新令和日本史編纂所

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「大本営参謀の情報戦記」 堀 栄三著作 第五部 戦略爆撃と米軍暗号の解読

2021-07-02 11:00:15 | 新日本意外史 古代から現代まで

「大本営参謀の情報戦記」 堀 栄三著作 第五部
 戦略爆撃と米軍暗号の解読

日本は戦争も後半に入ると、B29爆撃機によって激しい爆撃を受け、東京をはじめ各都市は壊滅状態だった。この爆撃機は高度一万メートル以上を悠々と飛んできた。
星型二重のエンジンに、排気タービン過給機を付け、四発エンジンは、巡航速度が467k/hと戦闘機並みでは、日本の戦闘機は一撃離脱戦法がやっとだった。
これに立ち向かう日本戦闘機は、高空の薄い空気の為、エンジン出力不足で苦戦を余儀なくされた。
それでも、全戦期を通じて、400機を撃墜したとの記録が残っているが、アメリカ側の発表と合わなく、この数には疑問符が付く。


斜め機銃を背中に乗せた、夜間戦闘機の「月光」や「雷電」迎撃戦闘機が有名である。
この20mm斜め搭載機銃は、B29の夜間爆撃に対抗して考案された。
夜間飛来する、B29のエンジン排気炎を目標に、腹面から忍び寄り、下から胴体やエンジン部分に機銃弾を撃ち込む戦法である。
 考案当初、軍首脳部は効果があるのか半信半疑でしたが、ラバウルの航空部隊が成果を出すと大々的に採用されました。
こうして、二式陸上偵察機改造の試作迎撃機は、昭和18(1943)年8月に夜間戦闘機「月光」として制式化されました。
 夜間飛行は、昼間と違って極端に視野が狭くなり、上空と海面や地上との識別が困難になることもあるため、飛行場から飛び立つことはできても迎撃し、
帰還するのは非常に困難です。そのため航法や通信が非常に重要で、その点で乗員が手分けしてこれにあたることができる複座機の「月光」は、単座機に比べて有利でした。


 また機体が大柄なため、レーダーを装備することができ、その点でも夜間戦闘機に向いていました。というのも、当時のレーダーは大型で、しかも操作には手のかかるものだったため、
パイロットがひとりしかいない単座機に装備することは難しく、レーダーを搭載するのは他国も含めて双発の多座機ばかりでした。
 「月光」は数少ない日本のレーダー搭載機になり、旧日本海軍唯一の夜間戦闘機として用いられた。


B29は、グアムやサイパンから日本に向かう場合、日本軍の富士山に在ったレーダー波を目標に飛来したという。なんとも皮肉な話である。
こうして本土に近づくと、それぞれの編隊は、爆撃目標に向かい、南北に分かれて飛行したという。


何しろ日本の高射砲はB29の高度まで届かなかったから、高射砲での撃墜数は少なかった。
それでも、五式十五センチ高射砲は、射程一万八千メートルの性能で、久我山に在って、少しは役に立ったらしく、何機かの撃墜の報告はある。
しかし、絶対数が不足でB29にとっての大きな脅威にはならなかった。

 戦略爆撃と米軍暗号の解読


以下本文から引用

 米軍は、サイパン、テニアン、グアムの三島に昭和十九年九月にはすでに五十機、十月には七十機のB-29を進出方せた。
 堀の属する米国班は、航空本部の調査班、陸軍中央特種情報部(特情部)と緊密に連絡をとって、サイパン方面のB‐29の情報把握に努めたが、硫黄島失陥後は、日本の重爆機による攻撃も不可能になり、
日本から四千キロも離れたところにある飛行場に、いま現在何機のB29がいるかを知るのは至難のことになった。海軍機が奇跡的にサイパン飛行場の写真偵察に成功したのが、昭和十九年九月、その後十一月に陸軍機が、
かなりの高々度から、サイパン、テニアンの二島の写真撮影に成功したのが、硫黄島失陥前に挙げた手柄であった。それ以後は、もはや一機もこれらの島に日本機は飛べなかった。


