ままちゃんのアメリカ

結婚42年目のAZ生まれと東京生まれの空の巣夫婦の思い出/アメリカ事情と家族や社会について。

凍てつく大地で

2017-10-26 | アメリカ事情

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デナリ(マッキンリー山)


夫の父方の大伯父(1878-1926)は、まだ幼なかった時に母親が病死し、彼と二人の姉妹共に亡き母のタバコ農家の両親の許で育てられていた。コロラドに移って働いていた父親は再婚し、新しい妻と子供達を引き取るために、故郷に戻って来た。その継母の若い女性が初めて三人の子供達にあった時、上が9歳、下が5歳ほどだった姉弟は、なんとタバコをふかしていたそうだ。


新しい母は直ちにタバコを捨てさせ、マナーや身なりを正し、きちんとした食事をさせ、清潔なベッドに寝かせるなど、その苦労はままならなかったらしい。野生の小動物とさほど変わりなかったようだった。しかし彼らにとって、彼女は意地悪な冷たい継母ではなく、むしろ自分達を愛してくれるから、しつけをしているのだと、理解していたようで、彼らのためならなんでもしようとする若い母親だったと、後々まで話していた、と聞く。


姉妹達は良い伴侶を得て、結婚したが、その大伯父は、二十歳になるや否やフィリピンへ渡った。1898年4月25日から8月12日にかけて起こったSpanish-American War(米西戦争)に従軍したのである。合衆国は、アメリカ的文明観:「文明は、古代ギリシャ・ローマからイギリスへ移動し、大西洋を渡ってアメリカ大陸へと移り、さらに西に向かいアジア大陸へと地球を一周とする」のもと、Manifest Destinyの延長線上の見方でいた頃である。そんな機運に乗って彼はおそらく前途洋々な気持ちで、世界を見てやる、といった若者らしい気概を持ち入隊したのだろう。


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しかし彼がフィリピンで得たのは、天然痘だった。天然痘は、ひどい痘痕を彼の顔に残し、命からがらアメリカに帰国した。痘痕のために、彼は人目を避けるかのように、鉱夫となりコロラドの鉱山へ移り住んだ。そこでムラトと呼ばれる黒人と白人の混血の女性と知り合い、結婚したが、うまく行かず、早々に離婚した。


彼の姪にあたる老婦人に話を聞いたことによれば、離婚後彼は傷心を抱えて一人アラスカへ旅立ったと言った。「そして誰もその後彼に会うことはなかったのよ。」と彼の年老いた姪はため息をついて言った。アラスカのゴールドラッシュ。それで彼の国勢調査がアラスカにあるのを理解した。


そのゴールドラッシュの始まりは、最初カナダ・ユーコンのクロンダイク地方で金鉱が発見されたことで、一攫千金を夢見て多くの人々が大挙して押し寄せた。やがて1899年に今度はアラスカ・ノームでも金鉱が発見され、クロンダイクには顕著な人口流失が起きた。彼はおそらくそのアラスカにきっと自分の探すものがあると願ったのかもしれない。


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しかしながら、彼は金鉱で職を得ず、最初は鍛冶屋として生計を立て、ある年の国勢調査によれば、民間航空委員会で働いていた。そして、Alaska Athabaskan(アラスカ・アタバスカン=アラスカ原住民)の酋長の娘と結婚し、子供も4人もうけていた。そして死亡診断書によれば、彼は肺炎を起こし、短期間のうちに61歳で亡くなった。


彼の若かった継母は、彼がとても親切で優しい子だったと回想していたのを前述した年老いた姪は記録に残している。彼は1878年ジョージア州で生まれ、その後コロラドとアリゾナにしばしの間住み、戦争から帰国後は、家族のいる地には帰らなかった。真相は、彼が悲観していたほど、家族や親戚や友人は、見かけのことなど気にせず、むしろアラスカに行ってしまったまま、二度と帰郷せずに逝ったのを悲しんだ。彼を愛し、その死を悼む者は彼が想像した以上にたくさんいたのだった。


そんな彼は、今北の凍てつく、神々しいマッキンリー山を望める大地に眠っている


 

