利休の茶室日記

侘び寂びを求めて、何を思う

読むことは蓄積すること、書くことは築くこと

2005-07-31 | 自然
山にあこがれ、学生時代は、山を学び、作家・新田次郎氏の山岳小説を読み漁りました。

最近、新田次郎氏の娘さんが自分の父について書いた本(※)で、新田氏が日頃から「読むことは蓄積すること、書くことは築くこと」とおしゃっていたことを知りました。
私を突き動かした言葉です。

そして、私のブログのテーマになりました。


※「父への恋文―新田次郎の娘に生まれて」藤原咲子著(山と渓谷社)

「仕事」いう字

2005-07-30 | 高齢社会

「光あるうちに」道ありき第三部信仰入門編 (三浦綾子著)から

(以下、抜粋)
仕事という字を見てみよう。
仕(つか)える事(つか)えると、二字とも、まさしくつかえるとと読む。
仕事とはつまり仕えることなのだ。働くという本来の字も見てみよう。にんべんに動くと書く。人のために動くこと、それが働くことなのだ。
私たちに、もし生きる意欲がなくなっているとすれば、それは適当な仕事がないからではなく、人につかえる、人のために動く気持ちが失われているからではないのだろうか。生きているということは動いているということだ。心臓がかすかにでも動いているうちは生きている。死ぬとは、全く動かないことだ。死ねば呼吸も止まり、心臓も全く停止する。だが生きていて死んでいる状態の人間がいる。それは、人のために決して動かない人間だと思う。
(以上、抜粋)


人間が生きる上で、「仕事」のなす役割は大きいと思います。
自分自身と他人の関係の中で、自分のミッションとポジションを知ることは、人間尊厳のこころを育ててくれます。
高齢者福祉に身を置く時、この重要性をいかに伝え、実践していくことができるか。またひとつの課題を見出しました。

森は海の恋人

2005-07-29 | 自然
 




宮城県気仙沼の牡蠣養殖をされている漁民たちに「森は海の恋人」という言葉があります。それは山村に住む歌人熊谷龍子さんの「森は海を、海は森を恋ながら、悠久よりの愛を紡ぎゆく」という一首から生まれた言葉です。海中生物の減少に気がついた漁民が、その原因が荒れた山にあることを知りました。
そして海を守るために、山に漁民自ら植林を始めるという活動が生まれました。
 海と山を結ぶ一本の川、それは命の源であり、生命を育む広葉樹などの腐葉土層を通ってきた水は食物連鎖の底辺を支える食物プランクトンを大量に育ててくれます。その水が水田に注がれ稲穂を育て、また海に流れつき多くの生物の栄養素になります。

かつては生野銀山で栄えた兵庫県朝来市生野町は、瀬戸内海に流れる市川、日本海に流れる円山川の分水嶺です。生野の土地に蓄えられた水が、海に至るまでの数々の町に住む人々の生活を支え、そして海を生かしていることを思う時、「生野は海の恋人」になります。また瀬戸内海と日本海の豊富な海の幸は、生野の森が補完しているという自然の摂理から多くのことを学ぶことができます。

私は高齢者福祉の担い手として、豊かな自然の恵みの中で、生活文化を営んできた人たちの歴史を継承していきたいと願っています。それが地域福祉の原点であり、地域の活性化に対する私の役割だと思います。

奴雁(どがん)

2005-07-29 | 心に残る言葉
福沢諭吉語録です。

「ドンネルの男・北里柴三郎」(山崎光夫著)より

(以下、抜粋)
学者は国の奴雁(どがん)である。雁の群れが原野で餌をついばんでいるとき、そのうち必ず一羽は首をあげて四方の様子をうかがい、不意の難に備えて番をしている。この鳥のことを奴雁という。学者もまだ奴雁でなければならなず、危険を顧みず、また民衆の発想を超えて、将来を拓いていかねばならない。
(以上、抜粋)


高齢者福祉において、「奴雁(どがん)」の役割を担ったのが、故・京都大学大学院の外山義教授だったような気がしてなりません。そして今、特別養護老人ホームは全室個室ユニットケア型となり、「施設」から「住まい」への転換が実現しました。
これからも、誰かが「奴雁(どがん)」の役割を継承していかなければならないと思う、今日この頃です。

