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物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

敦賀 気比神宮

2022-08-06 | 行った所

気比神宮は越前一の宮だ。
JR敦賀駅の方からメインストリートでアーケード街の8号線を北上し、もう一つのアーケード街、神楽通りとぶつかるところに、気比神宮の赤い大鳥居がある。神楽通りが気比神宮の参道だ。敦賀祭の時は神楽通りに派手な山車がずらりと並ぶ。気比神宮の境内はそれなりに広いが、祭りのときは屋台と人とですっかり埋まる。


古い由緒を誇る神社だが、それだけに不思議な伝承に彩られる。
一応祭神は・伊奢沙別(いざさわけ)命 ・仲哀天皇 ・神功皇后 ・日本武尊 ・応神天皇 ・玉妃命 ・武内宿禰 となっている。

記紀によれば、日本武尊は仲哀天皇の父で、神功皇后は仲哀天皇の妻で、応神天皇はその子ということになっている。武内宿禰というのは300歳まで生き、天皇5代に仕えた忠臣で特に応神の養育係のような役回りになっている。玉妃命は玉依姫の別名ということだから海神の娘ということになる。
伊奢沙別というのは気比大神の別名ということで気比神宮の主神となっているのだが、妙な話がある。
応神と伊奢沙別とが名前の交換をしたという話だ。応神は諡名だから、名はホムダワケという。だから元はイザサワケがホムダワケで応神のもとの名はイザサワケだったのだろうか。古事記では名を交換したお礼に気比大神は海岸にイルカを御食(みけ)として差し出したのだという。
気比神宮本殿の左手に九社神社というのがあるが、その一つもイザサワケを祀っているらしい。


このイザサという名にはアメノヒボコというこれも不思議な伝承の人物が絡む。アメノヒボコは新羅の王子だったが、7種だか8種だかの宝物を持参して日本へやってくる。その宝の一つが「イザサの太刀」その名が応神の本来の名であり、その名を捨て新たにホムダワケという名をもらったと。
応神は仲哀の子とはなっているが、父親が死んで一年半もして生まれた子に誰が親子関係を認めるのだろう。仲哀は神の神託に逆らって死に、神功は神託に従い宝の国である新羅に攻め込み、財宝を得、帰国する。そこで月の満ちすぎる赤子を産み、武内宿禰と共に東へ向かう。仲哀の他の妻の産んだ息子たちと戦い、これを破る。応神の異母兄たちにしてみれば、戦を挑むのは当然だ。父を殺され、誰の子かわからぬ異母弟に継がすわけにはいくわけがない。
武内宿禰は応神を連れて近江から越前の敦賀に禊に向かう。そこで気比大神との名前交換云々が出てくるわけだ。応神の父は住吉大神とか武内宿禰とか、でも新羅の誰かでもいいかもしれない。とはいえ神功皇后の征韓伝説もどこまで真に受けたらいいのやら。船は海中の魚たちが集まり、えっさほっさと一気に運ばれる。そのまま船は陸地まで攻め込む。なんだか夢の中の物語のようだ。でも広開土王の碑は辛卯の年(391)倭の侵攻を伝える。異説があるとはいえこの頃朝鮮半島と倭国の間で頻繁な行き来はあったのだろう。戦いあり、交易あり、通婚あり、人も文物も技術も動く。
敦賀にはもう一人のアメノヒボコともいえる伝説の王子がいる。ツヌガアラシトだ。ただ新羅ではなく任那の加羅の王子ということになっている。敦賀という地名はツヌガアラシトに因る。
曺智鉉の「天日槍と渡来人の足跡―古代史写真紀行」によれば日本海に突き出た半島として、能登・敦賀・丹後・島根の四つを挙げている。ただし敦賀半島はこの中で一番小さい。事実若狭湾としてぼこんと落ち込んだように見える大きな湾は、越前岬から丹後半島に達する。その中には様々な湾口が入子となって複雑な地形を構成するが、敦賀湾・舞鶴湾、宮津なども包含される。
しかしその中で敦賀は確かに古代には特異な位置を占めていたのであろう。
神功皇后の名はオキナガタラシヒメだ。息長(おきなが)氏は近江の豪族だ。その娘がヤマトの大王の妃となり、大王の熊襲遠征に同行する。しかし大王と共に瀬戸内を西行したのではない。オキナガタラシヒメは敦賀に赴き、そこから海岸沿いに西に進み、大王と合流する。敦賀は近江の外港だったのだろうか。
敦賀は現代福井県嶺南地域に属する。しかし越前・若狭という区分となれば敦賀は若狭ではなく越前なのだ。敦賀は越前の道の口、しかも敦賀郡の範囲は嶺北の南部、現在は丹南と言われる地域を含む。織田町辺りまでは敦賀県なのだ。
応神は記紀の系図の中でも特異な存在だ。ヤマトの王者の墓、前方後円墳は大和盆地の東南部に起源をもつが、4世紀末から5世紀にかけて河内へ移動し、羽曳野市・堺市にかけて巨大な古墳が作られる。副葬品もどちらかというと呪術的な意味の強い鏡などから、馬具、鉄器、須恵器へ移行する。その新しい王権の起源は応神に求められる。そしてこの王権を継承した大王たちは中国史書に現れる倭の五王に比定される。特に5番目の武はワカタケルこと雄略である。
応神に始まる王権も雄略の後、それほどの年を経ず廃れる。そして出てくるのが異色の王継体ヲホド王、彼は応神の5世の孫を名乗るが、前王権の血を引く娘を娶る。実質的に継体の後を継いだのは、この娘の産んだ欽明だ。国史の資料を集めさせたという天武も継いだ持統も、記紀ができた奈良時代8世紀の天皇たちも、皆欽明の子孫たちだ。


