新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

奴隷日本人秘話奴隷日本人秘話 日本レジスタンス史 タリバンの戦術から学ぶべきこと

2021-08-23 18:30:40 | 新日本意外史 古代から現代まで


奴隷日本人秘話


 日本レジスタンス史


 タリバンの戦術から学ぶべきこと



 日本人が戦国時代に奴隷に売られて、男は印度から馬来半島方面のポルトガル領の植民地に、容色のよい女は、魔女裁判によって多くの女性を焚殺したヨーロッパへ送られていたことは、あまり知られていない。しかし、
「朕、国王は、この勅令をもって布告す」とし、「従前印度地方における奴隷日本人に関し、朕の得たる報告において正当なる事由なし。


よって今後は日本人を奴隷に捕らえたり購入したる者は、その財産没収となしその一半を朕の国庫に納め、一半を告発する者に下付すべし、1571年3月12日」ポルトガル国王ドン・セバスチャン」の勅令も、現存している。


この年号は日本の元亀二年、織田信長が姉川合戦で勝った翌年で、延暦寺の焼討ちをして僧俗数千を殺した年にあたっている。


さて従来の日本史は、(ギネア海岸からのアフリカの黒人を、聖ドミニコ派の宣教師が、現在のリスボンを集散地として、南米へ送りこんでいたが、
天文十二年以降は、現在のマカオが、ポルトガル人による日本人奴隷の一大集散地だった)といった事実を隠している。


だから、織田信長が何千人も殺してしまったといった記載など、当時としては、「奴隷に売れば儲かるものを、もったいない事をしたものだ」だから「信長様は豪気なお方だ」といった受取り方で記録されているのに、
今の歴史家はそれを知らず、「信長は残忍だった。だから本能寺で殺されたのは因果応報である」などと説明する。あまりに不勉強にすぎないのではなかろうか。
 ただ歴史家とは認められていない人だが、徳富蘇峰の『近世日本国民史』に、「後戸(五島)・平戸・長崎にて、日本人を男女を問わず数百人ずつ黒舟が買いとり、手足に鉄の鎖をつけ舟底へ入れて運び去るは、
地獄の責苦にもまさって、むごい有様である」といった実地にみた大村由己の、『九州動座記』の奴隷売渡しの実況が挿入されているだけである。

由己は豊臣秀吉の祐筆頭で、これは当時の公文書である。そして現在と違い、マカオ九州間の黒舟は百トン以下だった。
だからそれに、数百の日本人が奴隷として押しこまれ、ディーゼル・エンジンや蒸気機関のない昔、季節風だけで動くマカオへの旅。
そして、そこから印度への輸送は、アフリカからの黒人奴隷が大西洋一つ渡るだけで済んだのに比べ、もっと悲惨だったろう。
そして、こういう秘められた歴史があるからこそ、世界中で一番、黒人びいきなのは、日本人だというのもそのせいかもしれない。


さて天文十二年以降においても、古くは源平合戦の起因となる神戸福原からの原住民を奴隷輸出された事実や、室町時代においても、四国の三次氏や山口の大内氏は、日本原住民を捕らえこれを明国や南蛮船に売っていた。
また羽仁五郎の『都市の論理』において、「アテネの人口は市民九万に対して奴隷は三十万いたから、憲兵や警官のごとき仕事は奴隷の仕事であった」とかかれているのは前述したが、西暦1603年(慶長八年)
の、「ゴア(印度)人民のスペイン国王フェリッペ二世陛下の城砦を守っているのは、白人の五、六倍もいる日本人奴隷で、好戦的な彼らは鉄砲をもち土民を撃退しています」とある。


