goo blog サービス終了のお知らせ 

物忘れ防止のためのメモ

物忘れの激しい猫のための備忘録

関市 弥勒寺遺跡群・円空入定塚

2023-05-15 | 行った所

白山にその源を発する長良川は、岐阜県内を蛇行しながらも南へと下ってくるが、関市街地に至って、西へと大きく流れを変える。
その長良川の北岸の一隅に、円空の入定塚がある。


同じ長良川沿い、岐阜羽島に生を受けた円空は、畿内以東の各地にその足跡を残すが、晩年を過ごし、生を終えたのはまた同じ川のほとりであった。自らの死期を悟り、自らの意思で即身成仏を遂げた円空は、稀に見る修行僧であり、宗教者であったのか。ユニークな仏像を刻んだというだけではなかったのだ。
入定塚付近からは長良川が見渡せ、近くの橋は鮎瀬橋。対岸は鵜飼の地として知られる。小瀬鵜飼の船が停泊し、出番を待っている。


円空は近くの弥勒寺という廃寺跡に庵を結んだ。


弥勒寺廃寺跡及びその周りに広がる官衙址・古墳などは古墳時代終末期から奈良時代のものだから、円空とは直接のかかわりを持ってはいない。
壬申の乱で大海皇子に与した美濃の豪族たちの中に「ムゲツ」氏というのがいたらしい。(いろいろな漢字を当てるらしいがろくに変換しないし、関市のパンフなどでもムゲツになっている)ムゲツ広麻呂という舎人がいたらしいが、多品治や村国男依といった大活躍とはいかなかったようだ。だが、弥勒寺はムゲツ氏の氏寺で、官衙はムゲツ氏が支配し、池尻古墳の被葬者は数代前の先祖と考えられている。
岐阜市歴史博物館であった壬申の乱の展示会で、弥勒寺遺跡群も展示されていたのだが、見事に見落としていた。


官衙址の建物群は郡庁の他、倉庫群がある。広範囲に発掘調査されていて、壬申紀朝明郡衙跡といわれる久留倍官衙遺跡に引けは取らないようだ。官衙の官人たちは皆、文字を書き、算木を操ったのだろう。中央集権国家とは地方地方に中央の意思を代弁する組織がなければならない。国衙に派遣された国司が、いかに威張ろうとも、官衙が動かなくては、戸籍も作れず、徴税もできない。
天武の時代は壬申功臣を優遇したという。しかし持統以降、功臣優遇は縮小されていく。功臣たちも老いていく。彼らの子孫に同じ待遇を続けることはできない。地方豪族たちも地方より都へ目を向ける。

 弥勒寺廃寺跡

官衙址から弥勒寺址を通り、アップダウンする竹林の路を抜ける。京都嵐山の竹林の道はよく手入れはされているが、観光客が多すぎる。カメラを構えた人波をかき分けるのはごめんだ。

  修善寺の竹林も人が多いうえに規模が小さい。ここの方がよほどいい。

円空資料館がある周辺は弥勒寺西遺跡と呼ばれる平安時代まで続く祭祀跡だ。木製品も出土している。

資料館はコンパクトだが、凝った造りである。円空仏の中では特に、円空自身の姿を模したという善財童子がよかった。

資料館からさらに西の方へ数百メートル行くと池尻古墳になる。

 

古墳のすぐ脇に白山神社がある。


南越前町杣山周辺

2023-05-14 | 行った所
花蓮の咲く季節はまだ遠い。蓮池は一面小さな薄緑の水草に覆われ、その間から、蓮のまだ小さな葉が顔を出している。
蛙が鳴いている。
蓮池に向かった木陰のベンチに腰を下ろす。
陽射しはそれなりに強いが、暑くはない。風がさわさわと木々の葉を揺らす。蛙は一種類ではない鳴き声だ。
その合間に鳥の声もする。向かいの山の緑が濃い。その上の青空に飛行機雲が一筋、次第に伸び、下の方からかすんでいく。
蛙の歌が草野新平の詩に聞こえてくる。とろとろと眠気がさしてくる。