敦賀は港として栄え、気比社も尊崇を集めていただろうが、建久2年(1191)、火災で焼け落ちる。その再建に力を尽くしたのは藤原信定という後鳥羽院の側近であった。承久の変の後は、当然あまり良い目には合わなかったのだろう。
南北朝期には、南朝につき、宮司一族は金ケ崎城に籠り討ち死にしたという。それでもそれなりの勢力は維持していたらしいが、戦国末期、織田信長に攻められた朝倉氏に味方し、気比社は廃絶の憂き目にあう。再興したのは越前に入った結城秀康であった。

気比神宮本殿の東側、土公という気比社の故地だという。

いったいいつ頃のものかというのはさっぱりわからないが、後ろに見える山は天筒山だ。金ケ崎城と尾根続きで、南北朝の新田義貞勢と斯波高経勢、下って朝倉と織田勢が相争った戦場でもあるのだが、この角度から見れば、神奈備と言っていい端正さだ。気比社は海に向かっているとともに、この山を磐座としたところだったかもしれない。

土公の近くに角鹿神社がある。ツヌガアラシトを祀る


出石神社・袴狭遺跡(兵庫県豊岡市出石町)

2022-07-25 | 行った所

出石町は豊岡市の一部で市の南東部に当たり、出石川がながれる。出石川は円山川に合流して日本海にそそぐのだが、出石川も含め円山川流域は縄文時代には海が入り込んでいたような地形であった。

  いずし古代学習館展示

縄文海進期だから不思議はないが、海進期が終わった後も低湿地で水のたまりやすい土地であったのだろう。この水を海に流し、開拓したのがアメノヒボコだという伝承がある。天日槍又は天之日矛と書かれ、神話の世界と言ってしまえばそれまでだが、あまりよくわからないお話で、日本書紀と古事記の間で食い違いもあるが、記紀どちらもアメノヒボコを新羅の王子とする。
ともあれアメノヒボコは但馬に来たことになっていて、出石神社に祀られている。

 

出石にある袴狭(はかざ)遺跡は弥生時代から平安時代にかけての複合遺跡らしいが、弥生から古墳時代を中心とする。低湿地の痕跡を残す地形からか大量の木製品が見つかっている。中でも注目を浴びたものは船団の書かれた線刻のある板だ。用途不明の板ではあるが、15隻もの船を描いた類例のないものだった。丸木舟に側板などを取り付けた準構造船であるらしい。

