日曜日の午餐には、長女家族と長男家族が集まってワイワイと食卓を囲んだが、感謝祭やクリスマス頃の我が家は、総勢十七人になり、そんな季節がもう間もなく始まる。
子供達が巣立つ以前の我が家は、毎日夕食は家族皆で取り、週末は夫がパンケーキやワッフルを焼いて、ある時は私がブルベリーマフィンを焼いたり、フレンチトーストを用意した。
毎週土曜日は、日曜から来週にかけての準備の日、でもあった。洗濯は、一日かかり、その間、一週間分の焼き物(ケーキや、クッキーや、ブラウニー)を焼いた。家事の合間にウェアハウスタイプの店をハシゴし(CostcoやSam's Clubの他に、ちょっと前までPrice ClubやPaceがあった。)食料調達。普通のグローサリーストアにも行った。夜は衣服の修繕やアイロン掛けをした。
あの頃、毎週同じ忙しさで、いつこれが終わるかとふと思ったりしたが、いつの間にか、潮が引くように、”嵐”は止んでいた。そして今思うのは、子供達が健康で、いじめに会わず、誰もいじめず、特に問題もなく過ごしてこれたのが、何よりも良かった。どの子供も多くの良い友人に恵まれ、うちには、いつもたくさんのそうした友人達がやってきて、中にはほとんど自宅には帰らず、入り浸っていた子もいて、そのうちの一人の子は今や歯科矯正医で三人の幼子を持つ若い父親である。
その子の結婚披露宴に行った時、彼は大きなハグをくれて、「僕の青春は12歳の時に皆さんにお会いしてそれから本当に楽しく、幸せに過ごせたのです。」と言った。そうだった、彼は12歳の時、越してきたばかりの我が家に電話をしてきて、遊びに来ていいかと尋ねたのだった。教会で私たちを見かけたのだろう。
他の一人も、我が家で食事を共にして、よく私に話をしてくれて、彼の両親が、「自分に父親のようなビジネスマンになることを願っているが、自分は舞台演劇作家になりたいんだ。」と言っていた。私が「ビリー、そしたら、オープニングには、私を招待してね。」と言ったら、喜んで、と微笑んだものだ。そんな彼はコーネル大学法学校へ進み、弁護士となった。
もう一人の少年は、頭脳明晰だが、少しお高い、と噂されていて、両親はその頃離婚してしまっていた。確かに最初お昼に用意したサンドウィッチをサワードウブレッドにしたら、「僕、サワードウブレッドは嫌いなんです。」と言って、手をつけなかったが、しばらくして、ラーメンなら好きだと食べた。
ある時次男と三男を理髪店へ連れて行くのに、私の用事で、都合がつかないことがあった時、どうしようかしらとつぶやいた私を聞きつけて、彼は「あ、僕が連れて行けます。」と連れて行ってくれたのだ。その頃はもう17歳ほどで、自分で車を運転して我が家にやってきていたのだった。この少年も今や二人の幼い子供達の良きパパである。そうだった、彼は日本の若い女性と結婚したのだ。彼女はキリキリと働く、とても美しい女性である。
上の三人は白人であるが、アフリカ人の兄弟も我が家のレギュラーで、父親は何かの博士で、本当にご両親ともアフリカのある国からである。母親が病弱で、寂しかったのかもしれないが、この兄弟は本当に可愛かった。澄み切った瞳のように、澄み切った心を持っていて、素直で、すくすく育っていくのがよくわかった。弟は歯科学校で、兄は、大学院へ進み、MBA取得に励んでいる。
子供達は、白人も黒人もメキシコ人もフィリピン人もモン人も韓国人も中国人も何も関係なく、幅広くいろいろな人々とともに育ったようなものである。高校のシニアになると、キャンパス外で昼食をとっても良く、息子達は、しょっちゅう5、6人の友達を引き連れて我が家に帰宅した。
いくら他所の子供といえども、食事時に、お家にお帰りなさい、と言ったことは一回もない。裕福ではないが、分け合えば、食事はできる。五人も十人も同じようなものだと思っていた。それにしても、このように我が家に来ていた子供達は、うちの一体何を見て、来たいと思ったのだろう? カレーライスを作ると、それを少し小さな入れ物に入れて、そこに来ていなかった別の子供に持っていった子供もいて、今思うと笑ってしまう。
秋の澄んだ青空に、そんな子供達の友人達を思い、みんな立派にやっているのを嬉しく思い、彼らが、どどどっと家にやってきた時代を懐かしむ。