日野原重明先生の「生き方哲学」より

2005-07-29 | 心に残る言葉

聖路加国際病院・日野原重明先生の「生き方哲学」(中央法規)より

(以下、抜粋)
アメリカでは主治医のことをアテンディングと言いますが、それとは別に、プライマリ・フィジシャンという言葉が近年よく使われます。
同じ言葉が、看護の上でも用いられます。プライマリ・ナースという表現です。

プライマリというのは、全人的にその患者さんの問題を取り上げ、狭い意味での医療でけではなく、心理的に、または社会的な観点からも患者さんを理解し、緊密なコミュニケーションを保ちながら、いつも患者のために、また患者の側に立ち、患者と共にむずかしい問題解決をする医師や看護師のことをいいます。
(以上、抜粋)


文中の「患者」を「老人」に置き換え、特別養護老人ホームにおける「生活援助」のあり方の参考にしてみたいと思います。認知症や寝たきりの老人を、『全人的』に受け止めたとき、何か見出すことができそうな気がします。

老人と子どもの民俗学

2005-07-29 | 高齢社会




老人に学び、子どもに救われて

「老人と子供の民俗学」(白水社)宮田登著より

昔から老人と子どもは、密接な関係をもち、社会のバランスを維持していたそうです。

(以下、抜粋)
姥捨て伝承
親子孫三代がそろって山中へ行く話しがある。当主が年をとった父親を捨てるのに自分の息子を連れてゆく。山中で父を置き去りにするとき、父親を背負ってきたモッコも捨てようとした。すると彼の息子が次にはお前(父親)を捨てるのに使うのだからと言い、そのモッコを持って帰ろうとする。その一言が鍵となって姥捨てはやめられることになった。

運動会
子供のしつけや教育は、各地域社会ごとに村や町全体が行うべきだという考えは、日本に古くからあり、それが近代以後学校教育の中にも取りいれられるようになった。野外文化活動の原型の一つに地域社会の祝祭があり、その形態はさまざまであるが、小中学校の運動会などにもその色彩が強く伝えらている。
飯島吉晴によると、学校の運動会には、日ごろ四角い教室に閉じこめられた小さい子供の霊魂を、円環をなした運動場や遊戯のなかに思い切り解放するという「祝祭」の要素が込められているという。
運動会はそうした四角の時間と空間をいったん断絶してしまう、いわばハレの野外文化ということになる。
日常生活の不均衡を運動会というハレの場で破壊し、そしてさらに回復させて最後に統合にまで至るという「死と再生」の観念を、そこに読みとることができるとしている。

応援のフレーフレーというかけ声は、日本の古語で「ターフレターフレ」つまり「狂え狂え」の意味だという柳田国男の説がある。確かに、非日常的な空間のなかで、日常性からいったん解放され、生き生きとした活力を再び獲得することが、野外文化活動の大きな目的なのであろう。
(以上、抜粋)


以上のことから、
老人の生活には、日常と非日常の両方のバランスが必要だということを知ることができました。
田舎育ちの私も、せめてお盆と正月には、我がふるさと帰らなければ、その年はつらいものを感じてしまいます。
老人ホームにおける施設の夏祭りも、非日常性です。夏祭りにも地域生活を支えた文化的意味が存在します。地域に生き続ける入居者の生活を支える大切な営みのひとつです。企てる職員が大変だからこそ、行事を全うすることに意味が増し、老人の生活は一年を維持されます。

安定した日常を維持してくれる非日常性。何かそこから、ひとつの光明が見えてくる気がします。

認知症の定義

2005-07-29 | 高齢社会



ぼけ予防協会トピックスより
「痴呆」から「認知症」へ

(以下、抜粋)
厚労省、一般普及へ努力

 厚生労働省の「『痴呆』に替わる用語に関する検討会」は、「痴呆」を「認知症」に替えることで合意した。それを受けて同省は、介護保険法など関係法令や行政文書などの表記を「認知症」に変更するとともに一般への普及に努める。

 昨年4月に東京、大府(愛知)、仙台にある高齢者痴呆介護研究・研修3センター長から厚生労働大臣に「『痴呆』という言葉には、蔑視的意味があり、見直してほしい」との要望書が提出され6月、有識者7人による同検討会が設置された。

