物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

大三輪神社(桜井市)

2021-04-17 | 行った所

三輪山をしかも隠すか雲だにも心あらなむ隠さふべしや

駐車場から見える三輪山

なだらかな円錐形の山、神奈備である。

一応山ノ辺の道の南の終点となっている。

大三輪神社大鳥居 

三輪駅よりも西にある。歩けば二の鳥居まででも700mほどもある。

 二の鳥居
流行っている大きなお宮さんという感じ。

境内図

 拝殿 御神体は三輪山そのもの

少し北へ行き方向の道をたどると磐座があった。


更に行って左手池の手前を折れると展望台がある。

振り返ると三輪山

前方には奈良盆地

南西方向に耳成山その左手に畝傍、香久山は手前の木々に隠れている。

大和三山の中心が藤原京趾になる。その南奥が飛鳥になる。

展望台から戻り狭井神社まで行く。

薬の神様だそうだ。

三輪山へ登るのはここからになる。

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行燈山古墳(天理市 柳本)

2021-04-17 | 行った所

 もちろん実際の被葬者の名はわからないが、宮内庁により崇神陵とされている行燈山は、長岳寺から南に下るとすぐ大きな周濠の土手と墳丘が見えてくる。

ぐるりと一周してみる。 周濠を含めた全長360m、最大幅230mをなす大きな前方後円墳だ。歩きでもある。

周囲には陪塚がいくつか見られる

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長岳寺(天理市 柳本)

2021-04-17 | 行った所

山ノ辺の道を石上から桜井に向かって下ると、およそ中間地点となるのが長岳寺らしい。近くに天理市のトレイルセンターもある。

 参道

空海の創建を伝えるこの寺もまた広い寺域を持っている。

旧地蔵院の本堂 大和葺

檜皮葺きを竹で押さえている

 本堂

本堂の出入り口の張り紙

境内の茂みに猫を一匹見つけたのだが、普段手荒に扱われているのだろうか、鳴き声をたてるばかりで出てこなかった。

楼門

 山桜

 チャイニーズスノーボール

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黒塚古墳 (天理市 柳本)

2021-04-17 | 行った所

黒塚古墳は大量の三角縁神獣鏡の出土で話題を呼んだ遺跡だ。

以前は椿井大塚山が最大の鏡出土古墳だった。

柳本には行燈山古墳(崇神陵)を盟主墳とし、いくつかの古墳があるが、黒塚はその西端部になる。


墳丘は後代の合戦で砦が作られたり、周濠もかなり改変されているようだが、古墳としての形は保たれている。椿井大塚山の後円部に鉄道が走り、前方部に住宅が立ち並んでいるのに比べれば、かわいいものだ。

資料館があり、竪穴式石室の実物大模型がある。


藤が咲いていた。

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若草山頂上へ

2021-04-15 | 行った所

奈良公園の東に広がるなだらかで樹木の無い、文字通り若草に覆われたような山を若草山というのだと思っていた。この山にドライブウエイがあるという。

東大寺の北辺を回るとゲートがある。登ると結構急勾配の山道だ。ほどなく大仏殿ビューポイントというのがある。

本当に見えたのだ。当然ながら般若寺の前からよりはだいぶ近い。

曲がりくねった道をかなり登る。この辺りは初めの若草山のイメージはなく、普通の山という感じのうちに山頂駐車場に着く。

三重目に着く。若草の萌え出すには少し早かったか、はげ山状態ではあるが、樹木がないから当然のように眺望が利く。

定番の鹿さんたちもいる

三笠山(御笠山)

そして鶯塚という古墳もある。


これは大和の王者の奥津城にふさわしいロケーションだ。

大和盆地の東の山に沿って造られ、宮内庁によって天皇陵の名を冠せられているものも多い古墳群との関係はどうなのだろう。

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布留 (天理 石上)

2021-04-15 | 行った所

「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
宴席の戯れ歌という説もあるけれど、袖を振るのはひとの気を引く行為か。ない袖は振れない、となればお金がないということになるのだけれど。
布留遺跡は弥生から古墳にかけての集落と思っていたけれど、もっと古い時代から続いていた複合遺跡だ。まさに天理の街中に広がっていた。
天理参考館 まさにここだ。

台北のザ グランド ホテル (圓山大飯店)を思わせる建物。


奈良県内の遺物の展示が多いのかと思っていたら、それ程ではない。


大型の馬の埴輪は群馬の出土だった。
それより外国の民族資料に圧倒される。これはいったい何なのだ。布教のための調査?