アメノヒボコ伝説に絡めて考える人もいる。時代は下るが7世紀の表米王(朝倉氏も含む日下部氏の祖とされる人物)が新羅の船団を追い返したといわれる話なども、ちらりちらりと考えるのである。

袴狭遺跡には「いずし古代学習館」という資料館が建っている。楽器?というような出土品も興味深いが、律令時代の遺物も豊岡市歴史博物館ー但馬国府・国分寺館ーよりむしろ充実しており、豊岡市日高町が国府となる前は、出石が国府だったという話もあるようだ。

 算木、これは初めて見た。


中瀬鉱山 兵庫県養父市

2022-07-25 | 行った所

円山川は但馬の東部をほぼ南北に流れる。その円山川に西から合流してくる川の一つが八木川だ。八木川の北を沿うように9号線が走る。八鹿(ようか)但馬蔵という道の駅から10キロ程西へ行くと、関神社という物がある。この辺りの地名を関宮というが、関神社からきているのだろう。山田風太郎がここの出身で、山田風太郎記念館がある。忍者小説が有名だが、ぶっ飛びすぎて、今では読むに堪えないところがある。しかし明治時代に取材した小説群は素晴らしい魅力を今も放つ。

関神社の前で9号線は北西へ向かっていくが、そちらではなく、八木川に沿って更に西へ行くと中瀬鉱山跡になる。


この鉱山は自然金が出る金山だ。八木川で砂金が見つかり、それが鉱山開発の端緒となったようだ。生野銀山と並ぶ但馬のお宝山だったが、昭和40年代、不採算により閉山、現在はアンチモンの精製のみを行っているそうだ。


資料館があり、そばに鉱山で使用していたバッテリーで動いたトロッコや案内板もある。

資料館前に石臼のようなものがある。鉱石を砕くのに使ったそうだ。中瀬の鉱石は比較的柔らかく、このような石臼の手作業で砕いたそうだ。

資料館の人がなかなか親切に解説してくださる。

江戸時代の文書なども集めてあった


山陰海岸ジオパーク 玄武洞

2022-07-23 | 行った所

ジオパーク(英: geopark)とは、地球科学的な価値を持つ遺産(大地の遺産、ジオヘリテイジ、英: geoheritage)を保全し、教育やツーリズムに活用しながら、持続可能な開発を進める地域認定プログラムだそうである。ジオパークは、地球・大地を意味するジオ(Geo)と公園を意味するパーク(Park)とを組み合わせた言葉である。・・「地質公園」という表現を用いる国や地域もあるが、これは誤訳である(ウィキペディア)とあるのだけれど、地球科学的な価値が地球内部の様々な活動の痕跡などが地表からも窺えることを意味するとしたら、地質学的に面白い所と言えるだろうと思うのだ。そして、日本列島ほとんどジオパークと言えるような地域ではなかろうが。海岸線のほとんどはリアス海岸と言っていいし、日本ほど火山活動が盛んで温泉の多い所もめったにないだろう。ついでに言うと地震のリスクが高すぎるという難もある。


玄武洞は城崎から円山川沿いに4~5キロ程南に行ったところにある。

玄武岩は火山岩が固まった岩石だという。その名前はどうせ明治時代の訳語くらいに思っていたが、この玄武洞に由来すると知った。 江戸時代に柴野栗山が洞窟の石の印象から、あの亀と蛇が合体したような「玄武」を連想し玄武洞と名付けた。明治時代に同じような石を玄武岩と呼ぶことになったとか。

洞窟になっているのは採石の跡だそうだ。現在工事中であまりそばへは寄れなかったが、それでもなかなかの迫力。
 階段に使われている石も玄武岩で、なるほど亀甲模様に見えなくはない。

 節理といえば越前海岸の東尋坊の柱状節理だが、あれは安山岩だったはずだ。

玄武洞ミュージアムも面白かった。


岩石・地質関係だけでなく古代象ステゴドンの化石模型がある。2階には恐竜の化石もあるがほとんどレプリカだが、中には本物もある。岩石の標本がたくさんある。

 但馬は鉱山も多いらしい。知っていたのは、生野の銀山だけだったけれど。


但馬 朝倉 (兵庫県養父市)