花ハス公園への道の途中に、杣山神社がある。杣山の北側を東へ走る道だ。


花ハス公園を過ぎて、東へ行くとほどなく、たくら街道という標識があり、右手に折れて街道に入る。すぐトンネルだ。
トンネルを抜けると橋がある。左手に大きな採石場がある。川は田倉川。橋を渡るとT字路になる。左へ、東の方へ行ってみる。

右手に何か案内板がある。あまりよくわからなかったが、南北朝時代の遺跡のようだ。

古耶の宮(杣の宮)なるお宮さんがあり、武士たちはその前を馬に乗って通ると落馬した。宮の正面を変えて建て替えると落馬しなくなった。

ここの馬上免はそういう意味らしい。馬上免がこの辺の地名らしい。
ここから北西方向にあるのが杣山。

南朝方新田義貞らがこもった。その前の敦賀金ケ崎上の戦いで、義貞側は敗北を喫し、「玉」恒良親王と尊良親王を失い、杣山に逃げ込んだのだ。
続く狛山の戦いでも、義貞は北朝の斯波高経方に敗れ、北へと落ちる。新田義貞が死んだのは、現福井市になる灯明寺繩手である。
瓜生保は、南越前町、南条郡飽和村出身らしい。死んだのは金ケ崎城か杣山の戦いで、墓は敦賀市樫曲にある。476号線樫曲から少し入った北陸新幹線樫曲トンネル工事現場の近くだ。

但し、碑は明治時代に建てられたものだ。
瓜生保は、確かに南朝方として戦死したのだが、北朝側についていた時期もあったはずだ。南北朝の全国的騒乱は、地方豪族もどちらかに味方せずにはいられず、どちらが勝つのかを慎重に見定めようとしたのだろう。
鈴木善那というのはさらにその下の武士であろうか。

この辺りで道を西に引き返し、今庄に出ることにする。
途中案内板を見た。田倉は宅良ともかくようだ。

田倉川



熊野の長藤

2023-04-28 | 行った所
平家物語の「海道下」は、一の谷で生捕りにされた平重衡が、梶原景時に連れられて、鎌倉に赴く道行だ。
浜名を過ぎ、池田の宿に着く。重衡は、池田の長者の娘熊野(ゆや)から歌を贈られる。返歌をした重衡は、景時から熊野が宗盛の愛妾であったことを聞く。都へ召し出されていたが、母の病を聞き、「いかにせん都の春も惜しけれど 馴れしあづまの花や散るらん」の歌を詠んで帰郷を願ったのだという。熊野は街道一の歌詠みだという。
この話を題材に、世阿弥は能曲を作り、世に広まったらしい。
磐田市池田にはこの熊野ゆかりの長藤がある。天然記念物の老木で、なかなか見事なのだという。以前来た時は、藤の季節ではなかった。
*熊野旧跡



 
*長藤
肝心の長藤は、確かに普通の藤よりは房が長かったけれど、びっくりするほど長いというわけではなく、どこか花がまばらで、寂しげだった。近くで「何年か前に来たときは、もっと長くてきれいだった」と話していたのが聞こえたから、今年は花付きが悪かったのか、さすがに老木で樹勢がつきかけているのかはわからない。白藤が勢いよく、密に花を咲かせているのが目についた。

源平盛衰記には重衡の「海道下」はない。その代わりらしいのは、「内大臣関東下向、附けたり池田の宿の遊君の歌の事」である。ここには宗盛の愛妾云々は出てこない。侍従という遊女が宗盛と歌を交わす。歌は平家物語の熊野と重衡の歌と同じである。更に侍従の母湯谷(ゆや)と宗盛・清宗の歌が出てくる。
さて、盛衰記では、一行は池田一泊の後、天竜川を渡ったことになっている。どうも池田と天竜川の位置関係を取り違えているようにしか見えない。

熊野の長藤のすぐ西側に天竜川の堤防がある。渡しの場所も近い。


*天竜川の堤防

*池田渡船の事

*川舟

*有料橋


中世までは宿場として栄えた池田だが、近世には池田の東に見付宿が栄える。東山道の青墓から赤坂へ宿場が移ったようなものだろうか。




姫街道(東海道 本坂道)

