ろごするーむ

聖書のみことば と 祈り
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やもめと裁判官のたとえ話  ルカによる福音書18:1-8

2007-07-23 12:45:57 | 子供の説教
ある日イエス様は、お祈りをすることについて、教えるために、こんな例え話をされました。

ある町に、神をおそれず、人を人とも思わない、悪い裁判官がいました。

その町に、早くにご主人をなくした女の人がいました。ところが、この人は、あらぬことである人に責められて困り果てていました。何とか助けてほしいと思って、その町の裁判官の所へ何度も行っては、自分のために裁判をしてほしいとお願いをしていました。しかし、裁判官はなかなかとりあってくれません。

裁判官はある日考えました。「自分は神など畏れないし、人を人とも思わない。
しかし、あの女は、いつもやってきて、うるさくてかなわないから、彼女のために裁判をしてやることにしよう。そうでないと、これからも毎日のようにやってきて、わたしを困らせるだろう。」

こんな例え話をされたあとで、イエス様は言われました。
あなたたちの神様は、昼も夜も叫び求めている者を放っておかれるだろうか?

悪い裁判官は、女の人がひっきりなしにやってきて、自分を困らせるので、うるさく思って裁判をしてやることにしました。しかし、わたしたちの神様は私たちのことを、煩わしく思って、助けてくださるのではありません。独り子イエス様のいのちを下さるほどに、私たちを愛してくださる神様です。それほどまでに、私たちのことを大切にし、心にかけて下さる神様なのです。ですから、わたしたちは、この女の人のように、いま私たちが困っていることを神様にお話しするのです。良い神様は、私たちの祈りの声にいつも耳を傾けておられ、わたしたちの祈りを聞いて下さるのです。



今日の祈り29

2007-07-15 20:32:50 | 今日の祈り
いのちの源である神よ
あなたのご配慮は わたしたちの思いを超えてあまりに大きく
わたしたちの計画の 何よりも確かです
神よ わたしたちのすべてがあなたの御手の中にあることを
そして その御手が この世の見える何ものよりも確かで
力強いものであることを信じる 信仰をお恵み下さい
アーメン

子供説教「イチジクの木」のたとえ ルカ21:29-33

2007-07-08 06:52:25 | 子供の説教
■「いちじくの木」のたとえ  ルカ21:29-33  こどもさんびか14

21:29 それから、イエスはたとえを話された。「いちじくの木や、ほかのすべての木を見なさい。21:30 葉が出始めると、それを見て、既に夏の近づいたことがおのずと分かる。21:31 それと同じように、あなたがたは、これらのことが起こるのを見たら、神の国が近づいていると悟りなさい。21:32 はっきり言っておく。すべてのことが起こるまでは、この時代は決して滅びない。
21:33 天地は滅びるが、わたしの言葉は決して滅びない。」
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ある日イエス様は、世界の終わりについてお話されました。みなさん、世界の終わりはどんなだと思いますか? 今日の聖書のすぐ前を見ると、そのことが書いてあります。その時には、わたしこそキリストだ!! 自分こそ救い主!! そういう偽者のキリストが大勢現れて、みんなをだまそうとする。 戦争とか暴動のことを聞いたり、大きな地震があって、あちこちに飢饉や疫病が起こり、恐ろしい現象や著しい徴が天に現れるんだと言います。人々は、この世界に何が起こるのかとおびえ、恐ろしさのあまり気を失うと言われました。

こういう世界の終わりについてお話しをされたすぐ後で、今日の、イチジクの木のたとえ話をされました。今日のたとえ話は、イチジクの葉っぱが茂ると夏が近いのがわかりますよね。そう言うお話しでした。木に葉っぱが青々と茂ると、私たちは夏が近いことがわかります。この葉っぱが黄色や赤にかわってくると、もう秋なんだと分かります。

それと同じように、さっきイエス様がお話になったような事が起こったら、世界の終わりの日が近いのです。イチジクの葉っぱが青々と茂ったら夏が近いことを知るように、こういう知らせを聞いたら世界の終わりが近い事を知って、「身を起こして頭を上げなさい。」と言われました。
身を起こして頭を上げていなさいとは、ビクビクしないで、神様を信頼していなさいということです。
わたしたちは、世界が終わりの日がくるとか、戦争や地震の知らせがあって、恐ろしい現象が起こると、「恐ろしさのあまり気を失うだろう」とイエス様が言われたように、怖くて不安で一杯になります。怖いなぁと思うのです。

