サンカ生活体験記 第二章
土建業界はシノガラ
山から山への彼らの天敵は大規模な官憲の狩りこみ以外は、サソリとマムシだったらしい。すっかり彼らに獲り尽されて今では沖縄にしか、この毒蛇は生息していないが、各国ごとで、タヂヒベとよぶマムシ捕りは先発隊の大人(オビト)のごとき存在
で、これは三角寛先生前掲書の94Pにも昭和初年に実在していた代表的な蛇捕りの彼らの名前の一覧表がずうっとでている。
なにしろ蒙古の包より簡単な二つ折りの天幕で、江戸末期までの百姓みたいな穴居生活で、寝るときには蓋をするのではなく、セブリは地面にそのまま一家が横たわるのであるから、マムシに襲われたら血清もなかった時代ゆえ、ひとたまりもなく、先に立ち廻って蛇捕りしてくれる者がいなくては、とても皆で安心してテンジン暮らしはできなかったであろう。
昭和初期の名人というか、恩人は三十一名だけ判っているが、彼らのおかげで生活はできたのである。
(血統)(姓名)(普通人名)(生年月日)
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出雲田地火出雲多治伊大正元年・11
石見田地火石見多治人(たじんと)大正7・9
若狭田地火若狭太刀平明治41・8
因幡田地火因幡田治平明治29・11
但馬田地火但馬多治彦明治31・9
丹波田地火丹波太次日明治39・6
丹後田地火丹後多次米(べい)明治43・3
山城田地火山城多治内明治38・7
近江田地火近本太ニ平明治33・1
伊勢田地火伊勢多治部大正元・10
伊賀田地火伊賀田地部大正2・12
美濃田地火美濃多治夫明治45・7
大和田地火大和田地夫大正2・3
紀伊田地火紀伊太ニ戸大正3・11
河内田地火河内太平次平明治44・9
和泉田地火和泉太治兵明治43・6
摂津田地火摂津太刀平明治44・2
弾磨田地火播磨多治郎明治27・4
徹底的に安全を期すために田地でも叢でも燻しだしをするから田地火の姓がつくのだろうが、岡山から下関、九州へ入ると、この姓が「多治比」と当て字がことさらに変えられてくる。
ただ三角寛先生はサンカが、まさか皇国史観をもって日本書紀など例証にする筈はなく、古事記でさえ、もの貰いみたいに「こじき」としているのに、彼は日本書紀に合わせてサンカを解明しようとするから、書記には一行一句も出てこない契丹には帰納してゆけなかったのである。
西暦757年といえば、契丹の勢力が登り坂になっていて、間もなく唐を仆し取って代わる年代に近い頃だが、大伴多治比の一党が謀叛を計ったとして、同じ契丹系の橘奈良麿と共に事前に捕えられ吊るし首にされている事件がある。
なにも契丹人は滅びた唐派遣軍進駐の日本へ、マムシ捕り会社の出航社員として来ていたわけではない。
だから、巧みにトウの宮廷に入り込んでクーデターの機会を狙っていたのを、唐本国よりの連絡で、藤原打倒の企てありと見抜かれ先手をうたれて、謀叛容疑で捕えられた宮中の契丹人で、このため捕えられ皆殺しにされたのだろう。
さて、戦国時代になるとマムシを怖れぬ田地火の者らは、コノカゲ(樹蔭)族として、すっぱや、らっぱの物見役に重宝されて扱われたというが、食糧が欲しさに手伝ったにすぎなかろう。
「秀吉こと木下藤吉郎はサンカの樹蔭族の出である」と鹿島のぼるがその著で主張しているのも、その理由からである。
信長の室奇蝶御前の実父で「まむしの道三」と呼ばれた今の岐阜城にあたる当時の井の口城主も、この田地火の出身で、平気で人の怖れるマムシを踏んづけて即座に突き殺したので有名だが、秀吉は後に帝位に就こうとし、聚楽第を己が新御所として戻橋までの八町四方の人家や寺院をとりこわしてから、時の正親町帝に対して、まじめくさって、
「何を隠そう、私は前帝後奈良帝の落とし胤にして、帝位を継ぐのはこの身である」と奏上。
当時の皇太子の誠仁親王を二条城を新御所にして守護していた明智光秀を煙たがって、本能寺の変で信長が爆死すると姫路より使いを出し、細川幽斎の代々の城である勝竜寺城へ招き寄せ、不意にだまし討ちみたいにして攻めたところ、細川には娘の於玉を縁づけていた光秀は、まさか細川が秀吉に買収されているとは知らず油断していたので、はて変だと思った時は山崎円明寺川から秀吉の兵が城内の細川の兵と共に襲ってきて、ついに敗走して殺されている。
つまりが、「参謀本部編」となっている「山崎の戦い」は全くの虚構である。なにしろ岐阜城主になっていた信長の三男の信孝を盟主にして、信長殺しの下手人として光秀を討ったように今となってはされているが、この戦の一部始終を信孝の城代の斎
藤玄蕃允や岡本へ連名で秀吉は詳細に書き送っている。盟主となって山崎の戦いをなした織田信孝や、その家老の岡本や、同行して戦ったはずの城代斎藤へ、本当に参戦したものなら書面で事細かに出す筈はない。でっちあげである。
が、この報告書の文面をもとにして「山崎合戦」はあった事にされ、筒井順慶の洞ヶ崎が有名になると、講釈本のタネ本となり参謀本部もこれに引っ掛っているが、春秋社刊の故高柳光寿氏の「山崎の合戦」の一冊にも、この架空な戦はどうして実在したごとく巧みに作られているかの詳細な考証が明白に出ている。一読すべきである。
さて道三にしろ秀吉にしろ、「白バケ」とサンカ言葉でいう素性を隠すため、道三は土地者は避け京よりの落武者ばかりを周囲に置き固めたために、土地の土岐勢力によって長良川で討死。秀吉も表向きは「八の者」として信長に仕えたが、サンカの樹蔭者の己が素性を隠すために、「北山城攻めの時はもとより、生涯を通じて殺したサンカの数は実に三千二十九人の多きを数えた」と前著98Pで三角寛先生も解明する。
今でもマムシドリンクやマムシ酒の会社では、入社させる際に徹底的に身許調査をし、サンカ系の疑いのある者は社長が拒み絶対に採用しない。
さて、飛ぶ鳥と書いて、これまでアスカと読んできたが、サンカはそれに対して、「トベナイ」という異称がある。三角寛は「陰陽師」、つまり坐なし住居不定の流浪の民」といった解説をなし、神代からの存在とする。
しかし、実際は、日本海で、往復ならばバイカル号もベーリング寒流にのってゆけば重油が節約できたゆえ、昔は横浜発だったのを今では新潟に変更したとう過去がある。つまり、昔の契丹からは、どんどん白山島と呼ばれた今の新潟や能登半島へ筏で一日で流れついてくる。しかし、日本からは流れてはゆかぬ。西南アジアから来ても戻ってはゆけぬ。
だから、契丹系も「トベナイ人種」なのである。
サンカ社会出身の医者として栄え、昭和三十五年七月五日現在ですら71人も著名なのがいたそうであるが、今では創価学会や人の道の幹部に納まっている者達がいるという噂である。
表向き無申告だったが、ニ〇三高地でどんどん戦死した時代に、徹底的に人間狩りをやったので、千万人以上が新しく新戸籍に入っている。だから新興宗教では、そうした新信者獲得のため、そうしたトベナイの豪い人達を幹部に招き、大いに勢力を伸
ばしているのだろう。旧「宝石」の編集長だったO社長の、「いんなあとりっぷ」という新興宗教の雑誌がある。旧サンカ系の人にいわせると、「因奈飛りぶぬ」が語源か、どうもそれの相似ではないかとさえいう噂がある。
