(77年5月30日放送(第447回)~同6月13日放送(第449回)までの曲目については「曲目リスト(52-2) 77年5~6月②」を参照)
<1977年6月20日(第450回)>
・二人の海峡 内山田洋とクールファイブ
詞:五木寛之 曲:内山田洋 R:1977/05/25 HC:57位
・映画のあとで 麻丘めぐみ
詞:橋本 淳 曲:都倉俊一 R:1977/01/25
※「銀世界」B面。
・あずさ2号 狩人詞:竜真知子 曲:都倉俊一 R:1977/03/25 HC:4位
◆年間チャート(77年)15位(51.1万枚)
◆第19回(77年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第8回(77年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第3回(77年)日本テレビ音楽祭新人賞受賞
◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭最優秀新人賞受賞
◆第10回(77年)日本有線大賞新人賞受賞
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
◆第19回(77年)日本レコード大賞新人賞受賞
◆第8回(77年)日本歌謡大賞新人賞受賞
◆第3回(77年)日本テレビ音楽祭新人賞受賞
◆第3回(77年)全日本歌謡音楽祭最優秀新人賞受賞
◆第10回(77年)日本有線大賞新人賞受賞
◆第10回(77年)全日本有線放送大賞新人賞受賞
◆第28回(77年)NHK紅白歌合戦出場曲(初)
※<狩人>
①加藤久仁彦・高道による兄弟デュオ。元々は二人ともソロ歌手志望であり、兄弟揃って同じ音楽学校に通っていたが、家庭の経済的事情によって共に通学することが困難となり、兄の久仁彦が世話になったある講師に自主退学を申し出たところ、その講師から兄弟でデュオを組むのであれば一人分の授業料でこのままレッスンを受け続けてもよい、との慰留を受け、これがデュオ結成の端緒となったという。
②その後、作曲家・都倉俊一の門下を経て、77年3月、この「あずさ2号」でレコードデビューを果たす。因みに「狩人」というデュオ名は都倉の命名によるものであり「大ヒットを狙い続けるハンターであり続けて欲しい」という願いを込めて付けられたものであるとされている。このデビュー作「あずさ2号」は都倉はじめ関係者たちによる熱心なプロモーションが実を結び、オリコン週間チャート最高4位、累計51.2万枚(オリコン調べ)の大ヒットを記録。以降、79年頃にかけて「コスモス街道」「青春物語」「若き旅人」「アメリカ橋」などを次々とヒットさせ、一躍スターダムに躍り上がる。しかし、80年代に入ってからは「日本海」(八代亜紀との競作、83年)などの話題作はあったものの、新勢力の台頭に押され売上が低迷。テレビへの出演機会も激減、地方での営業で食いつなぐ日々を強いられる。
③ しかし、94年よりスタートした日本テレビ系「THE夜もヒッパレ」への出演を機に、全盛期のころにはあまり表に出てこなかった、生来のキャラクターの軽妙さが受け、この時期より表舞台での露出が増加。95年に新たなアレンジを採用して、18年ぶりに「あずさ2号」を再リリースしたのを皮切りに、一時中断していた新譜のリリースも再開。外部での単独コンサートなども開催されるなど、全盛期当時のファンを中心として根強い人気を堅持したが、2007年末にそれぞれの長年の夢であった、プロボクサー(久仁彦)、ソロアーティスト(高道)への転身を図るという理由から31年に及ぶデュオとしての活動に終止符を打った。
※<楽曲について>
①加藤久仁彦・高道による兄弟デュオ。元々は二人ともソロ歌手志望であり、兄弟揃って同じ音楽学校に通っていたが、家庭の経済的事情によって共に通学することが困難となり、兄の久仁彦が世話になったある講師に自主退学を申し出たところ、その講師から兄弟でデュオを組むのであれば一人分の授業料でこのままレッスンを受け続けてもよい、との慰留を受け、これがデュオ結成の端緒となったという。