2023-04-28 | 行った所

姫街道とはまたずいぶんと可愛い名前である。遠国の大名同士の縁組は、よくあることとはいえ、姫君の御輿入れは互いの江戸屋敷でのことだったろうから、姫様道中などはあるはずもなく、猫姫様がお通りになった由縁などないが、心惹かれる街道である。
姫街道の名は比較的新しく、もともとは「本坂道」とよばれた東海道の脇街道である。脇街道とはいえ、古くは東海道のそのもので、浜名湖南側の道が整備されるまでは本街道だったらしい。
浜名湖と遠州灘の間の渡しは、天候によっては渡れず、また地震に因る不通期間もあったようで、本阪通の往還はそれなりに繁盛したようである。
姫街道は西から行けば、御油宿が追分となる。まっすぐ東へ嵩山宿、本阪峠を経て三ケ日へ。次が気賀宿でここには関所があった。峠越えとは言いながら、小夜の中山、宇津峠に比べれば、ゆるい坂に見える。気賀から三方原を抜ける。追分があり、南が浜松へ向かう。道なりに東南方向は天竜川の渡しの手前、市野宿へ向かう。浜松を通らない分道程は短くなるのだろう。
*東海道・姫街道地図 ウィキペディアより

三ケ日インターを降りて、姫街道とは離れるが、浜名湖の北岸沿いに細江町気賀に向かう。浜名湖がぐっと北に入込み、細江神社がある。この神社は元は浜名湖南岸の新居付近にあったらしい。それが明応7年(1498)の地震と津波で流され、浜名湖北岸に流れ着いたのだという。明応大地震である。東南海地震であろう。
 細江神社

 細江神社大楠
 細江神社漂着図
 細江神社由緒


細江神社の近くに「姫街道と銅鐸の歴史民俗資料館」がある。

 資料館脇の産屋 1,2

小ぶりで入場無料の資料館である。1Fには浜名湖の漁労とイグサ茣蓙織に関する民俗資料が主である。2Fが姫街道関係の史料と出土銅鐸の展示である。
銅鐸は人が手持って鳴らす小ぶりの銅鐸のモデルが2体もあったが、実際に出土したのは大型の見る・拝む銅鐸ばかりのようだ。出土状況も復元されて入り、他での出土例のごとく、横にしてひれを天地に向けている。大型品ばかりの所為か入子はないようだ。

資料館の後ろに東林寺という寺があった。
 東林寺 


 東林寺のボンタン 花と実が一緒になっている。実は去年のものだろうか。
資料館と東林寺の間に「犬走道」というのがある。気賀関は厳しいので、地元の人たちはこの道を使ったとか。犬が潜るのは仕方がない、という関所の法の抜け道でもあったらしい。資料館にあった写真では人ひとりが通るのがやっとの道に見える。

 気賀の関所跡 


気賀から南東に下る道は所々に松並木の残る街道の面影ある道だ。257号線である。途中、一里塚があった。
 松並木
 東大山一里塚

 東大山一里塚 街道を挟んである

翌朝、浜松から新居関跡まで行ってみた。浜松バイパスを行ったので、昔の道はわからない。遠州灘が見えた。
新居関の資料館は休館だった
 
新居は豊田佐吉の生まれ育ったところとか。


鏡神社(滋賀県野洲市)・安羅神社(草津市)

2022-08-12 | 行った所

鏡神社は訪れたことがある。「平家物語」第10巻「海道下」は、一の谷で不運にも捕らえられた平重衡を梶原景時らが、鎌倉へ連行するその道行である。その道行を追ってきてみたのだった。

「雲雀揚がれる野路の里」「志賀浦波春かけて、霞に曇る鏡山」長閑に春の近江を旅するイメージだが、ここと近い大篠原は壇ノ浦で捕らえられた宗盛父子が義経によって斬られる平家終焉の地となっている。
重衡もまたこの道を引き返す。南都焼亡の責を負い、南都の衆人に引き渡され殺されるために。その頃も鏡神社はあったはずだがめだたぬ古社であったのか。