さて、終戦時、私の先生、木々高太郎こと林慶大医学部教授は、四百字詰千ドル、当時は360円だったから、実に一枚三万六千円という、当時としては破天荒の原稿料を前金で受けたと威張っていた。先生はそれまで人生二度結婚説というのを発表していて世評を大いにうけて、「男は若い時は金のあるオバンと結婚し、その死後、改めて若い女と結婚して幸せにしてやる。女も同じで、若い時は金持ちのオヤジと結婚して大いに出精させて早死させて、その遺産で有望な若い男を後添いにすべきだ」
と、まことに理想的な、きわめて安全性のある啓蒙説だから、木々先生の探偵小説の何十倍も売れたもので一世を風靡したものである。そこで、木々先生に狙いをつけたのがCIAか、アメリカの農務省か判らぬが、莫大な稿料で10枚ときいていたが、
「日本人は米を喰うからバカになるし、女は美容が落ちる。その点、欧米なみに小麦粉のパンさえ食せば頭は良くなるし、女はマリリン・モンローみたいに若々しく麗しく魅力的になる」
天下の三大紙に一頁広告で、先生の写真入りで三日おきぐらいに掲載されたものである。慶応大学医学部主任教授という肩書きで、写真入りだったから効果は抜群であったようだ。
今では木々高太郎の推理小説は古本市へ行っても百円均一の箱にも入っていないが、日本での小麦の産出は僅かゆえ、98パーセントはアメリカよりの輸入。若い娘さんはパン食しかしないのも珍しくない。おかげで昔の自給の瑞穂の国は古米が余ってしまい、外国へ無料で送ったり国内売価の一割で輸出し、減反につぐ減反で、馬や牛は肉にしてしまい、重油の耕運機を動かしている。つまり米が余っているのに食糧輸入でアメリカに首の根っこを押さえられている。
宣伝というのは大した力のあるものである。だから、ここでサンカの箕作りや箕直しを書いても、実物を見たこともない人の方が多いのではないかと思う。しかし、サンカはこれが主だった。
要するに、米をすくってゴミをとったり、半端や虫喰いを選り分ける、農家にとってはなくてはならぬ、昔は大切なものであった。彼らはこの箕を、竹の少ない甲州では松皮や藤蔓、藁をも混ぜはしたが、殆どはササラとよぶ竹を細く切ったので拵えて
農家に持っていった。つまり日本国中の白米のミノはサンカによって製作されて供給され、彼らの生活も成り立っていた。
ところが、今となっては見たくても実物はもはや減反につぐ減反で、農家にさえも見当たらない事が多い。
つまり居附サンカとしてトケコミをして暮している者はよいが、昔通りにミノを作って山から山へと放浪していたセブリサンカの生活は、アメリカのせいか、木々先生の広告の魔術のせいか、もはやどうしようもなくなってしまい、餓えるか一揆を起こ
すか、どっちかしか彼らには残された途はなくなってしまったのである。
さて、オカミはのできる前に、官制の平民社というのを作って成功した実績がある。それで今度もこの方式でと考えた。
敗戦の結果、それまでは隠忍して人里を避け、表面から姿を匿していた彼らが、関東箕製作の製作者組合、全日本箕作り製作者組合が、GHQによって組織化され公認されるようになった。
それまで民族同和事業会の美名で内務省警保局の下部組織として、彼らサンカ刈りをしてたのが、同和事業会と改名し、各都道府県に応対窓口を設け、サンカ対策もその管轄として、「進駐軍の命令により」と、これまで一切分明していなかったサンカの実体を、この時とばかり研究し、大いにその対策を練り、これまでの反体制的行動から脱却させようと試みたのは、「生活の物質的な文化」と題する三角寛著前述の本の106Pより109Pまでに表にして出しているから、サンカを故意に誤解さ
せて、さも凶悪な犯罪人のごとく扱うよう仕向けてきた作り話が、いかに出鱈目であるかも、よく一般に判ってもらえるものと思い、ここに援用してみる。
サンカ社会において、組織的に全日本のセブリの動態を統一統計するということは、昭和二十四年全日本箕製作者組合ができるまでは、まったく官憲の力では不可能であった。
それまでは、各国々のクズシリが、昔の大名のようにその国内だけの動態を知るだけで、これを丹波のアヤタチさまが幕府将軍のような立場で統御していただけのことである。
それが、昭和二十年に占領軍が来て、それからのことゆえ、四年後の九月一日に全日本箕製作者組合が結成され、その移動本部が東京にできて、組合長にアヤタチが推載されて、以来各種の事が事務的にも統一され、機構も判りやすくなって便宜を得られるようになったのである。
(1)共同基金
物質的文化といっても、この文化という言葉は、一般が文明と勘違いしているというのが先生の定見である。先生の云う文化とは、犯罪と刑罰のない理想社会のことで、刑罰を必要とする社会は文明であっても文化とは云えないとしているのである。文化という字句の解釈は外国語の文明という意味と全く混同されていると思う、と三角説は明確に云う。
そうだとすれば、サンカ社会は、文化や文明に取り残されているのである。それが明治の文明開化にはさすがに衝撃を受け、「トケコミ」や隠密族(シノガラ‥‥社会構造篇に後述)が日増しに殖えている。さらに、前の大東亜戦争では有史以来の大変
革が起こって、ここにサンカ絶滅近しの現象が現出されているかのようであると三角先生は説く。
しからば、現存するサンカの物質的生活基準はどうなっているのだろうか。
サンカの本態は前に鏤々と述べたように、箕作り・販売と修理である。これで幕末まで生きてきた。他の副業もあり、十二部に分かれてはいるが、それとて本態は箕作りであるから、それらを全部含めて全日本の総数2011張のセブリの生計を示すと、
昭和二十四年九月七日現在で、全国セブリの一日の総収入は、その申し立てだけでも一千九百二万四千六十円であった。(全国箕製作者組合調査)
----もちろん申告は十分の一以下と正しくは推定される。
これを2011張に平均すると、一セブリの一日の収入は946円であるから、月収は二万八千三百十円となる。この収入には一銭の公租公課もなく完全収入である。
住む「ユサバリ・ユカ」と称するセブリ地も多くは公有地である。仮に私有地の場合には、その地主の箕を無償で修理するとか、箕一枚を手土産にする程度だから、さほど現金支出はない。
ただし、一族の共同基金にする「ツナガリ」を毎月一枚ムレコに持ち寄らねばならない。それが一族維持の共同基金となるのである。だから、箕作以外のセブリの者は、箕一枚の現金として二百五十円を出す。セブリでは箕一枚の原価を二百五十円以上と決め、昭和二十四年以降変動していない。(とは言うが、実際は収入相当ゆえ遥かに多い筈で金持が多い)
(2)共同基金の総額
この金額は、彼らが犯罪などおかす筈はない程に、まことにバカにならない金額である。
昭和二十四年九月七日、全日本箕製作者組合結成時の調査では、八千二十万円だったものが、十二年たって昭和三十六年四月六日になると景気上昇か、下の表のように十分の一の控え目でも増加している。(実際は、税金の対象にならぬよう押さえてあ
る)この総金額は、全日本組合関東支部長、関東箕製作者組合長の裁断によって得られたものであるが、この金額は戦後だけのものであるか、戦前の蓄積も下積みされているか否かについては調べができなかった。これらの基金は、全て東京秘在の隠密族