②その後、作曲家・都倉俊一の門下を経て、77年3月、この「あずさ2号」でレコードデビューを果たす。因みに「狩人」というデュオ名は都倉の命名によるものであり「大ヒットを狙い続けるハンターであり続けて欲しい」という願いを込めて付けられたものであるとされている。このデビュー作「あずさ2号」は都倉はじめ関係者たちによる熱心なプロモーションが実を結び、オリコン週間チャート最高4位、累計51.2万枚(オリコン調べ)の大ヒットを記録。以降、79年頃にかけて「コスモス街道」「青春物語」「若き旅人」「アメリカ橋」などを次々とヒットさせ、一躍スターダムに躍り上がる。しかし、80年代に入ってからは「日本海」(八代亜紀との競作、83年)などの話題作はあったものの、新勢力の台頭に押され売上が低迷。テレビへの出演機会も激減、地方での営業で食いつなぐ日々を強いられる。
③ しかし、94年よりスタートした日本テレビ系「THE夜もヒッパレ」への出演を機に、全盛期のころにはあまり表に出てこなかった、生来のキャラクターの軽妙さが受け、この時期より表舞台での露出が増加。95年に新たなアレンジを採用して、18年ぶりに「あずさ2号」を再リリースしたのを皮切りに、一時中断していた新譜のリリースも再開。外部での単独コンサートなども開催されるなど、全盛期当時のファンを中心として根強い人気を堅持したが、2007年末にそれぞれの長年の夢であった、プロボクサー(久仁彦)、ソロアーティスト(高道)への転身を図るという理由から31年に及ぶデュオとしての活動に終止符を打った。
※<楽曲について>
①この曲のタイトルにある「あずさ2号」の「あずさ」とは1966年に国鉄の新宿~松本駅間に設定された特急列車の愛称(元々は1960年に同区間に設定された臨時夜行準急列車の愛称として採用されたものであるが、この特急の新設により転用された)である。この曲は同名称が付された特急の中でも、当時、上記区間で定期運行されている特急の一番列車として、通勤・通学客の貴重な「足」として機能していた下りの「2号」を題材に、都会での暮らしを別れを告げ、新たに見つけた交際相手とこの「あずさ2号」に乗り、信州方面へと旅立つ様を描いた作品となっている。
②因みにこの「下り」の「あずさ2号」という名の列車は、78年10月ダイヤ改正に伴い、号数の付番方法が下りは奇数、上りは偶数に統一する形に改訂されたことに伴い、「あずさ3号」と改められ、この曲のヒットからわずか1年で消滅している(その後、2002年2月に特急「あずさ」全般に使用されていた183・189系電車の廃止が決定したことに伴い、そのメモリアル列車が運行された際に、「あずさ2号」の名称が一日限りで復活。往年の鉄道ファンの郷愁を誘った)。
②因みにこの「下り」の「あずさ2号」という名の列車は、78年10月ダイヤ改正に伴い、号数の付番方法が下りは奇数、上りは偶数に統一する形に改訂されたことに伴い、「あずさ3号」と改められ、この曲のヒットからわずか1年で消滅している(その後、2002年2月に特急「あずさ」全般に使用されていた183・189系電車の廃止が決定したことに伴い、そのメモリアル列車が運行された際に、「あずさ2号」の名称が一日限りで復活。往年の鉄道ファンの郷愁を誘った)。
<1977年6月27日(第451回)>
■矢野顕子と山本邦山ほか尺八奏者5氏によるジョイント企画放送、日本民間放送連盟賞(テレビ娯楽番組部門)優秀賞を受賞。
・村祭りの前に 新沼謙治詞:吉田健美 曲:杉本真人 R:1977/06/01 HC:38位
・純情派 渡 真介
詞:阿久 悠 曲:川口 真 R:1977/06/-
・風の子守唄 五木ひろし
詞:山口洋子 曲:遠藤 実 R:1977/05/25 HC:23位
・【メドレー】達者でナ~五木の子守唄 矢野顕子
・達者でナ 矢野顕子
詞:横井 弘 曲:中野忠晴/矢野顕子<編> R:1976/12/05【Album】
※アルバム「長月 神無月」(ソロデビューコンサートの模様を収録したライブアルバム)収録。オリジナルは1960年発表の三橋美智也のヒット曲。
・五木の子守唄 矢野顕子詞・曲:熊本県民謡
※この曲については現在までにリリースされた矢野の全アルバム・シングル作品のいずれにも収録されていない(但し自身のコンサートでは数度披露している模様)。
