「何かがよくないわ」と、ミス・クラベル。
戦後、占領軍将校宿舎として横浜中区のニューグランドホテルは7年間使われた。ある将校の妻がホテルのレストランで、デザートに生クリームをちょんと乗せたカスタード・プデイング(プリン)を出された時、もっと面白く、美味しいものはないのか、と不服を言ったので、発奮したシェフが、供したのが、プリン・ア・ラ・モードだという話。横浜出身者や住んだことのある者は大抵聞かされる話だ。そしてスパゲテイ・ナポリタンやドリアも、そのホテルのシェフの考案だとも聞く。この説は、NHKのお菓子番組でもそう説明していたが、私は何か一つ腑に落ちない気持ちになった。
ところで、オーストリア生まれのアメリカ人絵本作家ルドウィッヒ・ベーメルマンスのMadeline(マデライン=マドレーヌ)シリーズをご存知だろうか。フランス・パリで、カトリックの寄宿学校で12人の少女達の世話をする尼僧ミス・クラベルが、ある晩、就寝時間を過ぎても何か一つ気にかかることがあるようで、落ち着かない。すると少女たちの中でも小さな7歳のマデライン(マドレーヌ)が、盲腸炎を起こして痛がっていたのだった。その晩のミス・クラベルのように、私は「何かよくないわ、なんだかよくないことが」と言う気分になったのだ。そう、たかがプリン・ア・ラ・モードの由来についてに。
マデライン(マドレーヌ)の絵本と、ミス・クラベルが何か気になって寝付けなかった晩に盲腸で腹痛を起こしたマデラインが、手術後11人の少女たちにその傷跡を見せているところ。
まず、アメリカで通常プデイングは、コーンスターチ、ゼラチン、砂糖、香料を牛乳で混ぜ、時には加熱しないこともある。”プリン”という呼称は日本特有のもので、英語ではカスタード・プデイングと言い、これはむしろ、スペインやメキシコ系のレストランなどで出されるFlan(フラン)が、日本の”プリン”である。そしてそうしたフランは、生クリームをひと匙ほど添えて出すのが通例だ、ホテルニューグランドのシェフが75年前にアメリカ将校夫人に供したように。
今でこそフランは、たくさんのメキシカン・レストランの台頭でアメリカ人にもっとお馴染みになったが、75年前の将校の妻たちが、フランに馴染んでいたとは、少し考えがたい。夫の母も、将校の妻だったし、アリゾナ州というメキシコ国に近い地の出身とはいえ、フランを食べたことはなかった。ましてやスパニッシュやメキシカンの食文化に疎かった他州出身の女性がヨーロッパ、それもスペインを旅していない限り、フランなど知り得なかっただろうと思えるからだ。
だから、横浜のホテルのシェフが、良かろうと供したカスタード・プデイングのクリーム添えを、その将校夫人が未知のものとして捉え、そして敗戦国日本のデザートなど、とたかをくくったのではないかと思うのだ。第一、ホテルニューグランドには、戦前からイギリス王族も宿泊し、ホテル・スタッフにはスイス人シェフを始めとした一流の料理人、そしてレストランはフランス料理をメインにしていたのだ。
勝てば官軍と思ったかどうかわからないが、謙遜な日本人シェフは、アイスクリームをひとスクープ、そしてあるだけの果実を切って、カスタード・プデイングに添えて今で言うバナナスプリット用のファンシーなガラス器に入れて出したのだろう。
これが日本の誇る”The" プリン・ア・ラ・モード
これはアメリカのプデイング、チョコレート版。
そして私は余計なことを思うのだ、この将校夫人は、アメリカの片田舎の出ではなかったのか、と。この話は、いつでも私には、失礼な物知らずのいちアメリカ婦人の話に聞こえる。そして、スパゲッテイ・ナポリタンの由来に至っても少々ミス・クラベルになる。
アメリカのごく一般家庭で出す家庭料理としてのスパゲッテイは、皆ソースを最初からスパゲッテイに混ぜてから出す。それが大方のアメリカ人家庭でのスパゲッテイである。つまり、日本のナポリタンであるが、アメリカでは、そう言う言い方はしない。ただのスパゲッテイで、ナポリタンをくださいと言っても通じない。
パリの小道を歩いていた夫と娘と私は、妙にスパゲッテイが食べたくなり、道沿いにあった小さなレストランに寄ったが、そこで出されたのも、すでに混ぜてあるスパゲッテイだった。ナポリタンと言わずとも、すでに日本のナポリタンは存在しているのだ。
私は、ソースはソースの陶器に、スパゲッテイはそれ用の大きな陶器に入れて並べてテーブルに置く。私の学生時代アメリカ人のルームメイトたちと自炊していた時そうしたら、彼女たちは皆声を揃えて、「なんてファンシーなの?!」と言ったのだ。
もともとスパゲッテイは、1880から1920年にかけてイタリア人が大勢合衆国へ移民してきて、建国以前からいるアメリカ人に、もたらされたものである。横浜のホテルに滞在した将校夫人のどなたかは、イタリア系アメリカ人で、シェフに家庭料理としてのスパゲッテイの作り方のヒントを与えたのかもしれない。ただし、これは私のほんの推論に過ぎない。
ミス・クラベルのごとくに、夜寝付けないと思ったら、私はこんなことを気にしていたわけである。パンダミックでも、なんと平和な私だろうか。マデライン(マドレーヌ)のように、誰も盲腸炎で夜中一人でしくしくと泣いていないのは、幸いなことである。
お時間のある方はマデライン(マドレーヌ)の動画をどうぞ。