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秋の空を見て

2017-10-25 | アメリカ事情

日曜日の午餐には、長女家族と長男家族が集まってワイワイと食卓を囲んだが、感謝祭やクリスマス頃の我が家は、総勢十七人になり、そんな季節がもう間もなく始まる。

子供達が巣立つ以前の我が家は、毎日夕食は家族皆で取り、週末は夫がパンケーキやワッフルを焼いて、ある時は私がブルベリーマフィンを焼いたり、フレンチトーストを用意した。

毎週土曜日は、日曜から来週にかけての準備の日、でもあった。洗濯は、一日かかり、その間、一週間分の焼き物(ケーキや、クッキーや、ブラウニー)を焼いた。家事の合間にウェアハウスタイプの店をハシゴし(CostcoやSam's Clubの他に、ちょっと前までPrice ClubやPaceがあった。)食料調達。普通のグローサリーストアにも行った。夜は衣服の修繕やアイロン掛けをした。

あの頃、毎週同じ忙しさで、いつこれが終わるかとふと思ったりしたが、いつの間にか、潮が引くように、”嵐”は止んでいた。そして今思うのは、子供達が健康で、いじめに会わず、誰もいじめず、特に問題もなく過ごしてこれたのが、何よりも良かった。どの子供も多くの良い友人に恵まれ、うちには、いつもたくさんのそうした友人達がやってきて、中にはほとんど自宅には帰らず、入り浸っていた子もいて、そのうちの一人の子は今や歯科矯正医で三人の幼子を持つ若い父親である。

その子の結婚披露宴に行った時、彼は大きなハグをくれて、「僕の青春は12歳の時に皆さんにお会いしてそれから本当に楽しく、幸せに過ごせたのです。」と言った。そうだった、彼は12歳の時、越してきたばかりの我が家に電話をしてきて、遊びに来ていいかと尋ねたのだった。教会で私たちを見かけたのだろう。

他の一人も、我が家で食事を共にして、よく私に話をしてくれて、彼の両親が、「自分に父親のようなビジネスマンになることを願っているが、自分は舞台演劇作家になりたいんだ。」と言っていた。私が「ビリー、そしたら、オープニングには、私を招待してね。」と言ったら、喜んで、と微笑んだものだ。そんな彼はコーネル大学法学校へ進み、弁護士となった。

もう一人の少年は、頭脳明晰だが、少しお高い、と噂されていて、両親はその頃離婚してしまっていた。確かに最初お昼に用意したサンドウィッチをサワードウブレッドにしたら、「僕、サワードウブレッドは嫌いなんです。」と言って、手をつけなかったが、しばらくして、ラーメンなら好きだと食べた。

ある時次男と三男を理髪店へ連れて行くのに、私の用事で、都合がつかないことがあった時、どうしようかしらとつぶやいた私を聞きつけて、彼は「あ、僕が連れて行けます。」と連れて行ってくれたのだ。その頃はもう17歳ほどで、自分で車を運転して我が家にやってきていたのだった。この少年も今や二人の幼い子供達の良きパパである。そうだった、彼は日本の若い女性と結婚したのだ。彼女はキリキリと働く、とても美しい女性である。

上の三人は白人であるが、アフリカ人の兄弟も我が家のレギュラーで、父親は何かの博士で、本当にご両親ともアフリカのある国からである。母親が病弱で、寂しかったのかもしれないが、この兄弟は本当に可愛かった。澄み切った瞳のように、澄み切った心を持っていて、素直で、すくすく育っていくのがよくわかった。弟は歯科学校で、兄は、大学院へ進み、MBA取得に励んでいる。

子供達は、白人も黒人もメキシコ人もフィリピン人もモン人も韓国人も中国人も何も関係なく、幅広くいろいろな人々とともに育ったようなものである。高校のシニアになると、キャンパス外で昼食をとっても良く、息子達は、しょっちゅう5、6人の友達を引き連れて我が家に帰宅した。

いくら他所の子供といえども、食事時に、お家にお帰りなさい、と言ったことは一回もない。裕福ではないが、分け合えば、食事はできる。五人も十人も同じようなものだと思っていた。それにしても、このように我が家に来ていた子供達は、うちの一体何を見て、来たいと思ったのだろう? カレーライスを作ると、それを少し小さな入れ物に入れて、そこに来ていなかった別の子供に持っていった子供もいて、今思うと笑ってしまう。