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※同回の放送では尺八奏者の山本邦山・石垣征山・川村泰山・酒井帥山・難波邦政とのジョイントで以上の2曲を披露。この企画によりヒットスタジオは77年度の日本民間放送連盟賞・テレビ娯楽番組部門で優秀賞を受賞した。
※<矢野顕子>
①71年、青山学院高等部に在学中のときにジャズクラブ「青山ロブロイ」のステージに上がり、そこの経営者であった安部譲二の知遇を得てプロミュージシャンとしての道を志す。73年にバンド「ザリバ」を矢野誠らと共に結成、74年、シングル「或る日」でレコードデビューを飾るが、発売翌日に突如解散(当時の所属レコード会社が矢野以外のメンバーに関心がなく、早期に矢野をソロデビューさせるために突如解散となったとの説あり)。その後はティンバン・アレイ、キャラメル・ママのキーボート担当のサポートメンバーとしてツアーやレコーディングに帯同し、この時期に当時キャラメル・ママのメンバーであった細野晴臣らとの親交を築いた。尚、ザリバを共に結成した縁でこの時期に矢野誠と結婚、彼との間に男児を授かった。
②76年7月、アルバム「JAPANESE GIRL」で正式にソロデビュー。片面を当時のアメリカ音楽界を代表するロックバンドの一つであったリトル・フィート(Little Feat)をメインのバッグバンドに迎えた「AMERICAN SIDE」、もう一方をあかだ森魚・鈴木茂らと日本の当時の新進気鋭のクリエーターらとのセッションを中心とした「日本版」と題して製作されたこのアルバムではオリジナル曲「気球にのって」「へりこぷたあ」などに混じって、国民的歌手・藤山一郎の初期代表作の一つである「丘を越えて」や、生まれ故郷である青森の民謡をベースとした「津軽ツアー」、ねぶた祭りを題に取った「ふなまち唄」などといった、日本のポピュラー音楽のスタンダードといえる領域にも入り込み、大胆なアレンジを展開。このアルバムは業界内外で絶賛を浴び、一躍、ニューミュージック界の鬼才として注目を集める存在となる。
③79年に矢野と離婚した後、自身のオリジナル作品の創作活動と並行して、日本のテクノサウンドの先駆的存在であるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のサポートメンバーとしてコンサートツアーに帯同。この競演をきっかけとしてYMOのメンバーの一人、坂本龍一との交際を始め、80年には坂本との間に長女で現在はミュージシャンとして活動する美雨を出産。当初は内縁の夫婦関係であったが82年に正式に坂本と結婚。以降、YMOが解散した後も坂本が彼女の音楽活動での主要なブレーンとして参加。81年には坂本が作曲を手掛けたシングル「春咲小紅」がカネボウのキャンペーンソングとして採用されたことをきっかけにヒット(オリコン最高5位、累計売上:37.0万枚)。楽曲製作のスタンスも前夫・矢野誠プロデュースの時代のころの和風テイスト溢れるものから、テクノサウンドをベースとした作風を経て、YMO解散後に発売されたアルバム「オーエス オーエス」(84年)以降はで柔和なムードが漂う独自の音楽観を確立。その作風や育児・家事と並行しながら演奏・創作活動を定期的に敢行して行く活動スタンスはキャリア・ウーマンの代表格として同世代の女性からの厚い支持を獲得してゆく。
④87年に家事専念を理由として一時音楽活動を休業した後、89年、アルバム「WELCOME BACK」より復帰。90年に一家揃ってアメリカ・ニューヨークに生活の拠点を移したが、程なく夫である坂本とは別居(のち2005年に正式に離婚)。以降、現地のジャズミュージシャンや宮沢和史(THE BOOM)、奥田民生ら日本国内の後輩ミュージシャンと積極的なセッション活動を展開するほか、絵本創作・アニメ声優など新たな領域にも挑戦。1982年より開始した、ピアノ1本だけの弾き語り形式による「出前コンサート」も途中幾度かの中断期間をはさみながら、現在も尚、生涯のライフワークとして好評を博している。
⑤尚、プロミュージシャンとして活動を開始したごく初期の頃は、生家の姓である「鈴木」姓を名乗っていたが、最初の夫である矢野誠との結婚を機に、矢野との離婚~坂本龍一との結婚・離婚を経て、今日に至るまで一貫して「矢野」の姓を音楽活動での通名として使用している。