2022-07-22 | 行った所

戦国大名越前朝倉氏の祖は但馬出身だという。古くから但馬で力があった日下部氏の中の一氏族が養父郡朝倉の荘を領し、朝倉を名乗りとした。
彼らは孝徳天皇の子表米(うわよね)親王を祖にしている。大化元年(645年)新羅が丹後に来襲した。表米親王はアワビの大軍に救われ、新羅を撃退した、という伝承があるそうだ。大化元年といえばまさに乙巳の変(大化の改新)の年。天皇は皇極で、孝徳はまだ天皇の弟に過ぎない。孝徳の皇子としては有間皇子が有名で、表米は有馬の弟とされるらしいのだが、悲痛な歌を残して若くして殺された有間皇子は645年にはまだ幼児に過ぎず、その弟となれば船団を率いて戦うなどありえないことだ。伝説の中の人物と解するしかない。

平家物語に「但馬住人朝倉太郎太夫高清」という名がある。第12巻「六代被斬」だ。壇ノ浦を脱出し但馬に潜伏する越中次郎兵衛盛次を捕らえる話だ。この朝倉高清は実在の人物だったらしいのだが、彼もまた不思議な白猪退治など伝説に彩られているようだ。鎌倉方についたわけだが、承久の変で京方について、この一族は鎌倉期には鳴かず飛ばずだったらしい。
この一族の中に朝倉広景と名乗るものが居て、鎌倉幕府滅亡時に足利尊氏の北条氏追討の挙兵に参加し、足利方の斯波高経に付き従い越前国入りをした、というのが定説だが、よくわからない面もあるようだ。またその後、越前と但馬の朝倉氏同士で交流があったという史料もないようだ。

養父市八鹿(ようか)町朝倉の集落内に看板がある。

狭い道を登って行くと地蔵堂と宝篋印塔がある。

 宝篋印塔は室町時代の物らしい
反対側に朝倉城登り口と閻魔堂。

 内部、格子の内に神像とも仏像ともつかない木像が並んでいるようだ。

登り口からしばらくは墓地になっている。

墓地を過ぎて少し上ると害獣除けの柵がある。

 北に眺望が開ける。平野部はそれほど大きくはない
八木川が西から東に向かって流れ、川に沿って9号線が走る。山陰道だ。

 山椒が特産品らしい。


落人伝説 但馬御崎 平教盛

2022-07-21 | 行った所

餘部から北西に御崎に向けて登って行く道がある。急だが対向車とは譲り合えばすれ違えるだろう。
大きく谷を迂回するように周り、ジグザグの道をさらに上がる。


駐車場があり、「平家村御崎」の碑がある。何やら説明版がある。

 