([シノガラ」によって運営され、年一割ニ分の利廻りで運用し、セブリ師弟の「ツキサキ」に使われる。ツキサキとは突入、突破、進学の意味、つまり新人生へ転身することである。ここにも、サンカのセブリ族絶滅の拍車が次第にかけられてゆく、と
三角寛先生は誤らる。
道別共同基金総額表
道別国数セブリ数基金総額
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西海道 十一国29919780000円
南海道 六国23313710000円
山陰道 八国20420035000円
山陽道 八国31129060009円
畿内 五国29336830007円
東海道 六国22929380015円
北陸道七国 31 2080960円
東海道 十五国41149618020円
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合計 200491011円
また、この点が白や赤だけのとは違う点である。
例えば、騎馬系の白の弾正家[弾家?]では、その支配下の者には猿飼族に対しても、年に金二朱の人頭税をかけて、明治までずっと徴収していたのである。
それゆえ、年賀と八朔と呼ばれる日には千代田城へ手代とよぶ山田浅右、柳橋助六らを伴って伺候するが、莫大な金の収入は実質は十万石以上というので、「何々の間詰め」といった待遇はされなかったが、十万石の格式で駕篭で乗り入れは許されていた。つまり、今いうところの人頭税を徴収する他に盆暮の上納金も納めさせていたので、幕末に飛び地の神田於玉が池に馬医者の伜の千葉周作の道場を建ててやったり、新選組の日野や百草も弾左衛門地で、婚礼縁組の一切の届け出をして許可を受けている土地柄。それゆえ、鳥羽伏見で敗れて戻ってきた新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう時には黄金二万円の他にヘーゲル銃二百挺に弾薬をつけ、人夫百名も出している権勢ぶりなのである。
三田村鳶魚の江戸考証によれば、中央公論社の本でも、
「箱根以西の銀本位の通貨は室町御所以来、京の蜷川家が支配していたごとく、箱根以東にあっては弾家が金支配を一切なし、蔵前の札差しも、米を積んだ船が入った時には何万両と借りに行ったものだ」
と明確に、今の日本銀行の役割を勤めていた事が詳細に書き残されている程である。
刑場でのは弾家へ払い下げられた着たきり雀の奴隷達である。
を抜けられると人頭税がとれなくなるから、弾左衛門配下が抜け人を厳しく取り締まっていたし、そのかわり「除地」と呼ばれ、大名領や天領の中にあっても、彼らには年貢や助郷の義務がなく、これが[『この原住系優遇に対する恨みが』といっ
た意味]京にあっては因地打ちの起りで、各地で奴百姓共が石をぶっつけに行き、日頃の鬱憤ばらしをした。
赤の方は「アー元」今云う網元が弾正のごとく魚を獲らせて納めさせ、人頭税にあてていた。地曳網や投網漁法の盛んでなかった頃に、「網を貸していたから網元だ」というのは誤った解釈なのである。
つまり白も赤も、それぞれ上納金を納めさせ、そのから勝手に欠落ち者がでると、他区の上納金が減少するから、江戸期になるとオカミはゲットーから脱出してきた無宿者を佃島や茨城の寄せ場へ入れて、喰わせるだけの労働者として酷使しただけだが、では減っては収入が落ちるからして厳しく、今言う地帯の中へ彼らを釘付けにしていたものなのである。
ところが、サンカには人頭税といった上納金のシステムはなく、各自が一枚二円五十銭(昭和五十七年現在では物価のインフレで五百円から千円と改定)を自発的に、その国一の許へ届け、国一はそれを上納金扱いにはせず、病人や生計のやってゆけな
くなったセブリへの補助基金として正確に蓄えていたので、この点が同じ居附でも、地区とサンカとは全く性質を異にしていて、サンカが仲間から抜けてシロバケになって常人にトケコミをしても、人頭税をとるのではないから阻止はしなかった。
かえってサンカの子弟で向学心のある者には育英資金に惜しまず出していた。
というのは千円以上でも収入応分の寄金ゆえ莫大な金額。それゆえ、「シノガラ」とよぶサンカ学資で学校を出た連中は、明治になって東京が弾左衛門家の手代を市の第一助役・第二助役に迎えてどうにか市政を運営していた頃から、シノガラは各土建
業者に一斉になったという。つまり「入札談合」などというのは民族が違っていては、そうそう巧く長年にわたって慣行されるものではない。「トケコミ」と称して各大学の土木科を育英資金で卒業した連中が、今では大手の土建業者の社長に納まっているからこそ、同族どうしで巧く談合ができるのだし、ことによったら、顔のきく田中角栄もこの出身かもしれぬ。
サンカのミチのカミ
宮内庁だけは前の宇佐見侍従官長をはじめ、みな黒系でかたまっているのは、日本水産からマルハや極洋漁業まで水産業が八の海人族。日本鉱業をはじめ同和鉱業みたいな山は源氏系の人種。
よく同種でかたまっているものだが、話は戻ってサンカ風俗について三角寛の研究を紹介。
男性はサンカ社会では一定の制服があって、男は「テクリツツポ」と称する絆纒に紺股引、白帯である。テクリツツポというのは手繰筒袖のことで、生地は木綿、柄は万筋で、夏は単衣、冬は紺裏をつけた袷(あわせ)である。白帯も木綿であり、股引
は水色。足には黒脚絆、ワラジ履きである。現今ではゴム底足袋である。なるべく質素にと表面はとりつくろっている。
クズシリだけは、白太縞の絆纒である。また、帯も長めのものを前で〆縄結びとする。
女性も現代では朽朱色ジーパン。お腰に袖なし絆纒。半幅帯でワラジ履き(現今は
ゴム底足袋かズック靴)である。お腰はみな赤色で、処女は茜木綿で、人妻は赤のネルである。
雨の時は、男子も女子も雨合羽を着る。もちろん最近はビニールコート。
上に述べた服装は一年中、いつも同じというのではない。五月から十月すぎる頃まではそうであるが、十一月頃からは「ツツブクロ」という詰襟の上着にズボンなどをはく。また、一般人の農家の子女達のように、普通の袷やワンピースを着る。「ツツブ
クロ」は町の商店で買う。また反物も町の商店で買って股引や絆纒はセブリの女が縫う。ジーパンも増えた。
女性の頭髪
青竹の銀杏の形をした笄(こうがい)と竹又は終戦前である。銀杏葉の笄に黒髪を巻きつけ、竹又で毛を刺して止める。これは普通のセブリ者の結髪であるが、クズシリとツキサシ、ミスカシ、アヤタチの妻は「スベシリ」といって神代女性の結ったよ
うに、全髪の毛を束ねて後に垂らしている。今は一定していないが、江戸時代まで長く続いた貴賎の別なき婦女髪であって、「ナガカミ」ともいう。もちろんトケコミはパーマである。
男性の頭は坊主刈りが多かったが、今はリーゼントや七三刈り上げが多い。この散髪は、お互いがハサミだけで刈り合うが、襟足や顔を剃るカミソリは日本カミソリである。少年は別として成年者は無帽が多い。ただし、セブリ外では日本手拭いで、頬かぶりや頭かぶりをするが、ベレー帽のもいる。鳥打帽子もかぶる。