 先に述べた特情部の重松少佐らが、海軍での指導を受けて活躍しだしたのが、昭和十九年十月である。特情部は鋭意サイパン方面のB-29の割出しを急いだが、その間にもB129の日本本土爆撃は一日{日と猛烈になってきた。
いわゆる戦略爆撃であった。戦略爆撃は、日本本土の戦略的目標である航空機生産工場、兵器生産工場、製鉄工場、鉄工製作工場などを狙い、名古屋及び東海地方、京浜地区、犬阪神尸地区、九州北部地区と、
昭和二十年一月以降本格的となり、遂に三月九日夜の東京に対する焼夷弾爆撃から、名占屋、大阪、神戸と都市爆撃に移っていった。
このため三月九日夜の東京大空襲では、東京での焼失家屋三十万戸、死者七万二千、負傷者二万五予というベルリン、ハンブルグの米軍の絨毯爆撃に匹敵する大被害を受け、日本国民の戦意を著しく喪失させた。

 その上、跳梁するB-29に対して、日本軍の防空部隊は高射砲も戦闘機もほとんど歯が立だなかった。その理由はB-29の高度に対して、日本防空戦闘機の高度が及ばなかったし、
高射砲も一万メートルの高度のB-29には弾丸が届かなかった。さらにB-29は雲のあるような天候不良のときを狙ってやってくる。レーダーを使っていたからであろうが、目視を原則とする日本の防空戦闘機は、
B-29の高度に達し得なかった。ここで寺本中将のウェワクでの言葉を想い出して貰いたい。


 「制空権とは制高権であって、相手が七千メートルまで昇れば、八千メートルまで昇れる飛行機を、九千メートルになったら一万メートルと、高所高所への競争になる。(中略)そして最後は国力の問題でもある」
 中将はこのときすでにB-29、高度一万メートルを予見していた。また「軍の主兵は航空なり」とは、航空は制空だけで敵の戦意を喪失させるだけの働きのあることも意味していて、中将はあの頃から戦略爆撃のあることも予見していたようだ。
 かくて戦略爆撃は米軍の占領した空域下で、日本列島が太平洋の小島のように弄ばれていた。
 こうなれば特情部が出来るだけ正確に、サイパン方面のB-29の状況を偵知する以外に、本土の被害を最小限にする方法はなかった。
 当時の特情部の企画運用主任だった横山幸雄中佐は、特情部の働きについて、戦後の手記に次のように述べている。


日本が「原爆投下を察知した」というのは嘘

 「特情部中野大佐のマニラ進出によって、一時空になった米英暗号解読研究班を、二十年五月、町田大尉を中心に再建し、釜賀一夫少佐らの援助を受け、数学、語学の学徒を動員して、極めて科学的に研究を続けた結果、
解読に約八十パーセントの成功を収め、暗号解読の曙光が見えたとき、惜しくも終戦を迎えてしまった。
 このように暗号解読の進展が意の如く進まなかったので、その補助手段として、海軍と協力して通信諜報調査を系統的に行った。特にこの調査中特筆すべきことは、戦争中本土に来襲するB-29の進発を確実に捕えて、
防空部隊に正確に通報し得たことであった。また特に広島、長崎に投下した原爆機を探知し、参謀総長から賞詞を授与されたことである。戦争末期には、全国に探知の網を張り、B-29の無線電話傍受のため、
五十人以上の二世を徴用した」これから判明するのは、出来れば暗号解読でB-29の行動を知りたかったが、解読はうまく進まなかったので、通信諜報による以外になかった。
しかもこの通信諜報がB-29の進発までを、はっきり膕んで各方面に連絡したので、あとは防空戦闘機や、高射砲の性能の悪さに責任があったと言外に言っている。
しかし参謀総長から賞詞を授与されたことは事実であったが、「原爆機を探知し」というのはいささか言い過ぎである。
戦後の回想にはこのようなことがしばしばある。


 特情部の出来だのは昭和十八年七月、参謀総長の直轄部隊だったが、仕事は第二部長が区処することになっていた。換言すれば堀の属する第六課、特に米国班がこの情報活動の担当班であって、
特情部からの情報で堀たちは、B-29の行動、配置などの判断をしていたのである。


B-29のコールサインを追う


 では、どのようにして特情部はB-29を追跡していたのか。
 海軍の通信諜報を勉強してきた重松正彦少佐を主任とする陸軍特情部研究班は、田無の特情部で耳を澄まして二十四時閧、サイパン方面のB-29が発信する電波を一語も洩らさじと聞いていた。
暗号解読が出来なかったので、取れるのは電波だけであった。もちろん、その取った全文は、内容がわからなくても、解読のための大切な研究資料となるから、没にするわけにはいかない。
その電波の統計を作っていくと、電波通信の冒頭部分には、一定の符号のあることが判明してきた。さらにそれを方向探知機で綿密に調査していくと、


