物忘れ防止のためのメモ

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義昭御所と南陽寺址(朝倉氏遺跡)

2024-04-19 | 行った所

朝倉氏滅亡の原因は、最後の当主となった朝倉義景のキャラクターや様々な要素が考えられるが、これも室町最後の将軍となった足利義昭に振り回され過ぎた、ということも挙げられるのではないか。
永禄10年(1567)に、前年から敦賀にいた義昭は越前一乗谷にやってきた。義景に将軍を奉じて上洛する意思はなかったと思うが、まさに国を挙げて、というような大歓迎会を催する。
それはそれは大掛かりなもので、義昭のために御所を新築。義昭を朝倉館に招待するため御成御殿も新築。古式にのっとり様々な儀式も執り行う。義昭の元服式や将軍就任式まであったらしい。御相伴衆やらなにやら公家衆も集まる。事実上の浪人といっていい義昭にそんな御付の人たちがいたわけもなく、みんな朝倉の招待だろうか。京都からの旅費・衣装代ももったことだろう。
御成の献上品は、太刀6振り・腰刀1振り・馬2頭・鎧腹巻三つ物各一領・堆紅の盆、絵画、小袖多数、とある。1989年出版ではあるが「織田信長と越前一向一揆」の中で辻川達雄は、太刀一振りの価格を米を通して現代のものにして3375万円と見積もっている。6振りで少なくとも3億円は超えただろう。また堆紅(ついしゅ)の工芸品は明からの輸入品で最上級の贈答品だったらしい。朝倉始末記には天文20年(1551)に三国湊に唐船が来たことを記しているし、朝倉氏は琉球貿易に手を染めていたらしくもある。朝倉遺跡の出土品には輸入品も見られるから、明の工芸がたくさんあっても不思議はないが、高価なものであったことは間違いない。
酒宴もいちいち大仰なものだった。料理80種、17献に及ぶ酒杯。一献ごとに、またぞろ献上品が奉げられる。朝倉家臣のお目見えもあるが、彼等にも献上品が必要である。将軍様から家来に下賜品があるではない。家来が御会いしてくださってありがとうと献上品を差し出すのだ。他の将軍家御成とかの例を知らないから何とも言えないが、気の遠くなるような出費が続いている。
義昭がらみの宴会は永禄11年(1568)春の南陽寺の糸桜の花見をもって終わり、義昭は美濃へ去る。義景に見切りをつけ、信長のところへ行ったのである。
この頃の朝倉と織田の関係は特別の敵対関係にはなかっただろう。単に近国の大名同士である。決定的悪化するのは義昭の斡旋により、本願寺と朝倉の和議がなってからだ。本願寺と厳しく対立する信長にとって、本願寺の味方は等しく敵となる。
朝倉は元亀年間の実り無き出兵に消耗していく。

義昭の御所址は、朝倉遺跡上城戸を出て一乗滝の方へ行く道沿いにある
*御所の案内板の地図
*御所址の遺構

南陽寺は観光地朝倉氏遺跡のメインとなっている朝倉館跡の北隣の小高い所だ。館跡からは登って英林孝景墓を回っていくが、瓜割清水の近くの民家の脇からから小道を上がっていくこともできる。
*下から見上げる南陽寺址。桜の植えてあるテラス状のところが南陽寺址になる
*南陽寺址碑
*南陽寺庭園址
*歌碑 もろ共に月も忘るな糸桜年の緒ながき契りと思はば(義昭) 君が代の時にあひあふ糸桜いともかしこき今日の言の葉(義景) 共に南陽寺糸桜花見の宴での歌だそうだ
*糸桜 朝倉遺跡全体にしざれ桜が多く植えてある。

*朝倉館跡から唐門方向


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