しかし、鏡の里は、鞍馬を脱出した源義朝の末子遮那王が、自ら元服し源義経と名乗った場所として、鏡の里道の駅の前には、義経元服の地の看板あり、近くに義経が泊まった宿だとか、鏡神社にも「義経烏帽子掛けの松」があったりと、すっかり「義経記」に乗っ取られているようなところなのだ。

 鏡神社はアメノヒボコを祭神とする。新羅の王子で陶物師・医師・薬師・弓削師・鏡作師・鋳物師などの技術集団を率い、近江の国に集落を成したという。
伝承は古いが、須恵器とその前身ともいうべき陶質土器が日本列島に現れるのは4世紀末から5世紀か。
鏡神社の名の由来はアメノヒボコが持ってきた種々の宝の内の「日鏡」をこの地に納めたからだという。太陽の光を映すものとしての日鏡だろうか。しかし、銅製の鏡はもっと早く倣製鏡も弥生時代からある。
どの道、朝鮮半島から日本列島への集団移住は何回にも渡り、波状的に続いていたのだろう。それらがアメノヒボコ伝承としてまとまって行ったのか。
鏡神社の近くに須恵の窯跡もあるが、6から8世紀のものらしい。

 本殿は南北朝期らしい。

アメノヒボコは新羅から九州へ渡り、瀬戸内海を東進、難波から宇治川(淀川)を遡って近江に至り、北上、若狭を通り但馬に至ったということになっている。その道筋の所々で住み処を見つけていったのだろう。
一方で九州から難波への道は、神武の東征物語や神功皇后・応神の物語を思わせる話ともなっている。特に応神は敦賀へも行っている。しかもアメノヒボコの宝の一つ、イサザの太刀はヒボコの象徴ともいえるものだが、敦賀の気比神宮の祭神は伊奢沙別(いざさわけ)命。そして応神はこの神と名前を取り換えたという。応神(ホムダ)のもとの名はイサザといったのだろうか。

鏡神社のすぐ前を国道8号線が走る。この辺りでは昔の東山道(中山道)を踏襲しているらしい。

このまま西進すると大量の銅鐸出土地の近くに建てられた野洲の銅鐸博物館があり、その先に三上山が端正な姿を見せ、御神神社がある。野洲川を渡り栗東、草津に入る。東海道・中山道追分で宿場として栄えた草津だが、その草津の市街地の北の方に穴村町にアメノヒボコを祀った神社がある。安羅神社だが「やすら」神社と読むらしい。


アメノヒボコの一行は鏡神社の手前、「あなむら」でも留まったらしい。ここでは医術を教えたらしい。
しかし、安羅は新羅というより加羅を思わせるようだ。

栗東市の南の方、新名神が走っている山の中に狛坂の摩崖仏がある。高速の近くといってもインターがそばにあるわけでもない。ただそのレプリカは栗東市歴史博物館にある。新羅の影響が強い摩崖仏とはいっても制作年代も8世紀から12世紀ごろまでと大変広い。


山部神社  (滋賀県東近江市下麻生町)

2022-08-11 | 行った所

名神高速の蒲生スマートの近くにあかね古墳公園がある。二基の古墳が復元整備されている。

そこの付近の案内がいくつかあった。山部神社もその一つだった。

蒲生スマートから南東方向に延びる道をほぼ道なりに4~5キロだが、集落の中にあるので少しわかりにくいか。

万葉の歌人として知られる山部赤人は、基本下級官人である。諸国の風景をよく詠む。同時代の大伴旅人や山上憶良は優力官人として九州、山陰、北陸と渡り歩いている。赤人は上役に従い、駿河や紀伊に赴いていたのかもしれない。


注連縄に何故か六芒星が。陰陽師となにか関係があるのか?

