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真柄十郎左衛門の墓(越前市)

2024-04-20 | 行った所

武生ICの東側に味真野と呼ばれる地域が広がる。和紙の里として知られる今立の南側で、越前市真柄・五分市・池泉などの町名になる。
越前市の東運動場のすぐ脇の興徳寺という寺に真柄十郎左衛門の墓がある。
*興徳寺

真柄を名字の地として名乗った一族は、いつごろからかこの地に根を張った地侍とか国人とか呼ばれる人たちだったのだろう。朝倉家の家臣に数えられるが、朝倉の直参というか有力武将は「景」の字のつく名が多いので、そうではない真柄氏は些か距離のある関係だったかもしれない。
十郎左衛門は普通直隆という人物だとされるが、弟直澄、または同じ十郎左衛門を名乗った父の家正との混同があるのではないか、とも言われる。
十郎左衛門は、身の丈7尺(2.1m)の巨漢で、ものすごく大きな大太刀を振り回す、越前の赤鬼と呼ばれた猛将で、まるで講談に出てくる人物のようだ。事実十郎左衛門の誕生譚を語る講談があるそうだ。
朝倉始末記にも足利義昭の朝倉館御成の際、真柄十郎左衛門が大太刀を振るって見せる余興があったとあるそうだが、私が見た本にはなかった。見たのは「日本思想体系17 蓮如 一向一揆」の中に収録されてある朝倉始末記で、もう一つは「現代語訳 朝倉始末記」だ。もっと手に入れにくい異本がいくつかあるのだろう。ともかくその二冊共に真柄が出てくるのは、義昭の朝倉館御成の時の道の警備である。どこそこの辻は誰それ、と名前がずらずら上がっている中に、「三輪小路には真柄備中守」とあるだけである。
姉川の戦いにもない。そもそも「思想体系」本には姉川の合戦そのものがない。野村とか三田村の戦いとかともいうそうだが、元亀1年(1570)6月の戦いがないのだ。4月の金ケ崎崩れの後は9月まで飛んでしまう。五月に朝倉景鏡が近江に出陣し、横山城を築城したりするのだが、織田勢が来ないとか言って帰ってきている。
「現代語訳」の方は姉川の合戦があるにはあるが、朝倉が勝って信長は徳川勢の加勢で逃げた、というようなことしか書いてない。戦死者の名などない。
ただ、二冊とも、近年病死・戦死のものが多く、千馬単位の兵を退きまわす将がいなくなり、口達者な若輩者ばかりになった、と嘆いている箇所があり、そこに出てくる名前に、前波・小林・黒坂等姉川で死んだらしい者が出てくる。これらの名は「信長公記」の浅井・朝倉の戦死者として出てくる。「信長公記」では戦死者の筆頭は真柄十郎左衛門である。
ともかく、真柄十郎左衛門という武者がいて、朝倉軍の中で戦い、討ち死にしたものがいるのは確かのようである。
*十郎左衛門の墓 馬鹿に大きな下駄がある

真柄の大太刀というのは大変有名で、真柄の大太刀と称するものを見たことがある。模擬太刀でもって見てもいいということだったが、とてもじゃないが振りかぶれそうもない代物だった。
*ウィキペディアから
姉川合戦図屏風には、黒馬に乗り、すごい形相で両手で頭上に血刀を振りかざす真柄が描かれている。ただしこの絵は天保8年の銘がある。姉川から300年近く経っている。


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