 これは井伊直弼の師がこの辺りの出身だったということのようだ。墓がいくつかあったがよくわからなかった。

 バス停がある。この辺りからの眺めは辺りがリアス式海岸であることがよくわかる。このすぐ下は断崖のようだ。

駐車場は一日1000円だそうで、お金を入れるボックスがある。

駐車場から徒歩で集落内に入る。路はコンクリート舗装だが狭くて急だ。車では曲がり角を回り切れないだろう。
 しばらく上ると畑地の中を道が続く。何か碑がある。

 門脇宰相教盛の墓。脇に佇むのは小宰相の墓。
 碑には門脇宰相教盛卿略伝とある。

門脇宰相と呼ばれた教盛は平忠盛の息子たち6兄弟、清盛・家盛・経盛・教盛・頼盛・忠度の4番目である。家盛と頼盛は正妻池禅尼の子であるが、他の4人は皆母が違う。家盛が若くして死んだあとは、頼盛は家督を意識せざるを得ない立場であったろうが、経盛・教盛にはそのプレッシャーもなかっただろう。保元・平治の乱を清盛の下で戦い、恩賞を得ている。
門脇殿と呼ばれるのは、平家一門の住まいのある六波羅の総門脇に館を構えていたからだ。
母が待賢門院の女房をしていた関係からか、後白河とは親しく、平滋子に皇子(のちの高倉帝)が生まれたとき、二条帝の退位を画策したとかで、平時忠などと共に罰せられたことがある。その時はすぐ復位したが、後白河院近臣の藤原成親の息子成経を娘婿にしていたから、鹿ケ谷事件では拙いことになる。なんとか兄に乞い、成経の身柄を預かったものの、成経は鬼界が島へ流罪となる。教盛は領地の肥前鹿瀬荘から鬼界が島へせっせと仕送りをする。流人が生きていけるのは仕送りあればこそという。
この肥前鹿瀬荘を教盛が領していたということは、教盛が日宋貿易にも深く関与していた、ということではないだろうか。更に日本からの輸出品の中には硫黄があるのだ。鬼界が島(硫黄島)へ渡す船便にも当然伝手はあったのだろう。
最初は教盛にも会わないといった清盛だが、教盛がだめなら出家するという主張に、教盛の言を一部入れている。それなりの力量ある弟と認める部分もあったのだろう。
しかし、清盛が死に、衰運に向かう平家を支える人材にはなれていない。それどころか宗盛と清盛正妻時子率いる平家宗家により、小松家同様傍流に押しやられて行くのだ。
一の谷の合戦で、教盛は3人の息子を亡くす。通盛・教経・業盛である。更に通盛の妻小宰相も入水してしまう。

教経については、一の谷で死ななかった説もある。平家物語には屋島の戦いで、義経の大事な佐藤嗣信を射殺すシーンがある。更に壇ノ浦で、華々しく義経を追い回す平家一の猛将として描かれる。しかしこれは物語が義経と対抗する平家のヒーローを必要としたということではないだろうか。治承寿永の戦いの初期には教経の活躍はない。倶利伽羅・篠原合戦には参加していたはずなのに。近江や奈良への出兵時にも、猛将ぶりを買われての出陣はない。確かに水島合戦は勝ったが、あれは義仲軍があまりに船戦に不慣れで自滅した感があるし、六か度の戦いは局地戦ではあるし、どうなっているのかよくわからない。

教盛は壇ノ浦から逃れて御崎に来たのだろうか。
平家物語は教盛の最期を経盛と兄弟して鎧の上に錨を負い、手を取り組んで海へぞ入り給ひける、とある。逆に言えば、首は取られていない。事実、壇ノ浦の修羅から逃げ延びたものもいる。越中次郎盛嗣・悪七兵衛景清などは逃げたであろう。おそらく鎧などは脱ぎ捨て褌一つ、水主に紛れて脱出したのだろう。
しかし、教盛にそれができただろうか。子供たちはすでに死んだ、自身も60歳近い。更に生きて源氏に一矢報いる気力があったか。おまけに御崎の伝承では小宰相まで連れている。小宰相は一の谷の段階で通盛の子を宿している。一の谷から壇之浦まで1年ほどあるからその間身二つになったはずだが、一の谷から屋島、壇ノ浦へと船暮らしをしたというのだろうか。更に壇ノ浦から日本海へ舅と共に脱出。いやいや無理がありすぎる・・としか思えないが。
無理は承知の上の伝承、それ自体に価値があるようにも思える。

教盛の墓から平内神社へ。

 扁額等はない。

 大イチョウがあった
 この神社の正月の儀式だそうだ
 写真の射手はあまり弓術の達者には見えない。

駐車場に戻り、集落左の道を灯台まで行ってみる。

 眺望案内板がある

 道標に御崎集落0.4キロとあるのだが、道はよく見れば獣道のようなものがあるかも、という程度で使われているとも思えない。
美伊神社の鳥居はすぐそこだが、50メートルほど先には石灯籠のようなものと社新築の碑があるばかりだ。

 1キロ先という道標と合わない。石灯籠の先に目を凝らすと、夏草の中にこれも獣道のようなものがなくはなく、更に少し上から目を凝らすと木々の合間に社の屋根のようなものが見えるのだが、どうやって資材を運んだかとあきれるばかりであった。