 本殿

 

本堂右手の赤いトタン屋根のかかった建物が赤人寺だった。

 田子の浦 歌碑と富士

 和歌山城天守閣から見た和歌の浦方面


若狭大飯 高浜 三方の古社

2022-08-10 | 行った所

敦賀半島の菅浜集落には須可麻神社があるが、祭神スカマユラドミヒメ(菅竃由良度美姫)はアメノヒボコの子孫とか。更に神功皇后の祖母に当たるとか、となっていた。

そこから三方五湖方面に向かう。
国道27号線は三方五湖の手前で大きく左に曲がり南下していく。三方石観音の看板で左に折れる。登って行くと弘法大師が一夜で造ったという石の観音像があるらしい。

 その途中に御方(みかた)神社がある。『神祇志料』『大日本史』では祭神は天日槍命となっているらしいが、本当のところ不明である。

 三方石観音への道を逸れ階段を上ると御方神社だ。みかた神社と読む。三方五胡の「みかた」だ。

 二つ拝み所があるが、どっちが何を祀っているのか。

 

 

舞若道には敦賀JCTから大飯高浜ICまで20を超えるトンネルがある。小浜西から大飯高浜まで6個ものトンネルがあるのだが、そのうちの一つを父子トンネルという。「ちちし」と読むのである。このトンネルの近くに父子という集落がある。そこに静志神社がある。由緒等は見当たらなかったが、父子も静志も出石(いずし)の転であり、本来の祭神はアメノヒボコということである。


 大きなスダジイがある。
 境内の樹木の合間から高速道路が見える。

 トンネルが多いので高速で走っているとずいぶん山の中を走っているような気がするのだが、神社の前から少しだが海が見える。

ヒボコ伝承はここからまた海に行き、丹後半島を回り但馬の出石へ行くのだろうか。  

 

高浜町にも気比神社がある。
静志神社から北へ、27号線に出て西進し、高浜の中心部を抜けて、高浜原発のある音海へ向かう道を行くが、途中で左にそれ、トンネルをくぐって神野という集落へ向かう。内海湾を見下ろしつつ下へ降りる。

 気比といえば敦賀と思っていたが、豊岡市の円山川の河口付近にも気比があった。敦賀にある氣比神宮と同様に、
伊奢沙別命(大気比日子命・五十狹沙別命)を主祭神とし神功皇后を配祀する神社、とあった。ここの気比神社も同じであろうか。
気比神社というのはかなりたくさんあちこちにあるようだ。総元締めは気比神宮だ。

 この右に行くと高浜原発と関連施設で工事用車両が出入りする

 

 


若狭の古墳 27号線に沿って

2022-08-08 | 行った所

若狭町、特に旧上中町は古墳が多いところで知られる。街道沿いの平野部近くに点々とあるので目を止めて行ける。ただそれだけに墳丘の破壊も目立ち、調査も古い時代のものも多いが、再調査や研究も進んでいる。
若狭の古墳は前期の前方後円墳が知られていない。ヤマト政権との繋がりの深い勢力が若狭にはいなかったのだろう。5世紀に入り突如堂々たる前方後円墳が出現し、継続的に築造されるようになる。脇袋の上ノ塚(じょうのつか)古墳だ。全長100メートルを測り、周濠・葺石・埴輪列を備える。


現在集落と畑地との間にある。

脇袋の後ろ山は膳部山という。若狭の国造膳臣一族の奥つ城ではないか言われる。
*上中航空写真(若狭歴史博物館図録より)
脇袋の南から熊川へ向かう道が伸びる。鯖街道のメインルートと呼ばれ、熊川から南下し朽木をへて京都に至るが、熊川からそのまま東南に進むと今津に出る。平安遷都以前は琵琶湖から船で物資を運んだのではなかろうか。
若狭歴史文化館・若狭歴史博物館の編年によれば、上ノ塚古墳の次の時代に来る前方後円墳は脇袋から3~4キロ北のJR小浜線大鳥羽駅の近くの集落の尾根上にある城山古墳になる。しかし別の見解もあるらしく、福井県史では城山古墳を上ノ塚古墳に先行する首長墓ととらえている。
 若狭歴史文化館

 福井県史から


次の首長墓とされるのは向山1号墳と呼ばれる全長50メートルに満たない前方後円墳で、城山古墳の3キロほど南、脇袋から1.5キロほど西の尾根上にある。5世紀半ばに比定され、横穴式石室を持つ。豊富な鉄製武器が副葬されていたが馬具はない。そして金製の耳飾りが出土したことで知られる。
向山1号墳の次の首長墓は、脇袋に戻り、西塚古墳となる。脇袋は大きな古墳が継続してつくられ、王家の谷とも呼ばれ、7基の古墳があったというが、あまりよくわからない状態になっている。