秋の澄んだ青空に、そんな子供達の友人達を思い、みんな立派にやっているのを嬉しく思い、彼らが、どどどっと家にやってきた時代を懐かしむ。

 

 

 

 

    

 

 

 

 

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子供が小さな頃

2017-10-24 | アメリカ事情

五人の子供達が幼かった頃は、Stay-at-home mom(つまり専業主婦・母)だった私は、五人の学校の送迎の間に、家事、ベイキング、洋裁など、「三食昼寝付きの専業主婦」とは,かけ離れて忙しかった。子供達が帰宅すれば、宿題を見てやり、ピアノのレッスン、ボーイスカウト活動、次の日忘れ物がないようにチェックも欠かさなかった。私は教育ママではなかったが、私にできることは何でもしてきたと思う。 

そんな忙しかった”現役”時代、Mary Engelbreitの本は出版されるたびに購入して、こんな風に家の中を変えようとか、子供部屋はこうしようと夢をはせたものである。彼女は1970年代後半Better Homes and Gardensという家庭雑誌に時折イラストを出していた人で、その後90年代近くに圧倒的な人気を呼んだ。イラストをそのまま表した食器やスタンドや小さな家具類、文房具、布地などのいわゆる雑貨がよく売られていた。下の本は長女とよく一緒に読んだ。

 

 見るのも楽しいMary Engelbreitの本コレクション

 

 こんな天井があるので、いつかチャレンジしようと。。。家の中で夜空の星(たとえ描いた夜空でも)を見られるなんて楽しい。

 

 Hearth(炉辺=家庭も意味する)周りも、暖かく楽しそう。

   

 読書コーナーも作ってみたい。暖かい。

 


 

Mary Engelbreitの他によく使った本は、Erica Wilson や  Kitty Bentonの著作本で、特にこの二冊は子供服製作に大いに役立った。Kitty Bentonの本の前にすでに、イングリッシュ・スモッキングのドレスなどは作っていたが、彼女の本では、いろいろなアイデアをいただいた。Erica Wilsonは、英国の手芸アーテイストである。彼女の刺繍は、美しく、子供も好んでいた。

 

本にあるような白いセーターを見つけ、早速刺繍してみたものである。2歳ほどだった息子の一人のお気に入りで、ほぼSunday bestとして日曜日に教会へ喜んで着ていったものだ。これくらいだったら、孫のCが今着れそう。

 

 

こんなスモッキングのドレスも我が子以外にも多くの人に頼まれてたくさん製作したものだ。こうした伝統的な手芸が私は好き。 本にあるような、スモッキングされた赤ちゃん用ボンネットは、作るのも楽しい。未熟児で出生した赤ちゃんのために病院に寄付するプロジェクトもした。もう少ししたら、こうした手芸や洋裁に戻りたいと願う。

 

 

 

 

 

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小さな子供達

2017-10-23 | アメリカ事情

Royal Copenhagenが子供コレクションというのを作ったことがあった。その一つ一つを見ているうちに、私の子供達を彷彿させるフィギュアがあるのに気がついた。このフィギュアはせいぜい3インチくらいの高さで、可愛らしい。ここでもご紹介したが、Royal Copenhagenは、アメリカではそう高価なものではない。そして幸いなことにうちから2時間ほど行ったところにRoyal Copenhagenの専門店があり、いつもemailでセールや新商品を知らせてくれる。オンラインで購入もできる。手頃な価格なので、楽しめる。下は私のコレクション。

 

このフィギュアは長女を思い起こさせる。下に四人の弟妹がいて、そう育ててきたわけではなかったが、進んで弟妹の世話をよくしていたものだった。今でも弟妹は長女を頼りにしている。親の私よりも律儀に礼状(Thank you notes)を欠かしたことがない。小さな頃からこのフィギュアのようによく絵を描いていたものだ。その子も結婚後、働きながら大学院のクラスを取り、初子の誕生前に図書科学情報の修士号を受けたが、今は育児のため専業主婦で頑張っている。ピアニストでヴィオラも弾く。