 灯台は日本一高所にあるものとか。


餘部 兵庫県香美市

2022-07-20 | 行った所

城崎から北西へ、山陰の海岸に向かう。複雑に入り江が入り込むリアス式の海岸だ。
 淀の洞門 豊岡市竹野町付近

更に西へ 餘部に向かう。

 餘部(あまるべ)というどこか奇妙な響きの地名を知ったのはいつのことだったか、大きな鉄道事故があったのである。冬場だったのだろうか、日本海から吹き付けた突風が、高い鉄橋の上を走る電車を吹き飛ばし、鉄橋は壊れ、電車は落下した。そんな事故だった。


今見れば、鉄橋はコンクリートの橋梁に替り、ガラス張りの空の駅があり、橋梁の下には供養仏も建っている。

 高速道路などの高い橋脚も珍しいものではなくなったので、それほどの驚きはない。しかし明治の鉄道工事、橋梁建設はどれほど困難なものであったか

  鉄橋はできてもこの集落は長らく駅もなく取り残されていたらしい。

クリスタルタワー(空の駅)へ登ってみる。

 古いレールも一部残してある

 空駅から東方面 奇岩の海岸線が続いている

 

 


落人伝説 城崎 平次郎兵衛盛嗣供養塔 

2022-07-19 | 行った所

はるか昔に読んだ志賀直哉は陰気臭いばかりで、また紐解きたいとはつゆ思わないが、城崎は温泉町として知られ、それなりの情緒あるところなのだろう。
その温泉町の真ん中に弁天公園という物がある。とはいえ観光案内板にも載っていないようなところだ。

 イラスト図の赤丸をつけたところがそれで、トイレと休憩所がある。その裏に小高い岩山みたいなものがある。休憩所側からは登り口がなく、裏へ回っていくのである。
 弁財天の鳥居の脇に「弁天公園」の案内がある。

 その最後に「平家侍大将越中次郎兵衛 平盛嗣の塚」とある。
登って行く。
 弁天というより赤い鳥居のお稲荷さんがあり、その脇に盛嗣の供養塔があった。

 


その上の更に小高くなったところに祠があったが、これが弁天だろうか。
 円山川が見える。作りかけのような橋も見える。

全国に平家の落人の伝承を持つところは大変多い。ほとんどが眉唾というか信じがたいものが多いが、この盛嗣の話は稀な真実味のある話なのだ。
壇ノ浦で平家の公達たちが次々入水する中、盛嗣は脱出する。大鎧脱ぎ捨て、雑兵というより褌一つで水主に紛れたのではないだろうか。平家物語(岩波ワイド文庫)第11巻「内待所都入」には越中の次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛の4人が脱出したことを記す。上総五郎と飛騨四郎は何者か知らない。悪七兵衛景清も脱出したのはおそらく確かだが、歌舞伎などの題材となるうち、景清ゆかりの地が山ほど出来、何が何かわからなくなっている。
 盛嗣はどこをどう流れたのかは定かではないが、城崎近く円山川河口の東岸、気比の庄へもぐりこむ。敦賀の気比は「けひ」と読むがここの気比は「けい」と読むそうだ。気比荘にいた日下部道弘(気比道弘)の婿となる。ところがいつしか鎌倉方へ漏れ、鎌倉殿から「但馬住人朝倉太郎太夫高清」という者に御教書が下る。という話は平家物語第12巻「六代被斬」の中にある。「平家の侍大将越中次郎兵衛盛次、当国に居住の由聞し召す。召し参らせよ」日下部道弘(気比道弘)は朝倉太郎高清の婿であったらしい。結局湯屋で大人数で盛嗣を捕らえ鎌倉送りにする。
仕えるなら許すという頼朝に、「勇士二首に仕えず。盛嗣ほどの者に御心ゆるしし給ひては、必ず御後悔候べし。とくとく頸を召され候へ」と返事をする。由比ガ浜で斬首されたという。
もともと盛嗣は弁が立つ。屋島の合戦では義経手勢の伊勢三郎を相手に口合戦を繰り広げる。乞食の山賊のと罵るのだが、相手を怒らせ優位に立とうという風にも見える。