インドやマカオでは、奴隷の日本人が、「軍人」として使役されていたのである。
さて、これがスペイン国王の名宛なのは、ポルトガル国王セバスチャンがモロッコで行方不明となり、その妻が代り、のちエンリケ親王が国政をみたが急死していた。
この当時はスペイン王がポルトガル王を兼ねていたからである。
さて、現在のマライ半島は最近まで英領だが、その前はオランダに奪われるまではポルトガル領だった。ということは、マライの軍人も奴隷日本人だった事になる。そして地図で一目瞭然だが、マライは南支那海にある。
「和寇とよばれる日本人が南支那海沿岸を侵した。足利政権は明国に取締まり方を申込まれ、犯人の首を切って明国へ塩漬で送っていた」
「八幡船とよばれる彼らは、遠く海南島まで百余にわたって襲っていた」と、「八幡大菩薩」の旗をたてた五、六人のりの小舟にのったフンドシ一つの男の絵がある。

 歴史家は壱岐対馬を根拠地にしてから、そこから南支那海へ出稼ぎに行ったものと、「海の男」の勇壮さだけをたたえるが、焼玉エンジンもなかった頃に、
あの怒涛さかまく南支那海を、夏なら逆風なのに、どうして人力で漕いでゆけたか。
 四日や五日でいけるはずもないのに、呑み水や食料はどうしたのか?その時代、香港側のマカオから、日本の堺や九州の口の津に、「定期航路」が開設されていたのは、フロイスの日本史にも明記されているが、
それは、「季節風」にのって行くのだから、日本発はどうしても毎年十二月ときまっていた。


さて、百トン位の大きな帆船でさえ、冬でなくては出航できないのに、なぜ八幡船ごとき五、六人のりの小さな舟の乗組員が、その反対の夏の出発をものがたるフンドシ一つのスタイルとは如何?ということになる。
 日本では歴史屋がすこしも疑問符を投げかけないから、代りに私が首を傾げれば、「夏」というのは貿易風が西から東へ吹く季節で、マカオ政庁の司書館の記録でも、
「日本行きは七月または八月、ゴア行きは十二月から正月」と、これはなっている。
 つまり南支那海へ夏ゆける海流の通る地帯なるものは、それより西に位置する場所しかない。
 もし中学校か高校の地図をもっていたら、マライ半島の部分をひろげていただきたい。
 そこの支那郡海に面した部分は今でも、「バハン州」である。そして戦前の地図は「バハン土候国」の文字がシンガポール以北にあり、バタビヤ日記など古いものには、
「Pahang」の名になっている。私は春にリスボンへ行って来たが、今でもポルトガル人は、マライとよばずに彼らのつけた、「バハン」とよぶ。マラッカのベンハーの丘に城砦を築いて同地を占領した「バハン公爵」の名をとったものだそうだ。
つまりバハン公爵が軍艦にのり、捕鯨船のキャッチボートのような小舟に、日本人奴隷をのせ略奪をやらせていたのであるらしい。
五島列島の王直らのような和寇も、ボスは中国人で末端の消耗品が奴隷日本人だった。
それより何故日本人が、こんなに奴隷に売られたのか?これまでの日本史では極秘である。
というのは今日の日本史は明治帝国主義の所産だから、これは明治軍部のせいだろう。


真相は天文十二年に銃器が種ガ島へ渡来
器用な日本人は直ちにそれをまねて精巧な銃も作った。
しかし、硝煙とよばれた硝石は、現在でもそうだが日本では一片も産出しない。みな輸入に依存するしかなかった。鉄砲があっても火薬がなくては戦争できぬ立場にあった。
よって、しめしめとばかり黒人の奴隷売買で味をしめたドミニコ派の宣教師が、マカオよりの火薬と交換に、日本人を牛馬のごとく買ってゆき奴隷転売にしたのである。
戦国時代に切支丹大名が多かったのも、信仰の為ではなく火薬入手の手段だった。


判りきったこんな明白な歴史事実でさえ、明治軍部は国民を無謀な戦争にかりたてるため、(国内に火薬の原料なし)を隠すために歴史屋を黙らせたのである。
さて、戦後76年。今になっても歴史家は一人も知ってか知らずか、この真実を発表しない。また吾々をどうするつもりなのかと、ここに告発したい。