西塚古墳も一見円墳にしか見えないほどで、前方部は一部が尻尾の先のように残っているだけだ。

 しかし田圃に残った跡などから全長70数メートルの前方後円墳で周濠・埴輪・葺石を備えていたことがわかっている。発掘されたのは大正5年で、金製を含む装身具・鉄製武器・馬具など豊富であったが、副葬品は宮内庁に召し上げられている。脇袋では近年でも若狭町文化課などによって継続して周濠などの調査が行われている。2020年の調査では人物埴輪・馬形埴輪とみられる埴輪の一部が発見されている。


 これも円墳にしか見えないが前方後円墳と確認されている糠塚古墳。

 上ノ塚墳丘上から西方向、西塚を見下ろす。 糠塚はこの左手になる

上中町を27号線沿いに西に向かって進むと十善の森古墳が目に入る。

 27号線によって切られているが、道路を挟んで南側にも周濠が延び、全長68メートルの前方後円墳だ。6世紀初頭の古墳とみられ、横穴式石室に金製品を含む豪華な副葬品でも知られる。

 復元された金製冠帽が若狭歴史文化館にある。


27号線を北に曲がり、小浜線の線路を越えると丸塚山古墳がある。

 左が北

6世紀半ばの巨大円墳ということだが、北川の洪水の後、堤防修復のため封土のほとんどを採取されたらしい。

27号線を更に西進すると林の中に上船塚古墳が見える。

 

ここでまた27号線を北へ折れ、坂を下ると直ぐ下船塚古墳が見える。

上船塚と下船塚の間を走る道は旧街道だ。27号線は丹後街道とも若狭街道ともいう道を概ね踏襲しているが、微妙に逸れている。


この辺りを日笠と言う。追分でもあり、江戸時代の義民松木長操が処刑されたのもこの辺りだという。

旧道を少し西に行くと白髭神社古墳の入口がある。


墳丘の後円部からくびれ部にかけて神社が建っているのでそれこそよくわからないが、全長60メートル足らずの前方後円墳で周濠もあったらしい。6世紀前半頃らしい。

27号線沿いでは更に国分寺跡の敷地内に国分寺古墳がある。

 

 

 ここも墳頂に神社が建っている。若狭姫神社とあった。
十善の森古墳の北にある丸山塚古墳と同じころだろうか。


耳川に沿って (福井県美浜町)

2022-08-07 | 行った所

美浜町を南から北へ流れる川を耳川という。


舞若道が耳川を渡る地点の少し西に彌美(みみ)神社がある。一の鳥居のごく近くに舞若道の橋脚が建っている。
 この写真の手前に高速道路の橋脚がある
参道を入っていく。古い神社だが最近改修されている。


若狭の耳別氏という豪族がいた。平城京出土の木簡などにも見える彌美だ。
彌美神社の祭神は 室毘古(むろびこ)王で、耳氏の祖ということになっている。室毘古は開化天皇の皇子で若狭に土着し、人々を導いた、ということになっている。記紀というのか旧辞・帝辞の誤りを正し云々は各地の豪族を天皇家の系図に組み込み序列化しようという意図に外ならない。覚えている人がいるような時代のことでは困るから、その起源は古い時代へ古い時代へと持っていく。新羅からの人の流入は4世紀後半から5世紀にかけての波状的に繰り返されたことだと思えるのに、それを象徴するアメノヒボコの話ははるか昔の垂仁天皇の時代になっている。
それはともかくここはなかなかいい神社だ。

若狭には「王の舞」と呼ばれる祭礼の際行われる行事がある。平安時代に京都から伝わったものが今に残るのだというがよくわからない。飛鳥時代に伝わったという伎楽とは関係がないのかな、と思ったりもする。