しかし、この世界の終わりは、破滅や絶望ではありません。天地をつくられた神様、私たち一人一人を大切に、心を込めて創造し、いのちを吹き込んで生かして下さった愛の神様。 私たちの罪のために十字架にかかって、死んで復活されたイエス様が来られるのです。

ですから、私たちは、世界の終わりだと言って、偽物の預言をする人たちに耳を傾けることもないし、地震や戦争のうわさを聞いても、ビクビクしなくて良いのです。世界の終わりは私たちの絶望ではないのです。
イエス様は、それは、「このようなことが起こり始めたら、あなたの解放の時が近い」と、言われました。あなたがたの解放の時。
わたしたちが愛の神様によって、本当に自由にされるとき、神様の国の恵みに生きるとき、そういう時が来るんだということです。世界の終わりとは、そういう恵みの中に私たちが迎えられるということなのです。
わたしたちはいつも、神様にお委ねして過ごしたいと思うのです。


お祈りいたしましょう。
すべてのものの造り主である神様。今日、あなたの御言葉を頂きありがとうございます。私たちは毎日を神様に委ねて歩むことができますように。そして、あなたが再び来られる日を、心を備えて待ち望むことができますように。私たちの主、イエス・キリストによってお祈り致します。アーメン

今日の祈り28

2007-07-06 22:51:00 | 今日の祈り
天の父よ。すべての家庭を祝福し、信仰と希望をお与え下さい。
世界に広がる神の家族をお守りください。
世界の助けを必要としている子供達を顧みて下さい。
病んでいるもの、悩みの中にある者、悲しみ、痛みの中にある者、
疲れ果て望みを失った者の側近くにいて下さい。
あなたの平和とお恵みをお与えください。アーメン

今日の祈り27

2007-07-03 23:01:44 | 今日の祈り
すべての家族の父である神よ。あなたは大いなるものをも、小さきものをも、扉を閉ざすことなくあなたの家に迎えて下さいます。わたしたちの家庭、そしてすべての家族の中心に、あなたが共にいて下さいますように。そして家なき人々をも、あなたの家族に迎えて下さい。アーメン

聖霊の賛歌 Veni Creator Spiritus

2007-06-28 09:38:03 | 今日の祈り

来て下さい 創造主であられる聖霊よ
あなたのものである精神を訪れて下さい
天からの恵みで満たしてください
あなたがお造りになった胸を

パラクレートスと呼ばれるお方
あなたはいと高き神からの賜物
活ける泉 火 愛
そして霊的な塗油

あなたの慈しみは七重
あなたは神の右手の指
あなたは御父の約束
わたしどもの口を御言葉で満たす方

わたしどもの感覚を燃え立たせてください
わたしどもの心に愛を注いでください
わたしどもの肉体の弱さを
あなたの力で常に強めてください

敵を遠くに追い払い
直ちに平和をお与えください
わたしどもの前を導き進まれるあなたによって
あらゆる悪を避けることができますように

あなたを通して御父を知り
御子を知ることができますように
おふた方の御霊であられるあなたを
いついつまでもわたしどもが信じ続けますように

子供の説教「実のならないいちじくの木」の譬

2007-06-25 07:41:58 | 子供の説教
「実のならないいちじくの木」のたとえ ルカによる福音書13:6-9

13:6 そして、イエスは次のたとえを話された。「ある人がぶどう園にいちじくの木を植えておき、実を探しに来たが見つからなかった。13:7 そこで、園丁に言った。『もう三年もの間、このいちじくの木に実を探しに来ているのに、見つけたためしがない。だから切り倒せ。なぜ、土地をふさがせておくのか。』13:8 園丁は答えた。『御主人様、今年もこのままにしておいてください。木の周りを掘って、肥やしをやってみます。13:9 そうすれば、来年は実がなるかもしれません。もしそれでもだめなら、切り倒してください。』」
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ある日イエス様は、こんなたとえばなしをされました。
イチジクの木に、3年たっても実が実らなかった。それで、木を植えた人は、「実がならないから、切り倒してしまえ」と言うのです。園丁といって、木のお世話をする人は「今年、木に肥料をあげて、大切に育てます。来年は実がなるかもしれませんから」と、そう言って、切り倒さないようにされました。そういうお話でした。

イチジクの木は、私たちの事です。本当は、私たちにも、実がなるんだって言うのです。でも、「実がならなかったら、切り倒して下さい。」と書いてありました。なんだか、わたしたちに実がならなかったら切り捨てられてしまうなんて怖いと思ってしまいます。