食糧は今いう自然食。玄米と麦が主食で、[白]米は殆どが食べないようにしている。
理由は米食すると身体が重くなる。内蔵が泥腐るという。麦の他にはうどんを常食とし、毎日一回はうどん食である。その量は両親と子供五人で、一回に三把のうどんを食う。また米麦混ぜて、一回あたり一人の主食量は一合九勺ぐらいである。
このほか、川魚、小鳥類、自然生育の山菜野菜を沢山に食う。耕作をしない彼らは、これらのものを神授の山の幸、野の幸として採取して食すのである。彼らの常食する天然自然の山野菜類は極めて多種である。すべてが野草で自然食で伝統である。
(1)穴居脱(アナヰヌケ)
そもそもサンカ族の元祖(モトツオヤ)は、ミカラワケノナスト(貫殻別作人)として一既族を形成した。そして穴居脱して地上に揺布張(ユサバリ)をしたときの実相が、今日の天幕張(ユサバリ)であるから、我々はあくまでも原住系の国津神の末
孫である、と信念して今日に至っているのである。したがって、この天幕張(ユサバリ)の事を「アナヰヌケ」を張るというのであるらしいと三角寛先生は説明。
(2)ユサバリ
サンカの居住に「ヰツキ」と「セブリ」の二種類があることは前に述べはしたが、セブリすなわち「ユサバリ」が天幕張(アナヰヌケ)である。蒙古のパオの略式である。
天幕張は、ほんの暫時のもので、長くて数日、短ければ一夜で次の場所に移動するので、「シバラ」または「シバラク」ともいう。それだけに、その張り方は極めて簡単である。
ユサバリ各部の名称(宮とよぶのは、幕末までは差別語であった)
ヤモ‥‥正面入口になるところをいう。宮表(ミヤオモテ)の約語
ヤウラ‥‥岩や山を壁とする反対側、宮裏の約語
ムカソデ‥‥入口から右側の日に向かう東廂(ひさし)のこと。
ヒニリソデ‥‥入口から左側で西陽を受ける西廂である。
(3)その地点
この説明でわかるように、ユサバリは必ず南向きにかける事に決まっている。例外なく北向きには張らない。暖かさと衛生上自然順応から習性となったものである。
たとえば、武蔵者なら、南埼玉では「富士南(フジナミ)」という言葉さえある。
これはユサバリの中から富士を南方に眺めるように張るという意味である。これは全国とも、こうした土地を選定している。山陰や北陸地方のような、地形が北になっている地方でも、決して北向きには絶対に張らないのである。
次は水の便である。川流の縁、池の縁、または清水の湧く山麓といった地を選んで天幕を張る。生活に水は不可欠であることは当然である。しかも、その水質が人命に重大な影響を及ぼすのであるが、この水質の選定も、代々の習性と知恵によって敏感
に感得できるのである。彼らは決して水を遠くへ汲みに行くような地点には天幕は張らない。今では公害で水も汚染してしまい、これは昔の話である。
(4)用材
用材はきわめて簡単である。昔からユサバリ布は、「イツミゴロ」と決まっている。
イツミゴロとは、五幅(イツミゴロ)のことで、単衣着物五枚分、袷なら二枚半で、木綿幅で百五十尺である。
袷を解いて、それを縫いつなぐと天幕になる。これを「シズクヨケ」といって二重張りにすることがある。大雨の時に張布から雨滴を避けるためのもので、この天幕には廂下になるところに四本までの「止め紐」がついている。この他に麻綱がある。こ
れを「蔓張」という。紐だけで天幕を張るために使う紐である。
(5)包(パオ)
ユサバリの本格は「チギムナバリ」である。正面に二本の風木竹(チギタケ)を四十五度ぐらいの打ち違いに立てる。左が中で右が外である。これは蒙古型といわれるが、イラン砂漠の砂嵐よけの恰好みたいなものである。
その打ち違いの頭を天空に突上げたまま伸ばしておくところが、風木(チギ)のチギたるところである。この打ち違いのところを棟木が滑らないように、「カンムスビ」という結び方で藤蔓で結ぶ。左右に蔓を二重に巻いて、その端をたてにまわして打ち
違い十文字に締める。これが神結びでゆるまない。その上に棟木一本を打ち違いにのせ、その反対の先端を岩や山に差し込む。この棟木に天幕を風木足の角度に張る。この天幕の廂は、「トメマタギ」といって、木の枝の二又を寄せて土に刺し、土中でひ
ろがらせて土を踏みつける。これで砂嵐がふいても揺れはしない。その安定の二又には、天幕の端に縫いつけてあるトメヒモを結びつけるのである。
ここで特筆すべきことは、その風木竹の打ち違いの上の方に、左右とも風穴をあけることである。風が吹くと、この穴が笛になって神秘微妙な音を発して鳴る。これはアラブのバビロニア風俗にも、今でも顕著に残存している裏書というか証拠である。
後にバビロニア語とサンカ用語の類似性を対照表にしてつけるが、どうして契丹系のテンジン信仰の彼らに古代海人族の風俗や言語が混合しているかといえば、一セブリが夫婦単位で、せいぜい五セブリが一単位で、決して集団化しては移動はしないか
ら、つまり箕一枚を相互扶助に差し出すだけの無政府主義ゆえ、山へ逃れた古代海人族の反体制人が多かったせいか。
上代から一般は百姓でも穴居暮らしのままであったので、鳥虫害もはなはだ多く、それを(罪ある者ほどそれらの害毒を身に受け苦しむ)として、そこで、この罪科を祓うために「罪払(ツミバラヘ)」という風穴を作って、「ミチヨロヅ」の天神地祇
を迎えて、加護を祈ったものである。サンカ言葉のミチヨロヅとは、八百万(ヤホヨロヅ)と同意で、天神千五百万、地祇千五百万、合わせて三千万の神祇を表した言葉であるが、言うなれば風通しをよくして蛇や蜂が入ってきても出てゆくようにしただ
けなのである。
(6)祈願
ユサバリを張り終わると、セブリ主はユサバリの入口に立ち、北に向かってニ拍手して祈願の言葉を述べる。これを「祈りごと」という。どこのテンジンでも祈りは同じ文句であって、
「はふむしのわざはひ たかつかみのわざはひ たかつとりのわざはひ ここたくのつみ蛇へたまへ きよめためへ‥‥」
ここでまたニ拍手して、「テンジン」で空を左(さ)、右(う)、左(さ)に払って地面を拝みテンジン(自在鉤)を爐端に立て清浄な聖火を起こしてから、軽く水しぶきをあたりにまく。これを「テンジンバラヘ」という。祈りは前と同じである。
(若狭の神宮寺の儀式も同じ事)
「昆虫など刺したり噛む虫のわざわい、雷のわざわい、大わし、大たか、カラスなどのわざわい、許々太久(ここたく)はその地の沢山の害という意、みなわざわいを払いたまえ浄めたまえ」
である。天地水火拝礼の古代アラブ教と同じ、四方拝である。
切爐は「テンジン」の下に切るのである。これで、ユサバリ、すなわちセブリ張りは終りである。しかし、この古風そのもののセブリは明治まではあったそうであるが、
公害で川や池が汚染された今では全く見られないという。
それに、この他にハブキというのがある。ユサバの簡単なものである。ほんの半日ぐらいの時に、一本の棒と一本のロープでセブリを張る時に用いる、つまり木から木へロープを引っ張って、それに天幕をかけて左右ひろげて八の字に張るのである。近年は前述したような、袷を解いて縫った天幕などは全く見られない。今はGHQより配給のシートやビニール系統の立派な防水布ものを使っている。
土建業界はシノガラ
