物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

落人伝説 城崎 平次郎兵衛盛嗣供養塔 

2022-07-19 | 行った所

はるか昔に読んだ志賀直哉は陰気臭いばかりで、また紐解きたいとはつゆ思わないが、城崎は温泉町として知られ、それなりの情緒あるところなのだろう。
その温泉町の真ん中に弁天公園という物がある。とはいえ観光案内板にも載っていないようなところだ。

 イラスト図の赤丸をつけたところがそれで、トイレと休憩所がある。その裏に小高い岩山みたいなものがある。休憩所側からは登り口がなく、裏へ回っていくのである。
 弁財天の鳥居の脇に「弁天公園」の案内がある。

 その最後に「平家侍大将越中次郎兵衛 平盛嗣の塚」とある。
登って行く。
 弁天というより赤い鳥居のお稲荷さんがあり、その脇に盛嗣の供養塔があった。

 


その上の更に小高くなったところに祠があったが、これが弁天だろうか。
 円山川が見える。作りかけのような橋も見える。

全国に平家の落人の伝承を持つところは大変多い。ほとんどが眉唾というか信じがたいものが多いが、この盛嗣の話は稀な真実味のある話なのだ。
壇ノ浦で平家の公達たちが次々入水する中、盛嗣は脱出する。大鎧脱ぎ捨て、雑兵というより褌一つで水主に紛れたのではないだろうか。平家物語(岩波ワイド文庫)第11巻「内待所都入」には越中の次郎兵衛・上総五郎兵衛・悪七兵衛・飛騨四郎兵衛の4人が脱出したことを記す。上総五郎と飛騨四郎は何者か知らない。悪七兵衛景清も脱出したのはおそらく確かだが、歌舞伎などの題材となるうち、景清ゆかりの地が山ほど出来、何が何かわからなくなっている。
 盛嗣はどこをどう流れたのかは定かではないが、城崎近く円山川河口の東岸、気比の庄へもぐりこむ。敦賀の気比は「けひ」と読むがここの気比は「けい」と読むそうだ。気比荘にいた日下部道弘(気比道弘)の婿となる。ところがいつしか鎌倉方へ漏れ、鎌倉殿から「但馬住人朝倉太郎太夫高清」という者に御教書が下る。という話は平家物語第12巻「六代被斬」の中にある。「平家の侍大将越中次郎兵衛盛次、当国に居住の由聞し召す。召し参らせよ」日下部道弘(気比道弘)は朝倉太郎高清の婿であったらしい。結局湯屋で大人数で盛嗣を捕らえ鎌倉送りにする。
仕えるなら許すという頼朝に、「勇士二首に仕えず。盛嗣ほどの者に御心ゆるしし給ひては、必ず御後悔候べし。とくとく頸を召され候へ」と返事をする。由比ガ浜で斬首されたという。
もともと盛嗣は弁が立つ。屋島の合戦では義経手勢の伊勢三郎を相手に口合戦を繰り広げる。乞食の山賊のと罵るのだが、相手を怒らせ優位に立とうという風にも見える。

ところで、気比の日下部、更に朝倉太郎という名が気になる。
戦国大名越前朝倉氏は但馬の朝倉氏から出たことが知られているが、但馬朝倉氏というのは日下部氏の支流の一つらしい。日下部氏は孝徳天皇王子表米(うわよね)親王を祖とし、表米親王が新羅と戦った時、アワビに助けられたので、一族、越前朝倉に至るまでアワビは食べなかったらしい、などということはどうでもいいが、ともかく古くから但馬に勢力を持った一族なのだろう。
日下部氏はもともとは平家方であったらしい。鎌倉初期には生き残ったものの承久の変で京方について没落したらしい。更に時代が下り南北朝期、一族の朝倉広景が北朝方の斯波高経の被官となり越前に赴き、越前朝倉氏が始まる。(松原信之「越前朝倉一族」)


コメント    この記事についてブログを書く
« 鯖街道 | トップ | 餘部 兵庫県香美市 »

コメントを投稿

ブログ作成者から承認されるまでコメントは反映されません。