「あかねさす紫野行き標野行き野守は見ずや君が袖振る」
宴席の戯れ歌という説もあるけれど、袖を振るのはひとの気を引く行為か。ない袖は振れない、となればお金がないということになるのだけれど。
布留遺跡は弥生から古墳にかけての集落と思っていたけれど、もっと古い時代から続いていた複合遺跡だ。まさに天理の街中に広がっていた。
天理参考館 まさにここだ。
台北のザ グランド ホテル (圓山大飯店)を思わせる建物。
奈良県内の遺物の展示が多いのかと思っていたら、それ程ではない。
大型の馬の埴輪は群馬の出土だった。
それより外国の民族資料に圧倒される。これはいったい何なのだ。布教のための調査?
石上神宮。
山ノ辺の道の起点ともなるところだ。石上神宮だが扁額は「布留御魂大神」とあった。
けたたましく鶏がトキを作る。こんな鶏いたっけ?と途惑う。数種いるようだ。
群れ騒ぎ、見ていると面白い。軍鶏らしいのもいるのだが喧嘩しないのかな。
平家物語に熊野の湛増が白赤の鶏を戦わせ、源平どちらに附くかを占う話がある。神鶏というのはそうした神意を見るのに使ったのかもしれない。
拝殿は国宝で白河院の寄進に寄るとのことだが、現存のものは鎌倉期のものらしい。どっちにしろ修復工事中だった。
拝殿の奥の禁則地が明治時代に調査され大量の鉄の利器や勾玉などが見つかったようだ。物部氏の社、布津姫、「日出る処の天子」の世界になるなあ。
楼門の向かいにある出雲健雄神社
垣本人麻呂歌碑
山ノ辺の道を南にたどると、左に池があり、鷺がいた。
右手に僧正遍照の歌碑。
この道標まではハイキングコースらしかったが、ここから時に車の通る普通の道だ。とはいえ、春の日差しを受け楽しい道だ。
内山永久寺址の手前にため池があり、芭蕉の句碑があった。
廃寺跡となれば多くは律令国家時代、奈良時代の寺が多い。しかしこの寺は違う。なんと明治の廃仏毀釈で廃寺になったのだという。南朝の行宮もあったようでかなりの規模の寺院だったらしいのだが。
実際は寺運営の中心にいた僧侶が勤王思想の影響で廃寺を粛々と進めた結果だと指摘されているそうだ。ともかく芭蕉が来たのは廃寺跡ではなく、現役の大きな寺だったということになる。
「うち山やとさましらすの花さかり」うまく意味が取れないが、ともかく花盛りのころだったのだろう。