山から山への彼らの天敵は大規模な官憲の狩りこみ以外は、サソリとマムシだったらしい。すっかり彼らに獲り尽されて今では沖縄にしか、この毒蛇は生息していないが、各国ごとで、タヂヒベとよぶマムシ捕りは先発隊の大人(オビト)のごとき存在
で、これは三角寛先生前掲書の94Pにも昭和初年に実在していた代表的な蛇捕りの彼らの名前の一覧表がずうっとでている。
なにしろ蒙古の包より簡単な二つ折りの天幕で、江戸末期までの百姓みたいな穴居生活で、寝るときには蓋をするのではなく、セブリは地面にそのまま一家が横たわるのであるから、マムシに襲われたら血清もなかった時代ゆえ、ひとたまりもなく、先に立ち廻って蛇捕りしてくれる者がいなくては、とても皆で安心してテンジン暮らしはできなかったであろう。
昭和初期の名人というか、恩人は三十一名だけ判っているが、彼らのおかげで生活はできたのである。
(血統)(姓名)(普通人名)(生年月日)
------------------------------------------------------------------------
出雲田地火出雲多治伊大正元年・11
石見田地火石見多治人(たじんと)大正7・9
若狭田地火若狭太刀平明治41・8
因幡田地火因幡田治平明治29・11
但馬田地火但馬多治彦明治31・9
丹波田地火丹波太次日明治39・6
丹後田地火丹後多次米(べい)明治43・3
山城田地火山城多治内明治38・7
近江田地火近本太ニ平明治33・1
伊勢田地火伊勢多治部大正元・10
伊賀田地火伊賀田地部大正2・12
美濃田地火美濃多治夫明治45・7
大和田地火大和田地夫大正2・3
紀伊田地火紀伊太ニ戸大正3・11
河内田地火河内太平次平明治44・9
和泉田地火和泉太治兵明治43・6
摂津田地火摂津太刀平明治44・2
弾磨田地火播磨多治郎明治27・4
徹底的に安全を期すために田地でも叢でも燻しだしをするから田地火の姓がつくのだろうが、岡山から下関、九州へ入ると、この姓が「多治比」と当て字がことさらに変えられてくる。
ただ三角寛先生はサンカが、まさか皇国史観をもって日本書紀など例証にする筈はなく、古事記でさえ、もの貰いみたいに「こじき」としているのに、彼は日本書紀に合わせてサンカを解明しようとするから、書記には一行一句も出てこない契丹には帰納してゆけなかったのである。
西暦757年といえば、契丹の勢力が登り坂になっていて、間もなく唐を仆し取って代わる年代に近い頃だが、大伴多治比の一党が謀叛を計ったとして、同じ契丹系の橘奈良麿と共に事前に捕えられ吊るし首にされている事件がある。
なにも契丹人は滅びた唐派遣軍進駐の日本へ、マムシ捕り会社の出航社員として来ていたわけではない。
だから、巧みにトウの宮廷に入り込んでクーデターの機会を狙っていたのを、唐本国よりの連絡で、藤原打倒の企てありと見抜かれ先手をうたれて、謀叛容疑で捕えられた宮中の契丹人で、このため捕えられ皆殺しにされたのだろう。
さて、戦国時代になるとマムシを怖れぬ田地火の者らは、コノカゲ(樹蔭)族として、すっぱや、らっぱの物見役に重宝されて扱われたというが、食糧が欲しさに手伝ったにすぎなかろう。
「秀吉こと木下藤吉郎はサンカの樹蔭族の出である」と鹿島のぼるがその著で主張しているのも、その理由からである。
信長の室奇蝶御前の実父で「まむしの道三」と呼ばれた今の岐阜城にあたる当時の井の口城主も、この田地火の出身で、平気で人の怖れるマムシを踏んづけて即座に突き殺したので有名だが、秀吉は後に帝位に就こうとし、聚楽第を己が新御所として戻橋までの八町四方の人家や寺院をとりこわしてから、時の正親町帝に対して、まじめくさって、
「何を隠そう、私は前帝後奈良帝の落とし胤にして、帝位を継ぐのはこの身である」と奏上。
当時の皇太子の誠仁親王を二条城を新御所にして守護していた明智光秀を煙たがって、本能寺の変で信長が爆死すると姫路より使いを出し、細川幽斎の代々の城である勝竜寺城へ招き寄せ、不意にだまし討ちみたいにして攻めたところ、細川には娘の於玉を縁づけていた光秀は、まさか細川が秀吉に買収されているとは知らず油断していたので、はて変だと思った時は山崎円明寺川から秀吉の兵が城内の細川の兵と共に襲ってきて、ついに敗走して殺されている。
つまりが、「参謀本部編」となっている「山崎の戦い」は全くの虚構である。なにしろ岐阜城主になっていた信長の三男の信孝を盟主にして、信長殺しの下手人として光秀を討ったように今となってはされているが、この戦の一部始終を信孝の城代の斎
藤玄蕃允や岡本へ連名で秀吉は詳細に書き送っている。盟主となって山崎の戦いをなした織田信孝や、その家老の岡本や、同行して戦ったはずの城代斎藤へ、本当に参戦したものなら書面で事細かに出す筈はない。でっちあげである。
が、この報告書の文面をもとにして「山崎合戦」はあった事にされ、筒井順慶の洞ヶ崎が有名になると、講釈本のタネ本となり参謀本部もこれに引っ掛っているが、春秋社刊の故高柳光寿氏の「山崎の合戦」の一冊にも、この架空な戦はどうして実在したごとく巧みに作られているかの詳細な考証が明白に出ている。一読すべきである。
さて道三にしろ秀吉にしろ、「白バケ」とサンカ言葉でいう素性を隠すため、道三は土地者は避け京よりの落武者ばかりを周囲に置き固めたために、土地の土岐勢力によって長良川で討死。秀吉も表向きは「八の者」として信長に仕えたが、サンカの樹蔭者の己が素性を隠すために、「北山城攻めの時はもとより、生涯を通じて殺したサンカの数は実に三千二十九人の多きを数えた」と前著98Pで三角寛先生も解明する。
今でもマムシドリンクやマムシ酒の会社では、入社させる際に徹底的に身許調査をし、サンカ系の疑いのある者は社長が拒み絶対に採用しない。
さて、飛ぶ鳥と書いて、これまでアスカと読んできたが、サンカはそれに対して、「トベナイ」という異称がある。三角寛は「陰陽師」、つまり坐なし住居不定の流浪の民」といった解説をなし、神代からの存在とする。
しかし、実際は、日本海で、往復ならばバイカル号もベーリング寒流にのってゆけば重油が節約できたゆえ、昔は横浜発だったのを今では新潟に変更したとう過去がある。つまり、昔の契丹からは、どんどん白山島と呼ばれた今の新潟や能登半島へ筏で一日で流れついてくる。しかし、日本からは流れてはゆかぬ。西南アジアから来ても戻ってはゆけぬ。
だから、契丹系も「トベナイ人種」なのである。
サンカ社会出身の医者として栄え、昭和三十五年七月五日現在ですら71人も著名なのがいたそうであるが、今では創価学会や人の道の幹部に納まっている者達がいるという噂である。
表向き無申告だったが、ニ〇三高地でどんどん戦死した時代に、徹底的に人間狩りをやったので、千万人以上が新しく新戸籍に入っている。だから新興宗教では、そうした新信者獲得のため、そうしたトベナイの豪い人達を幹部に招き、大いに勢力を伸
ばしているのだろう。旧「宝石」の編集長だったO社長の、「いんなあとりっぷ」という新興宗教の雑誌がある。旧サンカ系の人にいわせると、「因奈飛りぶぬ」が語源か、どうもそれの相似ではないかとさえいう噂がある。