余談になるが、太平洋戦争敗戦後、旧帝国海軍参謀が語った処によると、海戦初頭、海軍各艦艇の高射砲の弾丸は250発、機銃弾は2500発しか用意してなかった、と暴露している。
これは海戦となった場合、どちらも約10分しか持たないという。これは当時でさえ如何に火薬が不足していたかを物語っている空恐ろしい実態である。
更に海軍のパイロットは、戦闘機、艦爆合わせて、機動部隊で750人、内地と外地の航空隊で500人しか居なかったという。
後に続く練習生はもっと少なく、ミッドウェーで機動部隊空母が四隻やられて、ここで日本は実質的敗北が決定した。
陸軍が機関銃や自動小銃に力を入れず、単発の三八式歩兵銃に拘らざるをえなかったのも、火薬不足が原因だった。
戦場で大量に消費する機銃弾は、生産も輸送もできず、戦国時代さながらの日本兵の「銃剣突撃」で、多くの命を失った。
現在、米国と中国が戦争になった場合、巻き込まれる日本の自衛隊の弾薬、ミサイル等は一体どれほどの量が確保されていているのだろう。
長期戦になった場合が非常に心配される。








    われら日本人


   軟弱レジスタンス


ベトナムやアフガンやに学べ





以前、「プラハの暑い夏」というチェコのテレビのドキュメンタリー番組をみて、すっかり考えさせられた。
私は敗戦後の内地での米軍進駐の実態は知らないが、満州で、まずソ連軍が進駐してきた。次に中共軍進駐、最後は国府軍進駐という三段階を、銃口をつきつけられ、青竜刀で殴られ、
後手に縛られながら満人の暴動の中で経験してきている。プラハの新聞や放送局は最後まで、チェコ人民のために進駐の非をならし、それに元気づけられた市民の婆さんや少年までが、握り拳をふりあげ重戦車に素手で近づき、
しきりに口々の抗議をしている場面があったが、満州ではあんなのは見られなかった。


当初チェコのマスコミは敢然と市民の側にたって、進駐権力に対してあくまでもできるだけの抗議をしていたが、私の記憶の中の在満のマスコミは全然そうではなかったようだ。
初めての敗戦なので、要領をえなかったのか、それとも権力の命令には絶対服従ということへの慣れなのか、まるで邦人の側には、なってくれなかった。
八月十五日までは関東軍の代弁者だった彼らは、ソ連軍クラフチェンコ司令官が進駐してくると同時に、その命令通達機関に変わってしまった。
 たしか八月十八日の新聞面は、「歓迎」の二文字を大きくだし、「町の清掃をきれいにしましょう」ということで、大掃除のように割りふりがでた。
そして三、四日すると紙や印刷機がもってゆかれてしまい、紙面は小さなガリ版に刷りになった。


 いま私たちがモスクワやキエフの空港へゆくと、イン・ツーリストで現在の日本の9ポよりすこし大きい五号や、8ポより大きな旧六号で印刷された日本語の岡田嘉子著やいろんな本を、
いくらでも無料でくれるが、あれは終戦のどさくさに、ソ連軍が新聞社や新興亜印刷から、略奪した活字の字母で刷られたものである。
やがて十月。いまは粛清されたとも伝わる中共故朱徳司令官が進駐してきた。




すると休刊していたガリ版刷りがまたしても発行されだし、「日僑(日本人)はその前非をくい、おおいに勤労奉仕をせねばなるまい」というのが発布されたのはよいが、さてそれから、
「何月何日何処彼処には日本人誰某が何々を盗んで検挙された」
「何月何日、日本人誰某が詐欺を働いた。怪しからぬことである」
ラジオも新聞も、連日、日本人の声や筆で日本人への攻撃にあけくれした。
十一月に入って中共軍撤退国府軍進駐の知らせが、秘密裡に洩れてきて、いわゆる、「日軍決死隊」が組織され、雪の降る朝。奉天警察総長を初め各地を襲撃した時、
「憎むべき日本人暴徒を、吾々日本人の手で捕らえるか、又はもよりの警察へお知らせ下さい。そうしないと日本への帰国の望みは絶たれるかも知れません」
と、ガリ版新聞と日本人向けラジオ放送は、こればかりをくり返し、しまいには、「密告された方には報奨物資を、寛大なる当局のお取計らいにて差しあげます」となった。