けれど、皆さん、その木の世話をして、大切に育ててくださるのはイエス様です。決して悪い、何もしない園丁や、木の世話人ではありません。わたしたちが良い実を結ぶことができるように、イエス様は、木の周りを掘って、肥料を下さって、毎日毎日、朝も、夜も、みんなが寝ているときも、お世話をしてくださるのです。

良い実が実るためには、よい世話人の人が必要です。わたしたちのお庭に植えてあって、だれもお世話をしない木にはいい実はなりません。けれど、果物の専門の人が作る果物は、とっても大きくて、立派な実がなって、そして甘くて美味しい果物ができます。
むかし、お庭に落ちたスイカの種から芽が出て、それがどんどん伸びて、何もしなかったのに小さなスイカが出来ていました。僕たちは喜んで、それを切って食べたのですが、あまり美味しくなかったんです。肥料もあげていないし、お水だってほとんどあげていなかったんです。でも、夏に贈り物で頂いたスイカは、大きくて、真っ赤で、甘くて、とっても美味しかったです。きっとスイカを作る専門家の人たちが、心を込めて、大切に大切に育てて下さったからだと思います。

イエス様は、木である私たちを心を込めてお世話をして下さって、いつか、良い実がみのるようにして下さいます。ですから、わたしたちは、イエス様が下さった肥料、神様のみことばを、しっかりと吸収して、神様の下さる恵みの太陽の光をいっぱい浴びて、聖霊の下さるいのちの水を沢山頂いて、大きく育つと良いのです。
お祈りいたしましょう。

イエス様。あなたがいつも、私たちをお守り下さっていることを感謝します。どうか、私たちがあなたのお恵みを沢山頂いて、実を実らせることが出来ますように。今週も私たちの家族、お友達、みんなをお守り下さい。イエス様のお名前によってお祈り致します。アーメン

「嵐の中の主の御声」主日礼拝説教

2007-06-24 19:23:45 | 主日礼拝説教
主日礼拝説教2007.6.24. 「嵐の中の主の御声」
詩編29篇. マタイ8章23-27. 讃美歌557/66/312/519/494/545a. 交読文9.

8:23 イエスが舟に乗り込まれると、弟子たちも従った。8:24 そのとき、湖に激しい嵐が起こり、舟は波にのまれそうになった。イエスは眠っておられた。8:25 弟子たちは近寄って起こし「主よ、助けてください。おぼれそうです」と言った。8:26 イエスは言われた。「なぜ怖がるのか。信仰の薄い者たちよ。」そして、起き上がって風と湖とをお叱りになると、すっかり凪になった。8:27 人々は驚いて、「いったい、この方はどういう方なのだろう。風や湖さえも従うではないか」と言った。
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今日の福音書の箇所は、古くから教会の絵画や、ステンドグラスなどの題材として取り上げられてきました。それは、教会にとっても、それらの作者自身にとっても、この嵐の海での出来事が、ただの人事ではなかった。この私の人生そのものであると痛いほどに感じていたからに他なりませんでしょう。船に乗っているのは自分だったと気づいた。
この御言葉が、過去の教会の歩み、キリスト教の歴史において、大きな励ましと力とを信仰者たちに与えてきたのです。

このマタイ福音書が記されたのは起源80年頃と言われています。聖霊降臨の恵みに力づけられた教会は大胆に力強く福音を宣べ伝えていきました。しかし、ユダヤ教徒たちからは、十字架のキリストを信じる可笑しな集団だと思われ、会堂や社会から追い出されてしまいます。
少し時代が過ぎると、ローマの皇帝、ネロの時代に迫害が始まります。キリスト者は猛獣の餌にされたり、松明の替わりに焼かれたりしたのです。ペトロやパウロ、多くの殉教者が出ました。教会で共に礼拝を捧げていた親しい兄弟姉妹が、次々と殉教していく。
まさに、マタイの福音書を聞いた教会は、嵐の只中にいるのです。この御言葉を聞いた一人一人にとって、あの船に乗っているのはあの人この人の話ではなかったのです。この私なんだと気づいた。 荒れ狂う海で、怖くなって叫んだのは、ほかの誰でもない。この私なんだと気づいた。そうすると、もはやこの御言葉は人事ではなくなるのです。身につまされる御言葉となるわけです。
迫害だけが私たちの嵐なのではありません。ここに集う私たちそれぞれに、人にはわからない嵐の時があり、声ならない声でしか主を呼べない嵐の夜があるわけです。キリストを信じて教会に行って、祈っているのにどうしてこんな苦しみに会うんだろうか。主は眠っておられる。私のことなど忘れてしまわれたのではないだろうかと思う時があるわけです。