ところで、気比の日下部、更に朝倉太郎という名が気になる。
戦国大名越前朝倉氏は但馬の朝倉氏から出たことが知られているが、但馬朝倉氏というのは日下部氏の支流の一つらしい。日下部氏は孝徳天皇王子表米(うわよね)親王を祖とし、表米親王が新羅と戦った時、アワビに助けられたので、一族、越前朝倉に至るまでアワビは食べなかったらしい、などということはどうでもいいが、ともかく古くから但馬に勢力を持った一族なのだろう。
日下部氏はもともとは平家方であったらしい。鎌倉初期には生き残ったものの承久の変で京方について没落したらしい。更に時代が下り南北朝期、一族の朝倉広景が北朝方の斯波高経の被官となり越前に赴き、越前朝倉氏が始まる。(松原信之「越前朝倉一族」)


鯖街道

2022-07-12 | 行った所

小浜から東に向かう。国道27号線だ。かつては若狭を横断する道は27号ただ一本。非常に込み合う道だったが、梅街道や舞若道ができ、だいぶ緩和された。27号線もJRの線路も海からは離れ、南東に進路を取り、旧上中町(現若狭町)に入る。27号線の左手すぐに古墳らしい墳丘が見える。十善の森古墳だ。上中町には古墳が多い。それも朝鮮半島とのつながりを示す副葬品を持った古墳が多い。特に十善の森古墳は金で飾られた冠帽が出ている。戦後すぐの時期の発見だが、近年細片になっていたのを復元図をおこしレプリカが造られた。

 若狭歴史文化館に飾られている。

6世紀の初めごろの古墳で、膳臣関係の墓と目されるが、百濟か新羅辺りと関係もあったのか。27号線を少し北へ入ったところの脇袋古墳群の中の西塚古墳は、十善の森古墳に先行する古墳とみられるが、金製耳飾りや玉類・鏡の他に馬具・武具も出土している。金製耳飾りの出土した向山1号墳も近い。
平城京とその周りから大量の木簡が出土し、解明も進んでいるが、中には若狭関連のものも少なくない。様々な物資・ヒトが大和へ向かったのだろう。
鯖街道は若狭の海産物を京都へ運ぶ道だが、奈良時代以前は熊川から先は南に京へ出るというよりは、東へ琵琶湖へ出て、水運を利用し運んだのだろうとにらんでいる。あるいは朽木までは行ったか。朽木から安曇川沿いに東へ行けば三尾野だ。異色中の異色の大王ヲホド(継体)は三尾野にいた彦主人王と越の三国の振姫との間の子で、彦主人が早く没したため、振姫は子供を連れて越に帰り、ヲホドを育てたといわれている。

 上中町の中心部を過ぎてほどなく27号線は二手に分かれる。左は27号線として三方五湖方面へ向かう。右手は東進して熊川宿へ向かう。27号が丹後街道を踏襲しているわけではないが、重なる部分はある。

 熊川の宿入口の駐車場の看板
裏側には京まで16里とあった。小浜では「京はとおても18里」とあったはずだ。なんだか計算が合わないが、鯖街道のルートは一本ではない、18里は最短ルートかな。
 駐車場の脇の碑


この話はどこかで知っている。が16歳の少年の話だったろうか。

 脇を北川が流れる。清流で知られているそうだ。

 集落に入る
 案内板がある。 

反対側に「孝子与七」とかの案内もある。なんでも食うや食わずでも親にはごちそうを喰わせていたとかで、殿様からご褒美をもらったとかいう好かない話だった。

道沿いに歩くと「萩野家住宅」がある。すぐ並びにある蔵の丸窓が気になる。


萩野家は人馬継ぎ立てを行う運送業で問屋と呼ばれたようだ。物資を運ぶ手配をした専門業者がいたわけだ。屋号は倉見屋という。「倉見」にひっかっかる。熊川から2里ほど北へ行くと倉見という集落がある。倉見荘の中心地だったのだろう。闇見(くらみ)神社もある。平安末から鎌倉の荘園と江戸時代の倉見屋と直接の関係はないだろう。ただ荻野家は倉見の出身かもしれない。