もちろん、これらは外地での話だが、当時日本内地でも、進駐軍に対して、「あなた好みの、あなた好みの日本人になりたい」といった向きも多かったそうである。
そこでもし、改めて今中国から進駐されたら、いや現実にはもうチェコなどより、ずっと早くからいるのかも知れないが‥‥。
 日本の放送局や新聞は、プラハのように、民族のためにと必死になって‥‥はたして、
「チェコ国民に告ぐ。われわれがついている」と声援してくれるかどうか不安でならぬ。
 なにしろ国民性というものがあって、「統治しやすい国民」と、「そうでない国民」この二つは厳然と分かれているという。
 さて日本人もかつては勇猛果敢であったそうだが、76年前のマッカーサー進駐以降は、
「きわめて従順」という折紙がついている。口の悪いアメリカ人などは平然と、「キャトル」つまり家畜だとさえ放言する。


 異邦人に占領されて以来、一度もレジスタンスしない国民というのは、世界史上まことに珍しいそうで他に例もないという。
つまり以前、宇佐美日銀総裁でさえ、「公定歩合引上げに関する談話」で、
「わが国の戦後の経済成長はアメリカの余慶である」と発表し、歌舞伎俳優の阪東三津五郎丈までが、その生前には役者子供とはいうが何かあると、「おうアンポ」と、アメリカさんのお蔭ですといいだす。
もちろん何をいおうと各人の自由だが、こういった従順性というのは、対外的にどういう影響を与えるものだろう?「異人種が占領国住民を統治しようと思っても、反逆精神がオウセイで、とても手がつけられぬ」ような、
そんな国土なら、何も好んで厄介な進駐をしてくる軍隊もなかろうが、「きわめて国民の資質温順なり」となると、「そうか、そんなに扱いやすいのなら‥‥」
と、ロシアや中国が、またも、早ばやと重戦車を陸揚げしてくる恐れもある。
 この敗戦後延々と築いてしまった「従順」という信用が、やがてとんでもない事になりそうな気がする。その時には、マスコミの人が、チェコなみに頑張ってくれることを願うが、果たしてどうだろう。
朝日新聞をはじめ、四大新聞の「日本を貶める」マスコミが多く、尻馬に乗って騒ぐ学者や知識人、評論家もごまんといる。
最近では馬鹿丸出しの漫才屋までが、同調している。
政界でも鳩山を筆頭に「中国大好き馬鹿」は多く、政権党である自民党や公明党にも多い。こんな現状では中国には絶対勝てない。


「日本人は家畜なみではないんだ」という抵抗運動も今ではオキナワにあるから、あれがもっと対外的にアッピールすると、
「うるさい国らしい」と吾々は助かるかも知れぬ。そうなると苛められている彼ら沖縄県民こそ、真の愛国者という事にやがてなりかねない。
歴史を見ても、ベトナムはフランス軍や世界最強の米軍とも戦い、ついに勝利した。
つい先日もアフガニスタン(タリバン)は20年にわたる米国との戦争に勝利し、米国を追い出した。
この力は宗教でもイデオロギーでもない。彼らベトナムやアフガン人に、脈々と流れる「抵抗民族の血」なのである。
日本も「大和民族単一説」に惑わされず、日本はアラブ系、ミクロネシア系、東南アジア系、騎馬民族系の「雑種民族」の強みを生かし、中国の侵略に立ち向かわなければならない。


