 治<補作> 曲:久保田育子/丹羽応樹<補作> R:1977/09/-
「NHKニューソング」(毎月1~2曲、イメージ映像(または歌手のプロモーション映像)と共に歌謡曲を紹介していくという、「みんなのうた」と同様の放送形式による5分間のミニ番組。77年~78年頃にかけて放送)の中で取り上げられた楽曲の一つ

【司会】 芳村真理・井上 順

(77年10月24日放送(第468回)・同10月31日放送(第469回)の曲目については「曲目リスト(54-4) 77年9~10月④」に記載)

(参考)この頃の主な出来事
・10/13 西独のルフトハンザ航空、ボーイング737-200型機がパレスチナ解放人民戦線(PFLP)メンバー4人により西フランス上空でハイジャックされる事件発生。18日、ソマリアのモカディシオに着陸した直後に西独の対ゲリラ特別部隊28人が同機内に強行突入、犯人全員を射殺の上、人質となっていた乗員・乗客86人を救出(ルフトハンザ航空181便ハイジャック事件)。
・10/14 「ホワイト・クリスマス」などのヒットで知られる、1930~1950年代の米国ショービジネス界を代表するスター、ビング・クロスビー(Bing Crosby)が逝去。73歳。
・10/15 長崎で赤軍派を名乗る(但し後にこれは虚偽であったことが判明)2人組による身代金目的によるバスジャック事件発生。翌16日、警官が2人組のうち1人を射殺、残る1人の身柄を確保、人質は全員無事に救出される(長崎バスジャック事件)。