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神聖ローマ帝国ー4 バチカン・ローマ教皇との関係-1

2024-03-16 04:40:30 | ヨーロッパ・中東・アメリカ全般、歴史・文化・食文化・芸術・建築

・神聖ローマ帝国-1 古代ローマこそヨーロッパ人の理想https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/533c7414e9fa85b426143633f15f6078

・神聖ローマ帝国-2 『古代ローマ帝国の留学制度』と『ローズ留学制度』『フルブライト留学制度』
https://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b9e783d4c5789e5a08f347e2241ab12a

・神聖ローマ帝国ー3 欧米人は古代ローマと神聖ローマ帝国(ハプスブルグ帝国)が大好きhttps://blog.goo.ne.jp/renaissancejapan/e/b03362e35f9c226b7d9c4df7cff0dc73
からの続き

 

ご存じ、ハプスブルグ家は風光明媚ではありますが当時クソ田舎のスイス出身。 そして神聖ローマ帝国(ハプスブルグ帝国)の首都はオーストリアのウィーンです。

なんで神聖・ローマ帝国なのか? なんでやねん?と、誰でも素朴な疑問を持ちます。 私を含め多くの日本人もハプスブルグ家が大好きです。 しかしこの素朴な疑問に応えれる人は少ないでしょう。

私が勤めていた会社は、ドイツのミュンヘンに本社があるグローバル・エレクトロニクス企業でしたが、配属先がオーストリアだったので、オーストリアのハプスブルグ大好き人間から腐るほど説教を受けたのである程度答えることが出来ます。

ハッキリと言ってしまえば、それはバチカンの(悪魔のような?ロスチャイルドも真っ青な強欲)ローマ教皇との関係です。 それではその歴史を見ていきましょう。

 

神聖ローマ帝国とバチカンとの関係-1

キリスト教がテオドシウス帝により、ローマ帝国の国教とされたのはAD391年のことでした。以来キリスト教は飛躍的に発展します。

その中で使徒の長であったペテロの殉教の地に建てられた聖ペテロ大寺院(サンピエトロ寺院)を擁するローマ教会は使徒権を主張し、キリスト教世界のなかでゆるぎない地位を築き上げてきました。

しかし、ローマ帝国の東西分裂とそれに続く西ローマ帝国の滅亡以来、ローマ教会は当方でやがてギリシア正教会に発展するコンスタンティノープル教会の後塵を拝し続け、ローマ教皇の首位性も怪しくなってきました。

そんな折、アルプスの北、ゲルマンで一大勢力が勃興しようとしています。 これはローマ教会にとっては先載一遇のチャンスです。 ローマ教会はキリスト教による王権の拡大という餌をちらつかせます。

 

ローマ教皇領の起原
王権にしても。せっかく地方部族を平らげて中央より代官を派遣しても、いつの間にかこの代官という官職が世襲化し、中央の指示に従わない地方部族と化してしまうというイタチごっこが繰り返していました。

それならば、平定した土地を教会に寄進し、その行政を司教に任せれば、聖職者独身性により世襲の問題は起こらず、国の高級官僚にとどまることができるというわけです。

問題は、その司教を誰が叙任するかです。 これが後の『叙任権闘争』に発展しますが、ここでは当時の王権と教権の目論見を知るだけで良いでしょう。

ともあれ、王権と教権が提携し、ピピンはAD751年にフランク国王に就きます。 それまでのカロリング朝の閉鎖です。

当時のローマ教会の心配事は、ローマの周囲を支配するランゴバルト王国の脅威でした。ローマ教会は王朝交代の口利き料として、ピピンにランゴバルト討伐を要求します。

そして、どこまでも強欲なローマ教会は討伐成功の暁には、イタリア中部の領地をローマ教会に寄進するという約束を取り付けます。 これが後のローマ教皇領の起原です。

 

ピピンは王としての正統性を裏付けるためにローマ教会の要請に応えます。 そしてランゴバルト問題を決着させ、更に領地拡大のために西ヨーロッパを転戦し、54歳でこの世を去りました。

ピピンの死後にフランク王国は当時の男子均一相続制により、長男カールと次男カールマンとで二分されました。 しかし次男のカールマンが早死にし、カールがフランク王国の単独支配者となります。

それからのカールの活躍は目覚ましいものがあり、父ピピンの戦果をはるかに凌ぎ、カールはザクセン。バイエルン、ボヘミア、イタリア、スペインと領地を獲得しフランク王国最大の版図を広げました。

これはキリスト教社会の果てしなき拡大であり、かつての西ヨーロッパ帝国の復興でした。

 

フランク王カールの皇帝戴冠

当時のローマ教皇はレオ三世。 然しその権力基盤は脆弱でローマ貴族の抵抗に手を焼いていました。 それどころか、ローマ教会が分裂しかねないほどの危機を迎えていて、レオ三世はフランク王カールに教会の保護者となることを考えました。

なんとしてもカールを味方につける。 強硬はその作戦をいろいろと考え、そして破天荒な計画を思い付きます。

西ローマ帝国の復活です。 フランク王カールを西ローマ帝国皇帝に強硬自らの手で載冠する事です。 そしてカールに深紅の衣をまとわせるのです。

古代ローマでは皇帝は尊厳しるしとして、紫の衣を身に着けていました。  復活なった帝国の皇帝がローマ教会の保護者として威風堂々とひるがえすマントの色は断じて紅でなければなりません。

すなわちレオ三世の目論む復活西ローマ帝国とは、ローマ教会主導のもとのキリスト教帝国に他ならないのです。

 

ちょっと話の前段が長くなりすぎたので、後のハプスブルグとローマ教会の関係は別途紹介しますが、西ヨーロッパ(帝国)とローマ教会(バチカン)との関係の基礎となる背景は逆に分かり易かったのではないかと思います。

                    

 


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