さて、終戦時、私の先生、木々高太郎こと林慶大医学部教授は、四百字詰千ドル、当時は360円だったから、実に一枚三万六千円という、当時としては破天荒の原稿料を前金で受けたと威張っていた。先生はそれまで人生二度結婚説というのを発表していて世評を大いにうけて、「男は若い時は金のあるオバンと結婚し、その死後、改めて若い女と結婚して幸せにしてやる。女も同じで、若い時は金持ちのオヤジと結婚して大いに出精させて早死させて、その遺産で有望な若い男を後添いにすべきだ」
と、まことに理想的な、きわめて安全性のある啓蒙説だから、木々先生の探偵小説の何十倍も売れたもので一世を風靡したものである。そこで、木々先生に狙いをつけたのがCIAか、アメリカの農務省か判らぬが、莫大な稿料で10枚ときいていたが、
「日本人は米を喰うからバカになるし、女は美容が落ちる。その点、欧米なみに小麦粉のパンさえ食せば頭は良くなるし、女はマリリン・モンローみたいに若々しく麗しく魅力的になる」
天下の三大紙に一頁広告で、先生の写真入りで三日おきぐらいに掲載されたものである。慶応大学医学部主任教授という肩書きで、写真入りだったから効果は抜群であったようだ。
今では木々高太郎の推理小説は古本市へ行っても百円均一の箱にも入っていないが、日本での小麦の産出は僅かゆえ、98パーセントはアメリカよりの輸入。若い娘さんはパン食しかしないのも珍しくない。おかげで昔の自給の瑞穂の国は古米が余ってしまい、外国へ無料で送ったり国内売価の一割で輸出し、減反につぐ減反で、馬や牛は肉にしてしまい、重油の耕運機を動かしている。つまり米が余っているのに食糧輸入でアメリカに首の根っこを押さえられている。
宣伝というのは大した力のあるものである。だから、ここでサンカの箕作りや箕直しを書いても、実物を見たこともない人の方が多いのではないかと思う。しかし、サンカはこれが主だった。
要するに、米をすくってゴミをとったり、半端や虫喰いを選り分ける、農家にとってはなくてはならぬ、昔は大切なものであった。彼らはこの箕を、竹の少ない甲州では松皮や藤蔓、藁をも混ぜはしたが、殆どはササラとよぶ竹を細く切ったので拵えて
農家に持っていった。つまり日本国中の白米のミノはサンカによって製作されて供給され、彼らの生活も成り立っていた。
ところが、今となっては見たくても実物はもはや減反につぐ減反で、農家にさえも見当たらない事が多い。
つまり居附サンカとしてトケコミをして暮している者はよいが、昔通りにミノを作って山から山へと放浪していたセブリサンカの生活は、アメリカのせいか、木々先生の広告の魔術のせいか、もはやどうしようもなくなってしまい、餓えるか一揆を起こ
すか、どっちかしか彼らには残された途はなくなってしまったのである。
さて、オカミはのできる前に、官制の平民社というのを作って成功した実績がある。それで今度もこの方式でと考えた。
敗戦の結果、それまでは隠忍して人里を避け、表面から姿を匿していた彼らが、関東箕製作の製作者組合、全日本箕作り製作者組合が、GHQによって組織化され公認されるようになった。
それまで民族同和事業会の美名で内務省警保局の下部組織として、彼らサンカ刈りをしてたのが、同和事業会と改名し、各都道府県に応対窓口を設け、サンカ対策もその管轄として、「進駐軍の命令により」と、これまで一切分明していなかったサンカの実体を、この時とばかり研究し、大いにその対策を練り、これまでの反体制的行動から脱却させようと試みたのは、「生活の物質的な文化」と題する三角寛著前述の本の106Pより109Pまでに表にして出しているから、サンカを故意に誤解さ
せて、さも凶悪な犯罪人のごとく扱うよう仕向けてきた作り話が、いかに出鱈目であるかも、よく一般に判ってもらえるものと思い、ここに援用してみる。
サンカ社会において、組織的に全日本のセブリの動態を統一統計するということは、昭和二十四年全日本箕製作者組合ができるまでは、まったく官憲の力では不可能であった。
それまでは、各国々のクズシリが、昔の大名のようにその国内だけの動態を知るだけで、これを丹波のアヤタチさまが幕府将軍のような立場で統御していただけのことである。
それが、昭和二十年に占領軍が来て、それからのことゆえ、四年後の九月一日に全日本箕製作者組合が結成され、その移動本部が東京にできて、組合長にアヤタチが推載されて、以来各種の事が事務的にも統一され、機構も判りやすくなって便宜を得られるようになったのである。
(1)共同基金
物質的文化といっても、この文化という言葉は、一般が文明と勘違いしているというのが先生の定見である。先生の云う文化とは、犯罪と刑罰のない理想社会のことで、刑罰を必要とする社会は文明であっても文化とは云えないとしているのである。文化という字句の解釈は外国語の文明という意味と全く混同されていると思う、と三角説は明確に云う。
そうだとすれば、サンカ社会は、文化や文明に取り残されているのである。それが明治の文明開化にはさすがに衝撃を受け、「トケコミ」や隠密族(シノガラ‥‥社会構造篇に後述)が日増しに殖えている。さらに、前の大東亜戦争では有史以来の大変
革が起こって、ここにサンカ絶滅近しの現象が現出されているかのようであると三角先生は説く。
しからば、現存するサンカの物質的生活基準はどうなっているのだろうか。
サンカの本態は前に鏤々と述べたように、箕作り・販売と修理である。これで幕末まで生きてきた。他の副業もあり、十二部に分かれてはいるが、それとて本態は箕作りであるから、それらを全部含めて全日本の総数2011張のセブリの生計を示すと、
昭和二十四年九月七日現在で、全国セブリの一日の総収入は、その申し立てだけでも一千九百二万四千六十円であった。(全国箕製作者組合調査)
----もちろん申告は十分の一以下と正しくは推定される。
これを2011張に平均すると、一セブリの一日の収入は946円であるから、月収は二万八千三百十円となる。この収入には一銭の公租公課もなく完全収入である。
住む「ユサバリ・ユカ」と称するセブリ地も多くは公有地である。仮に私有地の場合には、その地主の箕を無償で修理するとか、箕一枚を手土産にする程度だから、さほど現金支出はない。
ただし、一族の共同基金にする「ツナガリ」を毎月一枚ムレコに持ち寄らねばならない。それが一族維持の共同基金となるのである。だから、箕作以外のセブリの者は、箕一枚の現金として二百五十円を出す。セブリでは箕一枚の原価を二百五十円以上と決め、昭和二十四年以降変動していない。(とは言うが、実際は収入相当ゆえ遥かに多い筈で金持が多い)
(2)共同基金の総額
この金額は、彼らが犯罪などおかす筈はない程に、まことにバカにならない金額である。
昭和二十四年九月七日、全日本箕製作者組合結成時の調査では、八千二十万円だったものが、十二年たって昭和三十六年四月六日になると景気上昇か、下の表のように十分の一の控え目でも増加している。(実際は、税金の対象にならぬよう押さえてあ
る)この総金額は、全日本組合関東支部長、関東箕製作者組合長の裁断によって得られたものであるが、この金額は戦後だけのものであるか、戦前の蓄積も下積みされているか否かについては調べができなかった。これらの基金は、全て東京秘在の隠密族