 

 

これは長男。入手した当時は、将来医学の道を進むなどとは夢にも思っていなかった。Aim high,ということだろうか。幼い頃からいつも機嫌が良く、ヒョウキン者で、姉を絶大に信頼し、弟妹を助けてくれていた。少年時代母親の肩を叩いてくれて、上手だったので、将来マッサージ師になれば、助かると良く言っていたものである。

 

 

これは次男。このフィギュアと同じようなシャツを着て、このようにスケートボードに夢中だった子は、今はMBAを持ったビジネスマンで3ヶ国語を操る。この息子は、伝道地がブラジルで、帰還後選んだのがハワイの大学で、結婚してからしばらくスウエーデンに住んでいた。けれど、兄弟妹の結婚には、必ず出席した。我が家のGlobetrotterといったところである。クリスマスにはこの子と妻子もやってくる。

 

 

このフィギュアは、三男。4歳まで指しゃぶりをしていて、夫と私は辞めさせる手立てを色々考えたが、信頼できる小児科医と歯科医は、「指しゃぶりの弊害は、後に歯科矯正医が治せるが、無理やり辞めさせると、心理分析医のお世話になり、もっと高価な治療費を払わなければならない」と言った。よって好きにさせておいたら、ある日、親指に切り傷を作り、薬とバンドエイドを貼り続けたら、二、三日で辞めていた。中学校から高校卒業の前まで家族の友人の歯科矯正医が綺麗な歯並びにしてくれた。おかげで性格の明るさは、長男並である。ドクターエリスもドクターZも名医である。高校時代のSweetheartは、三男が日本で伝道中ずっと彼を待ち続け、帰還後半年で結婚し、今は二児の両親で、息子は医学の道を進まんとしている。

 

 

このフィギュアは実によく次女の性格を表している。実際にこのように髪を切った事件は、三男だったが。スケートボードに夢中だった兄たちのために、よくサンドウィッチを作らされていた。”可愛がられた”妹で、兄三人にたくましく育てられたようなものである。好きな映画があると、そのダイアログを全て暗記して暗唱できる得意技?がある。ピアノの他に10歳からチェロを習い、高校卒業までオーケストラではファーストチェリストであったが、結婚式で演奏することが高校時代からのアルバイトであった。カリフォルニア州選出のダイアン・ファインスタイン上院議員を招いた夕食会で演奏したことがある。公衆衛生学学士号を得て大学を卒業し、今は結婚して州立大学病院で働いている。

 

 

そしてこれは、おまけ、ではないが、長女の夫のつもり、である。この夫くんは、まさにルネッサンスマンと言って過言ではない。理数系はもちろん、文系もよくでき、水球もし、ヴァイオリンも弾ける。好きなことがコンピューターに関することで、ウェッブデザイナーを職業にしている。かぎ針編みもできちゃう人である。話せば楽しく人の良さがしっかりわかる。コンピューターの問題があってもなくても一家に一人こういう人がいるのは、本当に嬉しい。あまりに楽しい人なので、時々、うちの”長男”です、と言いそうになる。



そしてこの愛くるしい女の子は、次男の妻となった人。全くこの通りの幼い頃だったろうと思わさせる。実際に、可愛らしい北欧のお嬢さん。三男同様に多国語を操り、今は去年の暮れ生まれた娘を育児しつつ、英語からスウエーデン語の翻訳業をしている。北欧人にしては小柄だが、才能は溢れんばかりで、特に手芸は目を見張る腕前である。毎朝お味噌汁が定番な人。


 

子供達が結婚して私達夫婦が、空の巣族になってから、久しいが、チャイナハッチに入れてあるこの子供達を目にしては、微笑んでしまう。今日もしっかりやっている?