今日の御言葉を見ますと、主の弟子達は、キリストを信じて、いままでいた陸を離れて、主の船に乗ったのです。自分の泥舟で行くのではありません。キリストと共に、キリストの備えられた船に乗ったのです。私たちが洗礼を受けて、教会という船に乗ったのと同じようにです。それなのに、気がつくと空は分厚い雲に覆われ、激しい嵐になっている。
どうして、キリストを信じて歩んでいるのに、こんな困難が押し寄せてくるのだろうかと思うわけです。

旧約聖書の出エジプト記というのを見ますと、エジプトの奴隷になっていた主の民が、モーセに導かれて、捕われていたエジプトを脱出し、乳と蜜の流れる約束の地へと向かう旅路が記されています。
イスラエルの民は、捕われていたエジプトの地から、神を信じて、約束の地に向かって歩き出したのです。それは、陸を離れて船に乗った弟子達と同じです。神の国を目指して歩む私たちの信仰生活と同じなのです。エジプト。つまり、この世の束縛から、捕われの身から解かれて、旅立ったのです。ところが、一歩エジプトを出ますと、そこに広がっていのは約束のカナンの地ではないのです。楽園とは程遠い、広大な荒野がどこまでも広がっていたわけです。

しばらく行きますと、紅海に突き当たり、行く先が閉ざされたかと思えるのです。すると後ろからエジプトのパロの軍隊が主の民をエジプトに連れ戻そうと迫ってきます。イスラエルの民は絶体絶命の危機を迎えます。しかし、主なる神は、紅海を二つに割って、その中に乾いた道を備え、イスラエルの民を向こう岸へと渡らせてくださったのです。主の民が渡り終えると、紅海はたちまち閉じて、エジプトの軍隊は海に沈められてしまいます。イスラエルの民は、大きな奇跡を見て、神様は何と素晴らしいことをして下さったと、讃美を歌うわけです。ところが、ふとあたりを見渡しますと、奇跡によって渡った先、つまり紅海の向こう側は、やっぱり荒野だった。人々は、モーセに、なんでこんな所に連れてくるんだ。私たちを荒野で飢え死にさせる気か。エジプトのほうがよほどマシだった。肉が食べたい。スイカが食べたい。ニラが食べたい。モーセに愚痴を言うわけです。

今日の福音書の箇所も同じです。キリストに従って岸を離れ、船に乗ったのです。弟子達は主の召し出しに答えたわけです。船になんて乗らないで、陸に残っていればこんな嵐になど遭わなくてすんだのです。しかし、キリスト者は、あえて主イエスに従って船出をしたのです。

聖書は、私たちに神の国へと向かって歩むように招きます。向こう岸へ渡るように招いているのです。主イエスに従って歩みだすようにと招いているのです。しかし、どうしてエジプトから出なければならなかったのでしょうか。岸を離れて船に乗るのでしょうか。

聖書は私たち人間は、罪のために滅びの中にいるのだと言います。エジプトに捕われていた人々のように、この世に捕われたものであるというのです。放蕩息子のように、父の家を離れ、自らの好きな道へと歩む。迷子の一匹の羊のように、この世という一見居心地の良い場所、しかし、気がつくと真っ暗闇の中にいるわけです。父なる神は、何としてもこのまま愛する一人が、ほかならないあなた、わたし、というその愛される一人が失われてはならない。命がけでその滅びの中から救い出そうと、ご自身の独り子を世に遣わされたのです。その御言葉を聞いた私たちは、救い主なるイエス・キリストに従って船出をしたのです。父の家に向かって歩き出したのです。主の教会という船は、神の国を目指して旅を続けるわけです。この船に乗って正解だったのです。エジプトを出て良かった訳です。しかし、ここで私たちは一つのことを問われています。お前はエジプトに仕えているのか、それとも神に仕えているのかということ。つまり、嵐のないこの世という陸を信頼しているのか、それとも船を備え、導きたもう神を信頼しているのかということです。
荒野で見えない神の手にすがるよりも、現実に見える食べ物、人間の住める土地、経済力、そういうのにすがったほうがよほど安心だと思い違いをしている。主の御手にすがるよりも、いま楽ができるほうが余程いいと思ってしまう。嵐なんてまっぴら御免。こちらの岸で、楽しく美味しいものを食べて普通に暮らせれば、もうそれで十分だと思ってしまう。
船に乗らなかった陸にいる人々は、そういう苦しみにあわなくてよい、しかしキリスト者はあえてそうではなく船出をしたのです。
主イエスが共におられるのに嵐がきたのです。神様を信じたからもう大丈夫だと思っていたのに、船が沈みそうになるのです。
弟子達は必死で叫びます。「主よ助けて下さい。溺れそうです。」救って下さい。「私たちは滅びそうです。」という言葉です。口語訳聖書では「死にそうです」と訳されていました。「死にそうです」とは、もうすべての手段を失ったものの叫びなのです。
私たちはそれぞれに、「人間の力ではどうすることもできない力」というのをこの船の上で経験したのです。人間の無力さを嫌と言うほど知らしめられたのです。
主イエスは、すみやかに助け出して下さいました。