([シノガラ」によって運営され、年一割ニ分の利廻りで運用し、セブリ師弟の「ツキサキ」に使われる。ツキサキとは突入、突破、進学の意味、つまり新人生へ転身することである。ここにも、サンカのセブリ族絶滅の拍車が次第にかけられてゆく、と
三角寛先生は誤らる。
道別共同基金総額表
道別国数セブリ数基金総額
----------------------------------------------------------
西海道 十一国29919780000円
南海道 六国23313710000円
山陰道 八国20420035000円
山陽道 八国31129060009円
畿内 五国29336830007円
東海道 六国22929380015円
北陸道七国 31 2080960円
東海道 十五国41149618020円
----------------------------------------------------------
合計 200491011円
また、この点が白や赤だけのとは違う点である。
例えば、騎馬系の白の弾正家[弾家?]では、その支配下の者には猿飼族に対しても、年に金二朱の人頭税をかけて、明治までずっと徴収していたのである。
それゆえ、年賀と八朔と呼ばれる日には千代田城へ手代とよぶ山田浅右、柳橋助六らを伴って伺候するが、莫大な金の収入は実質は十万石以上というので、「何々の間詰め」といった待遇はされなかったが、十万石の格式で駕篭で乗り入れは許されていた。つまり、今いうところの人頭税を徴収する他に盆暮の上納金も納めさせていたので、幕末に飛び地の神田於玉が池に馬医者の伜の千葉周作の道場を建ててやったり、新選組の日野や百草も弾左衛門地で、婚礼縁組の一切の届け出をして許可を受けている土地柄。それゆえ、鳥羽伏見で敗れて戻ってきた新選組が甲陽鎮撫隊として甲府へ向かう時には黄金二万円の他にヘーゲル銃二百挺に弾薬をつけ、人夫百名も出している権勢ぶりなのである。
三田村鳶魚の江戸考証によれば、中央公論社の本でも、
「箱根以西の銀本位の通貨は室町御所以来、京の蜷川家が支配していたごとく、箱根以東にあっては弾家が金支配を一切なし、蔵前の札差しも、米を積んだ船が入った時には何万両と借りに行ったものだ」
と明確に、今の日本銀行の役割を勤めていた事が詳細に書き残されている程である。
刑場でのは弾家へ払い下げられた着たきり雀の奴隷達である。
を抜けられると人頭税がとれなくなるから、弾左衛門配下が抜け人を厳しく取り締まっていたし、そのかわり「除地」と呼ばれ、大名領や天領の中にあっても、彼らには年貢や助郷の義務がなく、これが[『この原住系優遇に対する恨みが』といっ
た意味]京にあっては因地打ちの起りで、各地で奴百姓共が石をぶっつけに行き、日頃の鬱憤ばらしをした。
赤の方は「アー元」今云う網元が弾正のごとく魚を獲らせて納めさせ、人頭税にあてていた。地曳網や投網漁法の盛んでなかった頃に、「網を貸していたから網元だ」というのは誤った解釈なのである。
つまり白も赤も、それぞれ上納金を納めさせ、そのから勝手に欠落ち者がでると、他区の上納金が減少するから、江戸期になるとオカミはゲットーから脱出してきた無宿者を佃島や茨城の寄せ場へ入れて、喰わせるだけの労働者として酷使しただけだが、では減っては収入が落ちるからして厳しく、今言う地帯の中へ彼らを釘付けにしていたものなのである。
ところが、サンカには人頭税といった上納金のシステムはなく、各自が一枚二円五十銭(昭和五十七年現在では物価のインフレで五百円から千円と改定)を自発的に、その国一の許へ届け、国一はそれを上納金扱いにはせず、病人や生計のやってゆけな
くなったセブリへの補助基金として正確に蓄えていたので、この点が同じ居附でも、地区とサンカとは全く性質を異にしていて、サンカが仲間から抜けてシロバケになって常人にトケコミをしても、人頭税をとるのではないから阻止はしなかった。
かえってサンカの子弟で向学心のある者には育英資金に惜しまず出していた。
というのは千円以上でも収入応分の寄金ゆえ莫大な金額。それゆえ、「シノガラ」とよぶサンカ学資で学校を出た連中は、明治になって東京が弾左衛門家の手代を市の第一助役・第二助役に迎えてどうにか市政を運営していた頃から、シノガラは各土建
業者に一斉になったという。つまり「入札談合」などというのは民族が違っていては、そうそう巧く長年にわたって慣行されるものではない。「トケコミ」と称して各大学の土木科を育英資金で卒業した連中が、今では大手の土建業者の社長に納まっているからこそ、同族どうしで巧く談合ができるのだし、ことによったら、顔のきく田中角栄もこの出身かもしれぬ。
サンカのミチのカミ
宮内庁だけは前の宇佐見侍従官長をはじめ、みな黒系でかたまっているのは、日本水産からマルハや極洋漁業まで水産業が八の海人族。日本鉱業をはじめ同和鉱業みたいな山は源氏系の人種。
よく同種でかたまっているものだが、話は戻ってサンカ風俗について三角寛の研究を紹介。
男性はサンカ社会では一定の制服があって、男は「テクリツツポ」と称する絆纒に紺股引、白帯である。テクリツツポというのは手繰筒袖のことで、生地は木綿、柄は万筋で、夏は単衣、冬は紺裏をつけた袷(あわせ)である。白帯も木綿であり、股引
は水色。足には黒脚絆、ワラジ履きである。現今ではゴム底足袋である。なるべく質素にと表面はとりつくろっている。
クズシリだけは、白太縞の絆纒である。また、帯も長めのものを前で〆縄結びとする。
女性も現代では朽朱色ジーパン。お腰に袖なし絆纒。半幅帯でワラジ履き(現今は
ゴム底足袋かズック靴)である。お腰はみな赤色で、処女は茜木綿で、人妻は赤のネルである。
雨の時は、男子も女子も雨合羽を着る。もちろん最近はビニールコート。
上に述べた服装は一年中、いつも同じというのではない。五月から十月すぎる頃まではそうであるが、十一月頃からは「ツツブクロ」という詰襟の上着にズボンなどをはく。また、一般人の農家の子女達のように、普通の袷やワンピースを着る。「ツツブ
クロ」は町の商店で買う。また反物も町の商店で買って股引や絆纒はセブリの女が縫う。ジーパンも増えた。
女性の頭髪
青竹の銀杏の形をした笄(こうがい)と竹又は終戦前である。銀杏葉の笄に黒髪を巻きつけ、竹又で毛を刺して止める。これは普通のセブリ者の結髪であるが、クズシリとツキサシ、ミスカシ、アヤタチの妻は「スベシリ」といって神代女性の結ったよ
うに、全髪の毛を束ねて後に垂らしている。今は一定していないが、江戸時代まで長く続いた貴賎の別なき婦女髪であって、「ナガカミ」ともいう。もちろんトケコミはパーマである。
男性の頭は坊主刈りが多かったが、今はリーゼントや七三刈り上げが多い。この散髪は、お互いがハサミだけで刈り合うが、襟足や顔を剃るカミソリは日本カミソリである。少年は別として成年者は無帽が多い。ただし、セブリ外では日本手拭いで、頬かぶりや頭かぶりをするが、ベレー帽のもいる。鳥打帽子もかぶる。
食糧は今いう自然食。玄米と麦が主食で、[白]米は殆どが食べないようにしている。