 福井県史より

萩野家のはす向かいに松木神社がある。


松木長操(庄左エ門)を祀っているから神社としては新しい。

 元は藩の御蔵だったようだ。
若くして庄屋を継いだ松木庄左エ門、庄屋20名ほどが総代となり、年貢軽減の嘆願に加わる。この時16歳。その後庄屋仲間は藩の圧迫に耐えかね次々脱落する。庄左エ門だけが主張を変えず、不届きと磔になった。しかし年貢の軽減はついに認められた。という話であった。この間小浜藩主は京極家から酒井家に代っている。

宿の東端は道の駅になっている。資料展示もある。

 小浜からほぼまっすぐ南下する針畑越えというルートが鯖街道としては一番古いという。最短距離だが険しいらしい。

 道標のレプリカ

 以前どこかで道標に「志・・」で始まるものを見て全く見当もつかなかったが「巡礼道」だったのかもしれない。


道の駅から朽木(くつき)へ向かう。山道だが意外に交通量がある。
私はどうも朽木というと木地師の里というイメージがあった。何故かはようやくわかった。白洲正子に木地師の里を書いたものがあるのだ。その冒頭に朽木という名は出てくる。内容は全く湖東の山中、永源寺の奥の話なのだったが。


鯖街道から逸れて、朽木から安曇川に沿うように下り高島に向かう。

 安曇川

平地に出ると三尾野だ。

南に少し下って見つけた継体天皇のえな塚と称するもの。

えな塚からもう少し南下すると鴨稲荷山古墳がある。墳丘は残っていないが、二上山の石の家型石棺に、金製の冠・靴なども出土している。


加太 淡嶋神社

2022-07-09 | 行った所

和歌山城の石垣の一部の石は、岩橋(いわせ)千塚古墳群で見た横穴式石室の石とよく似ている。緑色を帯び扁平に割れる。

緑色片岩というらしい。変成岩の一種だ。伊勢から紀伊半島を横切り、吉野川が名前を変えて紀ノ川となって河口に至るまでの流路、そして名前も同じ四国の吉野川の流炉沿いに九州まで至る大断層、中央構造線だ。多分関係のある石なのだろう。

紀ノ川河口の南側に和歌の浦がある。「わかの浦に潮満ち来れば潟をなみ葦辺をさして鶴鳴き渡る」山部赤人の歌としては「田子の浦にうちいでてみれば・・」の方が有名かもしれない。奈良時代の歌人もよく旅をする。彼の官歴は明らかではないらしい。

 和歌の浦は行ってみたらコンクリートの護岸に釣り人が多かった。芦辺はなさそうだ。場所が違ったかな?

 紀ノ川の河口付近 和歌山城天守から見る

紀ノ川河口の北側に加太がある。


南海道はここで紀淡海峡を渡り淡路島を経て四国へ至る。海を渡る道は関東でも見られる。東京湾を渡って房総半島へ至る道だ。上総が房総半島の南側、下総が半島の付け根の方になるのが象徴的だ。国名の上下、前後は都からの近さによる。上総の方が近いとされたのだ。東京湾は手間はあってもぐるりと回って陸路を取ることは可能だが、四国とあってはどこかで海を渡るしかない。
紀淡海峡には二つの島があるがどちらも紀州寄りだ。加太から友が島にはフェリーが出ている。
友が島と淡路島の間は5キロくらいだ。
平家物語は「壇ノ浦」で「門司・赤間・壇ノ浦はたぎりておつる潮なれば・・」と語る。瀬戸内海の西と東に一日の内に方向を変える潮の流れは速い。西の出口の関門海峡は特に狭く、「たぎりておつる潮」となるのだろう。東の端には淡路島が控え、明石海峡と鳴門があるから紀淡海峡が「たぎりておつる」状態とは思えないが時間帯によっては速い流れが見られるだろう。
淡路島の東の湊は由良という。曽禰好忠の「由良の門をわたるふなびと梶を絶え・・」の由良は丹後の由良だろうが、こっちの由良を当てる人もいるらしい。

 淡島神社 場所柄海上の安全を願う神でも祀っているかと思ったが、婦人病を治すとか、人形供養とか、イメージが違った。

 淡島神社パーキング付近から

 高台の休暇村パーキングから 手前の島が地の島、左は友が島、向こうに淡路島か