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ヴィンセントを聴きながら

2017-10-22 | アメリカ事情

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土曜日早朝に4~6マイル歩く。競歩でもジョギングでもなく、只歩く。この町のいいところは、小さな公園が各所にあり、徒歩やジョギング用のトレイルがいくつか整備されていることだ。スポーツの盛んな町である。その一つのトレイルは用水路に沿って出来ていて、2.5マイルほどで、ひとつ道路を隔てるとすぐ次のやはり2.5マイルの別のトレイルが待っている。

日の出と共に歩き始める。

 

トレイルの両際は、スズカケと樫の木が並木になっていて、途中にある大きなflood basin(氾濫管理のため盆地のようにしたもの)があり、用水路の水量を調節する時、そこに放水したり、雨の時洪水を防ぐために池のようにしているが、そこに水鳥がたくさんやってくる。カナダ雁、各種のアヒル、シギ、鷺類はいるし、トレイル入り口の看板によれば、野ウサギ、地リス(木には登らず穴を掘って住む)、狸、狐、亀など盛りだくさん。もちろん時折、ひっそりと蛇もいる。


ここまで来ると、次のトレイルが待っている。


亀の甲羅干しを見るし、たくさんの違った鳥もいるし、愛嬌のある地リスはしょっちゅう地面から顔を出す。こんなトレイルにお伴になるのは、iPhoneから聴く、その時の気分にもよるが、モーツアルト、ジャズ、ビートルズと、定番から、Glen CampbellやEngland Dan & John Ford Coley, Michael Martin Murphey, まるで懐かしのメロデイである。中でもよく聴くのは、Don McLeanのVinsent。Vincentとは、Vincent Willem van Goghである。Vincentという歌は、Starry Starry Nightとも呼ばれる。1972年頃の歌である。


The Starry Night (月星夜)


Vincent Willem van Goghは、何回か映画の題材となって、1956年から、今年の油絵のようなアニメイション作品まで数々あるが、私が見たのは、1990年ロバート・アルトマンが作った”Vincent & Theo"(邦題:ゴッホ )という映画で、ヴィンセントと彼を生涯助けてきた弟Theoを描いている。ヴィンセントをTheoは、いつも助けてきたが、彼の死後、Theoも自害している。

ヴィンセントが癲癇や総合失調症を患っていた(未だはっきりとした病因はわかっていない)ことは周知だが、この映画を見た当時、久しぶりに改めて”Vincent"を聴いて、ただただ涙が溢れてきたのを覚えている。その歌詞と暖かい歌声に、遠い日に自ら命を絶ったヴィンセントの心の嵐と孤独を思い、胸が痛んだ。あの時代、精神医科学は今ほど発達しておらず、理解もなかった。その時代に生きたゴッホの苦しみを月星夜の絵画をもとにDon Mcleanは歌っている。

何故歩く時にこの歌を聴くのかと言えば、言葉の一つ一つが美しく、慈愛を感じさせるから。涙が頬を伝わっても、歩く時の風が乾かしてくれる。また仕事に戻る月曜日から、もっと会う人を理解したいと思わせてくれるのだ。

Starry
Starry night
Paint your palette blue and grey

Look out on a summer's day
With eyes that know the
Darkness in my soul.
Shadows on the hills
Sketch the trees and the daffodils

Catch the breeze and the winter chills

In colors on the snowy linen land.
And now I understand what you tried to say to me

How you suffered for your sanity
How you tried to set them free.
They would not listen
They did not know how

Perhaps they'll listen now.

Starry
Starry night
Flaming flo'rs that brightly blaze

Swirling clouds in violet haze reflect in
Vincent's eyes of China blue.
Colors changing hue
Morning fields of amber grain

Weathered faces lined in pain
Are soothed beneath the artist's
Loving hand.
And now I understand what you tried to say to me

How you suffered for your sanity
How you tried to set them free.
Perhaps they'll listen now.

For they could not love you
But still your love was true

And when no hope was left in sight on that starry
Starry night.
You took your life
As lovers often do;
But I could have told you
Vincent
This world was never
Meant for one
As beautiful as you.

Starry
Starry night
Portraits hung in empty halls

Frameless heads on nameless walls
With eyes
That watch the world and can't forget.
Like the stranger that you've met

The ragged men in ragged clothes

The silver thorn of bloody rose
Lie crushed and broken
On the virgin snow.
And now I think I know what you tried to say to me

How you suffered for your sanity

How you tried to set them free.
They would not listen
They're not
List'ning still
Perhaps they never will.

Written by Don Mclean • Copyright © Universal Music Publishing Group

 

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