理由は米食すると身体が重くなる。内蔵が泥腐るという。麦の他にはうどんを常食とし、毎日一回はうどん食である。その量は両親と子供五人で、一回に三把のうどんを食う。また米麦混ぜて、一回あたり一人の主食量は一合九勺ぐらいである。
このほか、川魚、小鳥類、自然生育の山菜野菜を沢山に食う。耕作をしない彼らは、これらのものを神授の山の幸、野の幸として採取して食すのである。彼らの常食する天然自然の山野菜類は極めて多種である。すべてが野草で自然食で伝統である。
(1)穴居脱(アナヰヌケ)
そもそもサンカ族の元祖(モトツオヤ)は、ミカラワケノナスト(貫殻別作人)として一既族を形成した。そして穴居脱して地上に揺布張(ユサバリ)をしたときの実相が、今日の天幕張(ユサバリ)であるから、我々はあくまでも原住系の国津神の末
孫である、と信念して今日に至っているのである。したがって、この天幕張(ユサバリ)の事を「アナヰヌケ」を張るというのであるらしいと三角寛先生は説明。
(2)ユサバリ
サンカの居住に「ヰツキ」と「セブリ」の二種類があることは前に述べはしたが、セブリすなわち「ユサバリ」が天幕張(アナヰヌケ)である。蒙古のパオの略式である。
天幕張は、ほんの暫時のもので、長くて数日、短ければ一夜で次の場所に移動するので、「シバラ」または「シバラク」ともいう。それだけに、その張り方は極めて簡単である。
ユサバリ各部の名称(宮とよぶのは、幕末までは差別語であった)
ヤモ‥‥正面入口になるところをいう。宮表(ミヤオモテ)の約語
ヤウラ‥‥岩や山を壁とする反対側、宮裏の約語
ムカソデ‥‥入口から右側の日に向かう東廂(ひさし)のこと。
ヒニリソデ‥‥入口から左側で西陽を受ける西廂である。
(3)その地点
この説明でわかるように、ユサバリは必ず南向きにかける事に決まっている。例外なく北向きには張らない。暖かさと衛生上自然順応から習性となったものである。
たとえば、武蔵者なら、南埼玉では「富士南(フジナミ)」という言葉さえある。
これはユサバリの中から富士を南方に眺めるように張るという意味である。これは全国とも、こうした土地を選定している。山陰や北陸地方のような、地形が北になっている地方でも、決して北向きには絶対に張らないのである。
次は水の便である。川流の縁、池の縁、または清水の湧く山麓といった地を選んで天幕を張る。生活に水は不可欠であることは当然である。しかも、その水質が人命に重大な影響を及ぼすのであるが、この水質の選定も、代々の習性と知恵によって敏感
に感得できるのである。彼らは決して水を遠くへ汲みに行くような地点には天幕は張らない。今では公害で水も汚染してしまい、これは昔の話である。
(4)用材
用材はきわめて簡単である。昔からユサバリ布は、「イツミゴロ」と決まっている。
イツミゴロとは、五幅(イツミゴロ)のことで、単衣着物五枚分、袷なら二枚半で、木綿幅で百五十尺である。
袷を解いて、それを縫いつなぐと天幕になる。これを「シズクヨケ」といって二重張りにすることがある。大雨の時に張布から雨滴を避けるためのもので、この天幕には廂下になるところに四本までの「止め紐」がついている。この他に麻綱がある。こ
れを「蔓張」という。紐だけで天幕を張るために使う紐である。
(5)包(パオ)
ユサバリの本格は「チギムナバリ」である。正面に二本の風木竹(チギタケ)を四十五度ぐらいの打ち違いに立てる。左が中で右が外である。これは蒙古型といわれるが、イラン砂漠の砂嵐よけの恰好みたいなものである。
その打ち違いの頭を天空に突上げたまま伸ばしておくところが、風木(チギ)のチギたるところである。この打ち違いのところを棟木が滑らないように、「カンムスビ」という結び方で藤蔓で結ぶ。左右に蔓を二重に巻いて、その端をたてにまわして打ち
違い十文字に締める。これが神結びでゆるまない。その上に棟木一本を打ち違いにのせ、その反対の先端を岩や山に差し込む。この棟木に天幕を風木足の角度に張る。この天幕の廂は、「トメマタギ」といって、木の枝の二又を寄せて土に刺し、土中でひ
ろがらせて土を踏みつける。これで砂嵐がふいても揺れはしない。その安定の二又には、天幕の端に縫いつけてあるトメヒモを結びつけるのである。
ここで特筆すべきことは、その風木竹の打ち違いの上の方に、左右とも風穴をあけることである。風が吹くと、この穴が笛になって神秘微妙な音を発して鳴る。これはアラブのバビロニア風俗にも、今でも顕著に残存している裏書というか証拠である。
後にバビロニア語とサンカ用語の類似性を対照表にしてつけるが、どうして契丹系のテンジン信仰の彼らに古代海人族の風俗や言語が混合しているかといえば、一セブリが夫婦単位で、せいぜい五セブリが一単位で、決して集団化しては移動はしないか
ら、つまり箕一枚を相互扶助に差し出すだけの無政府主義ゆえ、山へ逃れた古代海人族の反体制人が多かったせいか。
上代から一般は百姓でも穴居暮らしのままであったので、鳥虫害もはなはだ多く、それを(罪ある者ほどそれらの害毒を身に受け苦しむ)として、そこで、この罪科を祓うために「罪払(ツミバラヘ)」という風穴を作って、「ミチヨロヅ」の天神地祇
を迎えて、加護を祈ったものである。サンカ言葉のミチヨロヅとは、八百万(ヤホヨロヅ)と同意で、天神千五百万、地祇千五百万、合わせて三千万の神祇を表した言葉であるが、言うなれば風通しをよくして蛇や蜂が入ってきても出てゆくようにしただ
けなのである。
(6)祈願
ユサバリを張り終わると、セブリ主はユサバリの入口に立ち、北に向かってニ拍手して祈願の言葉を述べる。これを「祈りごと」という。どこのテンジンでも祈りは同じ文句であって、
「はふむしのわざはひ たかつかみのわざはひ たかつとりのわざはひ ここたくのつみ蛇へたまへ きよめためへ‥‥」
ここでまたニ拍手して、「テンジン」で空を左(さ)、右(う)、左(さ)に払って地面を拝みテンジン(自在鉤)を爐端に立て清浄な聖火を起こしてから、軽く水しぶきをあたりにまく。これを「テンジンバラヘ」という。祈りは前と同じである。
(若狭の神宮寺の儀式も同じ事)
「昆虫など刺したり噛む虫のわざわい、雷のわざわい、大わし、大たか、カラスなどのわざわい、許々太久(ここたく)はその地の沢山の害という意、みなわざわいを払いたまえ浄めたまえ」
である。天地水火拝礼の古代アラブ教と同じ、四方拝である。
切爐は「テンジン」の下に切るのである。これで、ユサバリ、すなわちセブリ張りは終りである。しかし、この古風そのもののセブリは明治まではあったそうであるが、
公害で川や池が汚染された今では全く見られないという。
それに、この他にハブキというのがある。ユサバの簡単なものである。ほんの半日ぐらいの時に、一本の棒と一本のロープでセブリを張る時に用いる、つまり木から木へロープを引っ張って、それに天幕をかけて左右ひろげて八の字に張るのである。近年は前述したような、袷を解いて縫った天幕などは全く見られない。今はGHQより配給のシートやビニール系統の立派な防水布ものを使っている。
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