アフガンでタリバンが勝利した原因は、日本にとっても貴重な教訓だ。日本も、軍事における知性を錬磨し、認知領域における戦いを使いこなせば、中国軍の侵略をはじきかえすことも可能だと示唆しているからだ。
中国というハードウェアの量では絶対に勝てない相手と向き合う日本にとって、防衛装備品というハードウェアばかりでなく、人間のソフトウェアの進化と深化は必須だ。
この知性と認知領域とは簡単に言えば「相手に絶対に屈しない」という民族の決意と覚悟なのである。
         
ああ湊川神社


 体制、反体制というのが当今の流行語らしいが、こんなに漠然とした意味合いもない。


「楠木正成が1331年に河内に挙兵」今でいう解放地区をもうけ、千早や金剛にバリケードを作って、砦の思想をうたった時点においては、<梅松論>に、
「暴徒とみなし六波羅より討伐に向かう」とでているから、これは反体制であろう。
 しかし三年たっての建武の中興がなると、初めて正成は御所に召されて、いわゆる体制側になったが、それも僅かに二年。
 1336年に湊川で討死。やがて楠木正行も四条縄手で戦死し、ここに楠木一族は、またしても反体制側となってしまう。
 さて織田信長の頃になって、山科言継を経て楠木甚四郎なる者より、「楠木一族の賊徒汚名を御免願上げのこと」というのが正親町帝に銭百疋(千文)の手数料をつけ、観修寺卿を通じて出され、
「その儀さし許しのこと」1577年6月付け女房奉書で許可にはなったが、当時は官報や、内閣総理府よりのお知らせなどはなかったから、一般には普及していなかった。
 それから一世紀余たった1692年。
 徳川五代将軍綱吉の元禄五年八月に、水戸光圀が高さ50センチ位の石碑で、「嗚呼忠臣楠子之墓」というのを建て、ここに初めて、大衆の間でも、「アア忠臣だったのか」となったらしい。
 しかし現在の湊川神社は、幕末に尾張の田宮如雲が、薩長勢力に押し出された時点において、あれは造営されたものである。
 なにしろ彼は王政復古に際し、主君の慶勝を、「議定」自分は「参与」となし、やがて、「京都及伏見の民政総裁」にまでなった。
 もちろん初めは尾張六十二万石の家老なので、軽輩の西郷隆盛や木戸孝允あたりより、信用も金もあり、朝廷では幅をきかせていた。

しかし薩人や長人が尾張勢力などをいつまでも放っておくわけがない。
 維新の大業がなる迄は、祇園や島原の勘定を尾州京屋敷にもたせ、ただ酒をのんで、「尾張名古屋は城でもつ」などと、おべんちゃらをいっていた浮浪の志士たちも、やがて用がなくなると、
「尾張も朝敵徳川の一味、追っぱらえ」薩長の尻馬にのって排斥運動をはじめた。


こうなると安政元年に皇居炎上の際、再建築用の不用敷地を買収し四百坪を献納したり、その用材に木曽山の桧を奉ったことも、みな帳消しとなってしまった。
 姻戚にあたる近衛家などが、いろいろ奔走したが、時は五摂家などの世ではなく、公家としては最下位の七十石正味二十八石どりの岩倉具視が、薩摩と組んで朝権をほしいままにしていた時代である。
 やがて明治革命が成功すると、ついに田村如雲は京を追われることとなった。そこで、