 サイパンのB-29は、V四百番台
 グアムのB-29は、V五百番台
 テニアンのB-29は、V七百番台と判明してきた。


このコールサインをさらに丹念に調査していくと、例えば、15V576と出たら、第五七六戦隊の第十五番機であることがわかってきた。従ってV576の中に何番機まであるかを調べれば、機数が判明する。
B-29はサイパン付近で、盛んに訓練を実施したが、そのときも同様のコールサインを出すので、いま第何戦隊が第何番機から第何番機まで訓練飛行中ということまでわかりだした。


 米空軍は日本の通信諜報を、当初の間はあまり気にかけないで無警戒であったようだ。
日本ではこのコールサインを昼夜にわたって克明に数えて調査していた。そうするとこの戦隊はグアム、この戦隊はテニアン、その編制、機数などをほとんど掴むことが出来て、
最大機数は、三島で六百機以上になることもあった。もちろん、日本の上空で撃墜されたもの、途中事故で墜落したものなどは欠番となってくるので、各戦隊の損害も判明した。
さていよいよ爆撃に向うための発進であるが、発進命令を受けた戦隊は、まず飛行場の周辺で無線機の点検と電波の調整をする。このときの発信電波は、全機が一斉にV、V、V、V、V……とキーを叩く、
その電波の喧ましいほど賑やかなこと、「何かあるな?」と聞いている特情部の方ではすぐ判る。空中に舞い上ってしまえば、この電波が唯一の命綱であるから、発進にあたって十分に無線機を調整するのは当然であった。


 このV、V、V、V……があってからおおむね三十分ぐらいで発進したようだ。
発進後十分程度の飛行中に、また一回電波を出す。「15 V 575……」大体簡単なのが多かった。想像するに、「第十五番機異常なし」とでも発進直後の搭乗機の状況を報告していたようだ。
 それから後は、日本本土の富士山を目標に真直ぐ北上する。富士山がそんなに遠くから見えるわけでなく、富士山には日本のレーダーがあったので、その電波を利用して米軍は夜間でも曇天でも北上することが出来た。
皮肉なもので、こちらが敵機を早期に発見するために設けたレーダーの電波が、米軍に方向を間違えないように案内役をしてやっていたから、情報の世界はややこしい限りである。


B‐29の戦隊は途中硫黄島近くまで来ると、そこでまた、コールサインの入った電文を発信する。それはごく短いのもあり、長文のものもあった。
恐らく日本本土の爆撃目標、任務、将来の集合点などの確認ではないかと思われたが、解読が出来ないので内容は不明であった。
この時機に全国の方向探知機が、コールサインの位置を求めて、「何機どこどこを北上中」と報告する。


 さらに一回、いよいよ日本本土に侵入の直前、指揮官機と思われるものが短文を出す。それ以後は電波封心にとなるので、「これから電波封止」とでもやったのかも知れない。
この電波を捉えて方向探知に成功すると、「何機○○の方向へ進攻中」と大体の目標が判明する。この情報を防空部隊に通知するのが、特情部の重要な仕事であった。
第六課では特情部がコールサインから割り出したサイパン方面の、戦略爆撃部隊の今後の作戦が何かを判断していかねばならなかった。
 日本本土上空は米軍の無線封止空域になっていたので、ほとんど電波の捕捉は困難であった。しかし緊急事態、例えば某機に事故が発生したとか、爆撃目標を変更しなければならないとか、
日本の戦闘機が接近してきたとかいう場合には、無線電話で編隊長に緊急に連絡する。待ち構えている日本の全国の傍受組織がその声をキャッチする。帰路の集合点付近ではしばしば無線電話で話し合うので、
その声はほとんど聞きとれたし、その内容も判った。  
 通信諜報はあくまでも内容のわからない電波から、なにがしかを探り出そうという手法であったから、判明する内容には限度がある。しかもそれは極めて小幅の限度であった。
しかし発進から本土接近までの行動は見事に捉えることが出来た。これに米軍の発信する電文の内容が暗号解読できていたら……とそれが残念でならなかった。
(以下略)


次回は愈愈原爆投下の情報に入る。