物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

埼玉県本庄市 児玉党・秋蚕の碑

2021-10-27 | 行った所

幼くして父を亡くした義仲は木曽の山中で中原家に育つ。養父兼遠、幾歳か年長であった兼平を兄として親友として、側近の家来として生い立つ。兼平の上に兼光がいる。兼平は今井、兼光は樋口と名字を名乗る。兼遠は義仲の挙兵時にはいたようだが、その後全く出てこないところから、まもなく死んだのだとされる。次の後見人は樋口兼光だったのだろうか。
寿永3年五月、義仲は大津で討ち取られる。兼平も壮絶な自害を遂げる。兼光はその時、紀伊に行家を追っていたのだ。義仲は瀬田と宇治で鎌倉軍に対処するだけではなく、厄介叔父行家にまで手を割かざるを得なかったのだ。
兼光は敗戦の報に京へ取って返す。もとより斬り死に覚悟だ。しかし、途中で旧知の児玉党の面々に出くわす。兼光は齊藤実盛の顔を見知っていたりもしているし、関東に交際範囲が広かったのだろう。「児玉党にむすぼほれたりければ」児玉党とは婚姻関係があったのだろう。児玉党は寄り合い、樋口を助ける算段をする。我らの勲功に替えて樋口の助命を願う。これを受けた樋口について、平家物語の言葉は辛らつだ。「聞こゆるつわものなれども、運や尽きにけむ」児玉党は義経を通じ、兼光の助命を願い出る。しかし院御所からの返答は死罪だった。法住寺合戦での狼藉が理由だという。更に木曽の四天王の一角を残せなかったのだろうが、何やら中国の故事を引いたお沙汰があったとか仰々しい。
京の大路を義仲らの首が引き回される。この引き回しに兼光は自ら望んで、生きながら付き従う。生き恥をさらしても義仲・兼平と共に歩む。この残酷な引き回しの後、兼光もまた斬られた。

この後の一の谷合戦で平重衡が生け捕りになるが、生け捕った庄の四郎高家は児玉党の一員だそうだ。

児玉党の本拠は埼玉県本庄市にあったとか。

雉が丘城跡に登って見れば、その地図は鎌倉街道・中山道の脇往還が走り、この地が交通の要衝であったことが理解できる。

 室町時代の築城らしいが、この場所を押さえた者が優位に立つのはそれ以前からだったろう。鎌倉街道中最大規模の市が立ったというが栄えていたのだろう。


またこの地は養蚕が盛んだ。桐生・足利・富岡と群馬県の方が有名だが、この辺りも一帯だろう。
明治の殖産興業は将に生糸の輸出に支えられていた。生糸増産のための様々な工夫がなされた。

たまたま見かけた碑なのだが「秋蚕(しゅうこ)の碑」という。


春にしか生まれなかった蚕を工夫により秋以降も孵化し繭を作らせることができるようになった。様々な方面からの反対や妨害もあったが、秋蚕は広まり、生糸増産に大いに寄与した、というようなことが解説されていた。

 

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