①71年、青山学院高等部に在学中のときにジャズクラブ「青山ロブロイ」のステージに上がり、そこの経営者であった安部譲二の知遇を得てプロミュージシャンとしての道を志す。73年にバンド「ザリバ」を矢野誠らと共に結成、74年、シングル「或る日」でレコードデビューを飾るが、発売翌日に突如解散(当時の所属レコード会社が矢野以外のメンバーに関心がなく、早期に矢野をソロデビューさせるために突如解散となったとの説あり)。その後はティンバン・アレイ、キャラメル・ママのキーボート担当のサポートメンバーとしてツアーやレコーディングに帯同し、この時期に当時キャラメル・ママのメンバーであった細野晴臣らとの親交を築いた。尚、ザリバを共に結成した縁でこの時期に矢野誠と結婚、彼との間に男児を授かった。
②76年7月、アルバム「JAPANESE GIRL」で正式にソロデビュー。片面を当時のアメリカ音楽界を代表するロックバンドの一つであったリトル・フィート(Little Feat)をメインのバッグバンドに迎えた「AMERICAN SIDE」、もう一方をあかだ森魚・鈴木茂らと日本の当時の新進気鋭のクリエーターらとのセッションを中心とした「日本版」と題して製作されたこのアルバムではオリジナル曲「気球にのって」「へりこぷたあ」などに混じって、国民的歌手・藤山一郎の初期代表作の一つである「丘を越えて」や、生まれ故郷である青森の民謡をベースとした「津軽ツアー」、ねぶた祭りを題に取った「ふなまち唄」などといった、日本のポピュラー音楽のスタンダードといえる領域にも入り込み、大胆なアレンジを展開。このアルバムは業界内外で絶賛を浴び、一躍、ニューミュージック界の鬼才として注目を集める存在となる。
③79年に矢野と離婚した後、自身のオリジナル作品の創作活動と並行して、日本のテクノサウンドの先駆的存在であるイエロー・マジック・オーケストラ(YMO)のサポートメンバーとしてコンサートツアーに帯同。この競演をきっかけとしてYMOのメンバーの一人、坂本龍一との交際を始め、80年には坂本との間に長女で現在はミュージシャンとして活動する美雨を出産。当初は内縁の夫婦関係であったが82年に正式に坂本と結婚。以降、YMOが解散した後も坂本が彼女の音楽活動での主要なブレーンとして参加。81年には坂本が作曲を手掛けたシングル「春咲小紅」がカネボウのキャンペーンソングとして採用されたことをきっかけにヒット(オリコン最高5位、累計売上:37.0万枚)。楽曲製作のスタンスも前夫・矢野誠プロデュースの時代のころの和風テイスト溢れるものから、テクノサウンドをベースとした作風を経て、YMO解散後に発売されたアルバム「オーエス オーエス」(84年)以降はで柔和なムードが漂う独自の音楽観を確立。その作風や育児・家事と並行しながら演奏・創作活動を定期的に敢行して行く活動スタンスはキャリア・ウーマンの代表格として同世代の女性からの厚い支持を獲得してゆく。
④87年に家事専念を理由として一時音楽活動を休業した後、89年、アルバム「WELCOME BACK」より復帰。90年に一家揃ってアメリカ・ニューヨークに生活の拠点を移したが、程なく夫である坂本とは別居(のち2005年に正式に離婚)。以降、現地のジャズミュージシャンや宮沢和史(THE BOOM)、奥田民生ら日本国内の後輩ミュージシャンと積極的なセッション活動を展開するほか、絵本創作・アニメ声優など新たな領域にも挑戦。1982年より開始した、ピアノ1本だけの弾き語り形式による「出前コンサート」も途中幾度かの中断期間をはさみながら、現在も尚、生涯のライフワークとして好評を博している。
⑤尚、プロミュージシャンとして活動を開始したごく初期の頃は、生家の姓である「鈴木」姓を名乗っていたが、最初の夫である矢野誠との結婚を機に、矢野との離婚~坂本龍一との結婚・離婚を経て、今日に至るまで一貫して「矢野」の姓を音楽活動での通名として使用している。
【司会】 芳村真理・井上 順
(参考)この頃の主な出来事
・06/15 和歌山・有田市で集団コレラ発生。
・06/30 東南アジア条約機構(SEATO)解体。
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