彌美神社の北東、耳川西岸に興道寺廃寺跡がある。国の史跡になっているが、標識がある以外は何が何だかわからない状況である。


ただこの辺に国分寺に紛うような大寺院があったことは間違いないらしい。

この近くには興道寺窯跡があるはずである。窯跡は見つけられなかったが、6世紀前半に操業した若狭では最も古い須恵器窯だという。
興道寺廃寺付近は美浜町の中心部、美浜町役場やJR美浜駅にもほど近いのだが、美浜町役場とJR美浜駅の間の国道27号線沿いに獅子塚古墳がある。関西電力原子力事業部のすぐ横である。

27号線その他に削られ墳丘はよくわからないが全長30メートルを超える前方後円墳で、横穴式石室には良質のベンガラが塗られていたという。須恵器などが出土し、興道寺窯跡で作られたものであるようだ。


角杯型須恵器は新羅系のものであるらしいが、耳別一族と関係があるのかもしれない。

 若狭歴史博物館展示

 若狭歴史博物館展示

そこからさらに北へ行くと、ゆうあい広場という全天候型ゲートボール場がある。ここは松原遺跡という製塩遺跡だ。
 もう海岸は近い。ゆうあい広場北側に炉の一部を芝生に残しているのだがよくわからなかった。案内板はある。


若狭には製塩遺跡は多い。8世紀の平城宮趾出土の木簡には若狭の彌美からの調として送られた塩の荷札とみられる木簡が複数ある。
https://www.youtube.com/watch?v=uECTZOO97VI 美浜歴史文化館の【歴文おもしろ展示品1】「弥美郷の木簡」展示解説 がアップされている。

*図説福井県史から わかさの製塩遺跡の分布図


敦賀半島の古社

2022-08-06 | 行った所

敦賀半島の東側は敦賀市、西側は美浜町となる。東側が敦賀と言っても敦賀半島の先端の立石岬を西に回り、白木集落までは敦賀市の範囲だ。白木には高速増殖炉もんじゅがあり、立岩岬の東の明神には新型転換炉ふげん、日本原電の敦賀原発がある。西の美浜町側の丹生には関西電力の美浜原発がある。つまり敦賀半島の先の方には4つもの原発があることになる。原発銀座と言われるのも不思議ではない。

白木や明神の集落は陸の孤島と呼ばれたところだ。漁村として細々暮らす、そういう所に敢て原発を作った。陸の孤島に道路が通じ、長いトンネルが走る。
しかし、これらの地域はかつて、優れた技術を持ち、時代の先端を行った人々が暮らした地でもあった。裏日本の不便な半島の村としてではなく、外国の文化を受け入れ、熟してきた先進地区だった時もあるのだ。

気比の松原の脇を通り、敦賀半島を北上していくと常宮神社がある。気比神宮の奥の院と呼ばれるところで、お祭りは気比の祭神が宮司と共に船で気比から常宮へ赴くというものである。

ここには9世紀統一新羅時代に造られた鐘がある。ただその時代からあるものではなく、豊臣秀吉の朝鮮出兵時に戦利品として持ってこられたものだという。当時敦賀を領していた大谷刑部により奉納されたものだという。

 

白木・白城はシラギ即ちそのまま新羅である。小さな集落だが白城神社は手入れがされ立派なものである。由緒が描かれたものがなかったのでよくわからなかった。


集落のすぐ脇から「もんじゅ」が見える。


美浜町の中心部から菅浜・竹波・丹生と集落をぬう道は、海岸線に沿ってうねうねと走っていたものだが、これらもトンネルの多い立派な道になっている。
古来どこの海岸線も美しかったのだろうと思うが、特に「美浜」と名付けられた美しい浜の中でも水晶浜と呼ばれる海岸は、驚くほど美しく、観光客を集めるスポットでもある。だが、ここからは美浜原発が見える。老朽原発というとやり玉にあがる美浜原発は1960年代に建設され、1970年の大阪万博会場に送電され、原子の光として華々しく喧伝された。40年越えどころか50年越え、2004年には冷却水配管が破損し、死者まで出したこの原発は、2021年福井県知事の合意により再稼働された。

菅浜の集落の中に須可麻神社がある。祭神はアメノヒボコの子孫とか。更に神功皇后の祖母に当たるとか。