理解とういのは、
一緒になること、
一緒に悩むこと、
そして悩む人の心に共感できることである。
『いのちの言葉』(日野原重明さん著から)
広辞苑によれば「理解」とは、物事の道理を悟り知ること。
意味をのみこむこと。
ひとの気持ちや立場がよく分かること。
わたしはどれほど物事の道理を悟って生きているか、
全く自信がない
一緒に悩んであげているか、
その対象がいない
悩む人の心に共感できているか
本当に心を傾けたか、
全く自覚がない
でも考えたい
分かり合いたい
お互いの違いを
子供たちが生きる社会のために
老人が生きる価値を見出すために
これからの自分のために
未来の社会のために
平和のために
しかしこの地球には
平和を知らない人がいる
アフリカ、アジア、中近東
だから平和の求め方が分からないという
そんなことも理解していこう
一緒になること、
一緒に悩むこと、
そして悩む人の心に共感できることである。
『いのちの言葉』(日野原重明さん著から)
広辞苑によれば「理解」とは、物事の道理を悟り知ること。
意味をのみこむこと。
ひとの気持ちや立場がよく分かること。
わたしはどれほど物事の道理を悟って生きているか、
全く自信がない
一緒に悩んであげているか、
その対象がいない
悩む人の心に共感できているか
本当に心を傾けたか、
全く自覚がない
でも考えたい
分かり合いたい
お互いの違いを
子供たちが生きる社会のために
老人が生きる価値を見出すために
これからの自分のために
未来の社会のために
平和のために
しかしこの地球には
平和を知らない人がいる
アフリカ、アジア、中近東
だから平和の求め方が分からないという
そんなことも理解していこう
怒られても「分かりました」
会話のあとに「分かりました」
そんな安易ではいけないのですね。
「仕事」「自立支援」「福祉」「安楽」「老健」
知ってる言葉だけれども、何処まで知っているのか。
「知っている」を安易に使うと、後で全く知らない自分に嫌気がさしてきます。
知ろうという、努力は必要ですよね。
どんなに、頭でっかちだといわれようとも。
わたしもついつい「知らない」ことが恥だと思って、見栄をはったり、知らないこと不安に思ったり。
しかし偉い先生が「知らない」ことを伝え、教えをこう場面を見ることがあります。
教えてもらう謙虚さ、そこが知ることの原点だとしたら、知っていることを主張するのにエネルギーは使う必要はないのかと思ったりします。
場面場面ですけど。
でも自分が守らなければならないものがあるとき、そのときには違う行動もあるかもしれません。
理解する事の、奥深さを改めて思い知らされました・・・
安易に発する「分かった」は、本当の理解ではなかったと・・・
青森の秋は深まっていることと思います。
今月末の青森出張を楽しみにしています。
「分かった」とうなずくこと、そこに共感するものがないといけないのかもしれません。
私の感ずることですが、どうしてもそこには謙虚なスタンスが必要だと思います。