物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

京都 東山 高倉天皇陵

2021-10-31 | 行った所

平家物語第6巻。治承5年1月、高倉帝が死んだ。既に子の安徳帝に譲位し、院となっていた。後白河院がいるので新院と呼ばれている。まだ22歳。母建春門院滋子既に亡く、共に強烈な個性を放つ父後白河、舅清盛の間で辛い人生であった。
物語では、この後、高倉帝に関するエピソードが3つ続く。
①紅葉:紅葉を愛した高倉は御所に紅葉を植えさせるが、野分で葉がすぐ落ちてしまった。下役人たちが紅葉を捨て、残った枝木を焚いて暖を取り、酒を飲んだ。高倉は下役人を咎めず、白楽天の詩を詠じて笑った。
②葵の前:高倉は女童が気に入り近くに召し使った。それが噂となり、高倉は召すのをやめたが未練あり、「しのぶれど」の古歌を女童に送った。和歌を見た女童は宿下がりし、死んだ。
③小督:小督は美人で琴の名手。高倉の愛寵を得るが、怒った清盛を憚り身を隠す。高倉の近臣で小督の琴と笛を合わせたことのある仲国が嵯峨野に小督を探し高倉のもとへ連れ帰る。匿われて暮らす小督は女児を得るが、清盛により無理やり出家させられ追放される。

高倉が紅葉を好んだのは本当かもしれない。10歳前後の出来事というから幾分年寄じみた趣味かもしれない。「林間に酒を煖めて紅葉を焼く」と白居易の詩を口ずさむ好学の少年像だろうか。落ち葉焚きならまだしも、枝木も焚たのでは生木が燃えるものか、と思えば実話ではありがたい。
紅葉の話には未明、強盗にあった少女を助ける話が続く。少女の悲鳴を聞きつけ、奪われた衣より上等なものをやったのだ。強盗を捕まえるという発想はない。

葵の前は「源氏物語」の桐壺のようだ。しかし周りの嘲笑に耐えかねたのは帝の方だ。遠ざけてしょんぼりする帝に松殿基房は「気に入っているなら召せばいい、何なら私の養女にしても」などと云っている。まだ少年ぽい高倉が妹のような少女に気が行っている話に見える。「しのぶれど」と送るのはいかにも少年の踏ん切りの悪さだ。

葵の前は高倉より年少だろうが、小督は年上だ。たぐいまれな美女で琴の名手、という前にすでに藤原隆房の愛人であった小督はたぶん徳子より色気があったことだろう。小督は実在だが、女児を産んだこと、後に出家したこと以外は創作だろう。特に清盛による迫害はありえないだろう。藤原隆房の室と徳子が共に清盛の娘だったことからの想像だろうか。仲国の笛で小督の琴の音を探す話は美しくはあるのだけれど。

小督が女児を産む前年、公家の娘が一人女児を産んでいるようである。小督の出産の翌年徳子との間に安徳となる男児誕生、その翌年1179年には、安徳と共に西海に連れていかれる第2皇子が坊門殖子との間に生まれ、更に別の公卿の娘との間に第3皇子が生まれ、またそれとは別の公卿の娘との間に女児も得ている。その翌年また坊門殖子との間に第4皇子が生まれる。この第4皇子は後鳥羽帝となる。第2皇子は数奇な運命で、承久の変の後、子が後堀川天皇として即位し、自らは帝位につくことなく後高倉院として治天の君となった。
意外に子だくさんで、ただの純情青年でもなかったのだろうか。徳子との間に男児が生まれるまではそれなりの自重もあったのかもしれないが、その後はなかなかの忙しさだ。

高倉の墓は京都東山清閑寺の裏手にある。すぐ近くを1号線が走っていて意外にアクセスしにくい。

 

不思議なことに隣接しているのは六条天皇陵。確かに六条帝の後を襲ったのは高倉なのだが、退位時の六条5歳、高倉8歳という茶番であった。乳児で即位した六条は二条帝の皇子であるが母の身分は卑しかったという。二条帝の病篤く、急ぎ譲位となり、まもなく二条は死ぬ。齢22歳に過ぎない。後ろ盾のない六条は退位後どのように過ごしていたのか、元服することもなく13歳で死去。二条と高倉はともに後白河の子であるから、六条は高倉の甥であるが、特別の交流もなかったであろう。

工事をしていてアクセスできなかった。

たいていの寺社には参詣者用の駐車場が解放されているのだが、この寺はそうではない。


それでも観光客向けなのか小督の案内板があったりする。

 小督供養塔

 要石付近から


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