 

 

石上神宮。

山ノ辺の道の起点ともなるところだ。石上神宮だが扁額は「布留御魂大神」とあった。

けたたましく鶏がトキを作る。こんな鶏いたっけ?と途惑う。数種いるようだ。

 群れ騒ぎ、見ていると面白い。軍鶏らしいのもいるのだが喧嘩しないのかな。
平家物語に熊野の湛増が白赤の鶏を戦わせ、源平どちらに附くかを占う話がある。神鶏というのはそうした神意を見るのに使ったのかもしれない。

拝殿は国宝で白河院の寄進に寄るとのことだが、現存のものは鎌倉期のものらしい。どっちにしろ修復工事中だった。

拝殿の奥の禁則地が明治時代に調査され大量の鉄の利器や勾玉などが見つかったようだ。物部氏の社、布津姫、「日出る処の天子」の世界になるなあ。

楼門の向かいにある出雲健雄神社

垣本人麻呂歌碑

山ノ辺の道を南にたどると、左に池があり、鷺がいた。


右手に僧正遍照の歌碑。

この道標まではハイキングコースらしかったが、ここから時に車の通る普通の道だ。とはいえ、春の日差しを受け楽しい道だ。

内山永久寺址の手前にため池があり、芭蕉の句碑があった。

廃寺跡となれば多くは律令国家時代、奈良時代の寺が多い。しかしこの寺は違う。なんと明治の廃仏毀釈で廃寺になったのだという。南朝の行宮もあったようでかなりの規模の寺院だったらしいのだが。

実際は寺運営の中心にいた僧侶が勤王思想の影響で廃寺を粛々と進めた結果だと指摘されているそうだ。ともかく芭蕉が来たのは廃寺跡ではなく、現役の大きな寺だったということになる。

「うち山やとさましらすの花さかり」うまく意味が取れないが、ともかく花盛りのころだったのだろう。

 

 

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春爛漫 花爛漫

2021-04-06 | 日記

 福井市中央公園梅

 桜通り

 足羽川

 足羽山

 文殊山登り口 菫

 文殊山登り口 ユキタツバキ

 文殊山登り口 霞桜

 味真野小学校

 城福寺

 城福寺付近

 城福寺付近

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豊明市 沓掛

2021-04-06 | 行った所

「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん 三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」

全く名古屋に隣接し一体化しているように見える豊明市だが、沓掛・二村と云った町名が見える。新しい住宅団地も広がるが、田舎田舎とした風景も見える。

どういう道があったのか、昔の東海道には、鳴海と八橋の間に沓掛、二村(両村)があったことになる。

沓掛諏訪神社のあたりには鎌倉街道があるらしいのだけどよくわからなかった。

桜の参道

これは緋寒桜か

沓掛諏訪神社

近くに沓掛城址がある。

今川義元が大軍を持って尾張の信長を攻めようとした時、今川方の城だったそうな。
世にいう桶狭間の決戦、結末はご存知の通り、信長の快勝。足利家の親族、海道一の弓取りと云われた今川義元の最期であった。

近くに馬場があり馬が数頭飼われていた。競馬用というよりハードルを越えたりする競技用の馬のようだ。

 

桶狭間の決戦場は名古屋と豊明の間になるようだが、これは名古屋市内の公園。

 

 

 