しかし主はその後で、「信仰の薄い者たち」と仰る。私たちは責められていると思うわけです。「主よ助けて下さい」とそう叫んではいけなかったのだろうかと思うわけです。
けれども、主イエスは、弟子達が「主よ」と叫んだことをたしなめておられるのではありません。「私がいるんだから、自分たちでなんとかしなさい。」そうは仰らないのです。信仰のやせ我慢をする必要はないのです。「悩みの日にわたしを呼べ」と、そう聖書は言うのです。主を呼んで良かったのです。ただ、主イエスは、「信仰の薄い者だ」と言われたのです。信仰が無いと言われたのではありません。小さい信仰だといわれたのです。もっと私に信頼して良いのだ、そういう招きであります。

私たちはもっと大きな信仰をもたなければいけない。そういうふうに思ってしまうのです。しかし、主イエスは「もっと大きな信仰を持つことができたら、あなたを救い出してあげるか考えてみよう」立派な信者になったら救ってやろうなどとは仰らないのです。

あなたの存在が何より尊い。良い羊飼いである主イエスは、いなくなった一匹の羊が、非常に信心深かったから救い出しに行ってやろうと思われたのでも、放蕩息子が放蕩しつつも、実は大変信仰篤かったから、父が走りよって迎えて下さったのでもありません。あなたが失われてはならないんだ。父なる神の前に、あなたの存在は何よりも尊いのです。私たちを滅びの中から救い出し、神の国へと招かれた主イエスは、旅路の嵐からも必ずや救い出して下さる神様であります。

神は、その独り子を給うほどに世を愛された。パウロは、「ご自身の御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために死に渡されたかたが、どうして、御子のみならず万物をも賜わらないことがあろうか。」(ロマ8:32)と言います。

この神に信頼して良いのです。キリストがいのちをかけて弟子達を、また、ここにいる私たちを守られるのです。「主よ」そう呼んでいいのです。信頼をこめて、そう呼べば良いのです。

私たちは奇跡を信じるのではありません。ご利益を信じているのではないのです。私たちのために命をも差し出して、嵐の海から救い出して下さる神の愛に信頼する。神を信じるのです。主イエスは今も生きて、驚くべき御業をなし、主の民を導かれます。いまも嵐を鎮め、癒しを与え、奇跡をなしたもう神を教会は本気で信じているわけです。しかし、奇跡がわたしたちの神になっては断じてならないのです。
私たちの歩みは奇跡に委ねる歩みではありません。私たちの歩みは、いのちをも差し出すほどに私たちを愛して下さった、キリストの愛に委ねる歩みなのです。見えざる神の御手。それこそが、見える如何なるものにもまして、いかに力強い御手であるか、御言葉は語っているのです。

奇跡の後で言います。「この方はいったい誰だろう。」・・・この問いは、福音書を読んでいる私たちに向けられた問いにほかなりません。福音書の中には何度も、「あなたは私を誰だと言うのか」そういう問いかけが語られています。
聖書のあの船に乗っていた人たちは、何て言っただろうかではないのです。「この方は一体誰だろう。」こういう問いが私たちの中に生まれる。いやそう問われている。そして、それに私たちはどう答えるかがこの物語の続きなのです。