 関係団体の代表者などから意見聴取をするとともに、同省のホームページなどで「認知障害」▽「認知症」▽「もの忘れ症」▽「記憶症」▽「記憶障害」▽「アルツハイマー(症)」を「痴呆」の代替用語6候補として提示、国民から意見を集め、6333件の応募があった。最多は「認知障害」(1118件)だったが、すでに精神医学の分野で別の概念で使われているとの指摘もあり、2番目に多かった「認知症」(913件)を代替用語にすることで合意した、という。

 意見募集の際に「認知症」に対し示された「考え方・理由」には、【痴呆の本質を端的に表現すると、「認知障害により、社会生活や職業上の機能に支障をきたす状態・症状ということになる」。(注)「認知」とは、記憶や認識、理解、思考、判断、言語といった人の持つ知的能力を幅広く指す学術用語。こうした痴呆の本質に着目した案であり、症状や生活障害の多様性を含意している。「症」の字を用いることにより、痴呆が単なる加齢現象ではなく病気の一種であることも表現できる】と説明されている。

 また、意見募集では「痴呆」という言葉について(1)一般的な用語や行政用語として使用される場合(2)病院等で診断名や疾病名として使用される場合、についてそれぞれ「不快感や軽蔑した感じを伴う」、「特に感じない」について聞いたが(1)については、「伴う」が56.2%、「特に感じない」が36.8%、(2)については、「伴う」が43.9%、「特に感じない」が43.5%だった。

 検討会メンバー=高久史麿・自治医科大学長、日本医学会長(座長)▽伊部俊子・聖路加看護大学長▽高島俊男・エッセイスト▽辰濃和男・日本エッセイスト・クラブ専務理事▽野中博・日本医師会常任理事▽長谷川和夫・高齢者痴呆介護研究・研修東京センター長、聖マリアンナ医科大学理事長▽堀田力・さわやか福祉財団理事長

毎日新聞 「PLATA」2005.2.13より

「痴呆の本質は、『認知障害により、社会生活や職業上の機能に支障をきたす状態・症状』。

『認知』とは、覚える、見る、聞く、話す、考えるなどの知的機能を総称する概念。
痴呆に関しては、記憶機能の低下のほか、失語(言語障害)、失効(運動機能が正常にも関わらず、運動活動を遂行することができない)、失認(感覚機能が正常にもかかわらず、物体を認知同定することができない)実行機能障害(計画をたてて、それを実行することができない)などの症状が見られる。
こうした『痴呆』の本質に着目し、『認知』を用い、語尾を病気の状態を示す『症』とするのは、『痴呆』のなかには、一部治癒もしくは症状が安定するものがある一方、他の多くの場合は進行性であり状態が固定していないため」と定義された。
(以上、抜粋)


私は、1年前のある日、ある人から、「危ないから、痴呆老人を外に出さないようにしてほしい」と言われたことを思い出しています。呼び名が「痴呆」から「認知症」に変わって、そうおっしゃった人の理解が変わってくれることを期待しています。
周囲の方々の理解が変われば、認知症高齢者の生活が変わるきっかけがつくれそうな気がします。そして認知症高齢者の生活を支援する者として、さらに専門性を持たねばならないと、気持ちを新たにしています。

「生活」を考える

2005-07-29 | 生活
「生活」とは何でしょうか?

「食って、排泄して、寝る」、これが生活だと言われることもありますが、ある社会学者の「生活とは、生き続ける努力の営み」という言葉が心に強く残っています。これには「生きる」、「続ける」、「努力する」、「営む」という四つの行動を意味する言葉が含まれ、さらに人間の確固たる意志がみえます。
故・京都大学大学院の外山義教授は、これまで施設ケアには「三つの苦しみと五つの落差」があると指摘しました。三つの苦しみは、一番身近な人が亡くなる苦しみ、地域を離れる苦しみ、生活の落差の苦しみです。そして生活の落差とは、空間的落差、時間の落差、規則の落差、言葉の落差、役割喪失の落差という五つ落差です。これらの苦しみを取り除き、落差を埋めなければ、高齢者の生活は豊かにはなりません。
厚生労働省は「個人の尊厳を尊重した介護を」を目指し、新型特別養護老人ホームとして段階的にユニットケアと個室を推進しています。老人ホームを個室化するなど「生活の再編」を目指すことがのぞまれています。

常に主人公は老人自身であり、それを支援するのが私たちの役割です。特別養護老人ホームは、これからも生き続ける努力の営みがなされる生活の場でなければならない。このことが、私が、故・外山義教授から引き継いだ「魂」だと思っています。