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知立 八橋

2021-04-06 | 行った所

平家物語の「海道下」は八橋と宇津とで貴公子重衡と業平とを重ねさせる。

「いかに鳴海の潮干潟涙に袖は萎れつつかの在原の某の唐衣きつつなれにしと眺めけん 三河国八橋にもなりぬれば蜘蛛手に物をと哀れなり」

「伊勢物語」は各段章はそれぞれ短いし、全体の量からしても多くはない。しかし何がどうなっているのかよくわからないのだ。歌物語だからそのようなもの、というのは正しいのだろうし、段ごとに見ていけばいいのだろうが落ち着かなくなるのだ。最初の方に二条の后高子との駆け落ちがあり、挙句、「京にありわび」東下りとなったのはなんとなくわかるが、伊勢から尾張へ海伝いに行ったようだ。もしかして安濃津辺りから船で、どこへ着くのかなどと思っていると、いきなり信濃の国、浅間山が出てくる。次は八橋、有名な「かきつばた」だ。伊勢の斎宮とのごたごたや惟喬親王と水無瀬に遊んだのは吾妻から帰ってからなのか?ともかく時系列が訳が分からないのだ。今昔物語なら求めないつながりを「むかしをとこ」の一代記だと思えば、段と段とのつながりを求めてしまう。
でも、面白い本があった。高樹のぶ子「小説伊勢物語 業平」小説家の健筆の導きにより、漸く業平さんの一代記が分かってきたような気がする。関係する人物もようやくこういう関係かとガテンする。

それで八橋に行こうかと。

始めに知立市立歴史民俗博物館に行ってみる。子供たちが大勢遊んでいる適度な広さの魅力的な公園の脇に図書館と併設の建物だ。


知立=八橋と思っていたが、どうやら違う。東海道の宿場町池鯉鮒と八橋の通る道とはずれている。
池鯉鮒宿は馬市もある大きな宿場だったらしい。

平安末には重原の荘という荘園も確立したらしい

但し、ソフィア文庫版「平治物語」では探せなかった。

八橋は「十六夜日記」にも出てくるそうだ

 

知立神社↓


八橋 無量寿寺

資料館は休みだった

近くの鎌倉街道を歩く

 在原寺

 根上の松

広重の絵に出てくる松とされているらしい。

 

踏切を越えすぐ業平塚

すぐ脇を名鉄線が通る。

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小松寺(小牧市)・磨墨塚(犬山市)

2021-04-05 | 行った所

全国に小松寺という寺はたくさんある。その中で平重盛もしくはそのゆかりの人の創建を名乗る寺も多い。
この小牧市の寺もそうだが、えらく立派な寺で繁盛しているようだ。重盛の創建、重衡も来た、というネットの記載を見つけてきてみたのだが、なんだかよくわからない。

小牧長久手の合戦の時、秀吉軍の砦の一つの址がある。墨俣がそうだが、古い跡はより新しい跡に上書きされていく。

 


犬山市羽黒、

羽黒と云えば羽黒山、山形県のものしか思い浮かばないが、岐阜に羽黒があったのか。

興禅寺、

梶原景時の創建と伝え、景時次男景高の子が乳母に連れられ磨墨と共にここに落ち延び住まったとか。子孫は永らえ、織田信長に仕えるが、本能寺で討ち死にとか。

 梶原一門の墓

 山内一豊の妻の出生地とか


磨墨と云えば伝説の名馬、池月と並ぶ馬、平家物語で知られるが、駿河浮きが原での池月の描写は名馬というには余りにも暴れ馬といったありさまである。ともに頼朝の馬だったとされる。鎌倉殿のもとには各地の自慢の馬が集ったのだろう。
池月を得た佐々木高綱、磨墨を得た梶原景季、共に宇治川の先陣を争う。
どうも各地に池月・磨墨の出生地、墓があるらしい。それこそが伝説の名馬の証だろうか。
もう一つの名馬物語、井上黒は一の谷で知盛が乗っていた馬だが、この馬そのものについて比較的詳しく語られている。信州井上の牧の生まれであること、後白河に献上され、宗盛太政大臣就任の引き出物として、宗盛に渡される。宗盛に請いこの馬を預かった知盛はたいそう大事にする。そして一の谷だ。敗走し、船を追う。黒馬は鎧武者を負い、懸命に泳ぐ。海を馬で渡ったなどと藤戸の佐々木盛綱を称賛するなどつまらない。知盛と井上黒ほどのものではない。
船に追いつきはしたものの、船に馬の場所はない。馬は追い返さなければならない。敵に取られるくらいならと、射殺そうとする部下を制する知盛。馬は暫しの逡巡の後、沖から浜へ戻っていき、河越重頼の手に入り、再び後白河に献じられる。その先はわからないが、後白河が乗馬をするわけもなく、また誰かに下賜されたのだろうか。
池月・磨墨にはこの手のエピソードは一つもない。それが却って新たな伝承を産むのだろうか。

 磨墨塚

磨墨という名からは漆黒の馬を思うが、この公園の遊具は茶色だ。それがまた子供を遊びに誘うような感じで、よき馬を思わせる。

羽黒城址

 

 

 

 

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