詩編29篇「ものみなは唱える『栄光あれ』」週報掲載説教

2007-06-23 19:45:26 | 詩篇小説教
「ものみなは唱える『栄光あれ』」 ・・・詩編29篇1-11

29:1 【賛歌。ダビデの詩。】神の子らよ、主に帰せよ/栄光と力を主に帰せよ29:2 御名の栄光を主に帰せよ。聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ。29:3 主の御声は水の上に響く。栄光の神の雷鳴はとどろく。主は大水の上にいます。29:4 主の御声は力をもって響き/主の御声は輝きをもって響く。29:5 主の御声は杉の木を砕き/主はレバノンの杉の木を砕き29:6 レバノンを子牛のように/シルヨンを野牛の子のように躍らせる。29:7 主の御声は炎を裂いて走らせる。29:8 主の御声は荒れ野をもだえさせ/主はカデシュの荒れ野をもだえさせる。29:9 主の御声は雌鹿をもだえさせ/月満ちぬうちに子を産ませる。神殿のものみなは唱える/「栄光あれ」と。29:10 主は洪水の上に御座をおく。とこしえの王として、主は御座をおく。29:11 どうか主が民に力をお与えになるように。主が民を祝福して平和をお与えになるように。

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詩編29篇は旧約聖書における頌栄(主への讃美)の一つです。「神の子らよ。栄光と力を主に帰せよ――聖なる輝きに満ちる主にひれ伏せ」(1-2節)とあります。これは「跪きなさい」という意味の言葉です。神に栄光を帰し、御前に跪けと招くのです。
 この29篇では、主の御声を顕すものとして、雷や嵐などの自然現象が用いられます。それは、御声の偉大さを示すだけが目的ではありません。
カナン地方では、バアルという異教の神が崇拝されていました。彼らの神話によれば、バアルが自らの王権を打ち建てようとする時、それを妨げる敵として、海と川が立ちはだかっていると信じられていました。しかし聖書は、主は、「大水の上」にいまし「洪水の上に御座をおく」。この方こそ「とこしえの王」(10節)であると宣言するのです。荒れる海も、自然世界も、すべてが主なる神のご支配の下にあるのです。
 しかし、この詩編の頌栄をもたらしたのは、驚くべき出来事ではありません。その只中にある福音そのものです。頌栄は決して自然讃美ではありません。この神が、主の民に力を与え、平安をお与えになる(11節)。 全世界はもちろんのこと、主の民、他ならないこの私自身を支えるのです。人間は嵐の前にはあまりに無力です。しかし、たとえ山が海に没し、世界が滅びるとしても、私はこの神の御手により頼むことができる。まさに、ここに讃美が生まれるのです。
 パウロは十字架のキリストこそ、栄光を顕された主に他ならないと言います。(第一コリント2:18)嵐の海に溺れるばかり、望みの絶えんとする人間に、差し出された神の御手がある。まさに、キリストの十字架、そこに神の栄光は現され、私たちは主への讃美を歌うのです。「栄光あれ」と。

主の祈り 【新しい訳による主の祈り】

2007-06-16 08:39:32 | 今日の祈り

天におられるわたしたちの父よ、
み名が聖とされますように。
み国が来ますように。
みこころが天に行われるとおり地にも行われますように。
わたしたちの日ごとの糧を今日も お与えください。
わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。
わたしたちを誘惑におちいらせず、
悪からお救いください。
国と力と栄光は、永遠にあなたのものです。
アーメン

(聖公会・カトリック教会共通口語訳による主の祈り)
※この新しい訳の「主の祈り」は、2000年2月15日から用いられています。
いまプロテスタント教会で用いられている翻訳「天にまします我らの父よ」よりも、より原典に忠実な翻訳となっています。例としては、「御名をあがめさせたまえ」が「御名が聖とされますように」が挙げられます。「御名をあがめさせたまえ」は、私が何かすることで御名があがめられるようにというニュアンスですが、「御名が聖とされますように」では、私が何かするから主の御名がどうにかなるのではなくて、主の御名それ自体が聖であるという意味合いです。
また、今まで「我らが人に赦すごとく、我らの罪をも赦したまえ」となっていた部分では、私が人の罪を赦すから、わたしの罪をも赦してほしいとなっています。つまり引き換え条件のようでもあります。しかし、新しい訳では「わたしたちの罪をおゆるしください。わたしたちも人をゆるします。」となっています。私が赦すから赦されるのではなくて、主なる神が赦しの神であると言う所に根拠があります。
他にも新しい訳の良い点はありますが、主な点は以上のような箇所です。
しかし、今まで用いられてきた口語訳も美しく非常に素晴らしい訳を含むものです。