「楠社造立之儀、もっともに思召され候。ついては、おもむきの趣旨を御採用遊された。よって今度兵庫表に楠社造立を改めて仰せ出され、これを申出人に命じられ候のこと」
 太政官布告が尾張の徳川慶勝に明治元年四月二十八日付けで出された。
 ということは田村如雲が、薩長に追われて京を去るに及んで、「ひとつ置き土産に、湊川へ、楠木神社を造営して残したいが如何でしょうか」
 と伺いをたてたのに対する、
(王政復古の今日、正成の神社造営は、お上におかせられても、建武の中興につぐもので時宜が適したことと考えられた。そこで申立てた者にその造立方を特に許す、有難くお受けしろ)
 との伝達である。しかし尾張家は土建屋ではない。工事許可を貰ったところで自腹をきるのだから、儲かるような話ではない。
 岩倉具視あたりの考えでは、
(元禄時代に水戸が小さな石墓をたてたのに対し、やはり御三家の一として、尾張も、お稲荷さんみたいな鳥居でもおっ立てるのか)
 と許可したらしいが、さて出来上がったものは、街道よりに面した、今日のあの大規模な立派なものである。そこで、
「さては徳川宗家のために、朝廷のお恵みあらんことを乞い願い、また尾張徳川家にも余慶あらんように考えて、かくは立派なものを造営したのであろうか」
 ということになった。そこで慶勝が六十二万石を返還すると、改めて、『賞典禄一万五千石」を下しおかれ、それまで正二位だったのを従一位に昇進させた。
 もちろん田村如雲に対しても、しかるべきお沙汰はあったのだが、何故か如雲は固辞して受けず、ようやくその孫の代になって、
「朝廷の恩恵にそむくは怪しからぬ」とせめられて、ようやく男爵位をうけたが、やはり一代限りで拝辞している。
 だから彼は、やがて『滅私奉公の鑑』とされ、

「田村如雲こと弥太郎は桂園と号し、本姓は大塚。尾張名古屋町奉行五百石の田村半兵衛の養子となり、天保三年よりはその跡目をつぐ、その学識一世にきこえ、長州人吉田松陰ら門下多し。
長州征伐の命が徳川慶勝に下るや、如雲は伴しておもむき、松
陰を慶勝に目通りさせ双方の橋渡しをなし事を計る。のち明治三年正月、京より戻るや尾張の執政をしりぞき東山道太田におもむき、北地総営となり明治四年四月、死去にのぞみては、甲冑に身をかためて埋葬せんことを遺言す」
 といった<尾張勤王金鉄党録>もある。


 さて吉田松陰が死んだ後とはいえ、その門下の桂小五郎や大久保利通から冷遇され、かつては、(松陰の師であった如雲)が、そのままあっさり京から追放されたのに、
しかも置き土産に、河内の楠木正成のため大きな神社を何故造営までしたのであろうか。


 これは‥‥名古屋市東区赤塚に田宮の子孫は現存しているが、死語焼却を命ぜられながら、秘かに残されて伝わる<桂園日録>によれば、
「勤王ばやりの時代ゆえ、西国より入洛する者は、桂小五郎や薩摩の西郷吉之助も、みな下馬して神前に額(ぬかず)かねばならぬ。よって余は盛大に社をいとなみ、その神殿に殿さま(慶勝)の写真を納めしところ、
其方のものもと仰出され、己が似顔絵もいれた。よって薩長の者は湊川においては、わが殿に拝礼し叩頭せねば上洛できぬ事となったのである」とある。


昔の尾張の殿さまは、なかなかに、粋な仇討ちをしたもので、田村如雲が押しつけの恩命を拒んだのも、それなりの理由がある。だが、このレジスタンスは、
「吉田松陰の師が田村如雲だった」ことさえ知らぬ者が多いから、当主田宮正美氏の諒解をえて、ここで発表するのが初めてでだろう。




      ひきつげ反逆根性


 さてレジスタンスといえば、凄いのが楠木一族である。楠木正行の弟の正儀までは、『太平記』にもでてくるが、事実は、かつての軍部が国民精神作興のため、「楠木一族ことごとく玉砕」と歴史家に書かせたような、
あんな生やさしいものではなかった。なにしろ日清の役はよかったが、日露の役の203高地戦で相手は機関銃で撃ちまくってくるので、
「なにがなんでも、召集兵は死なせるしかなかろう」という結論がでてしまったので、その後は、
「死んでくるぞと勇ましく誓って家を出たからは」と流行歌にまで唱われるようになった。
つまり、玉砕こそ名誉ある崇高な死という考えそのものが、国民教育の眼目となった時点から、楠木一族もそういう事にされてしまったらしい。時代の都合によって日
本歴史はくるくる変る。しかし楠木正成、正季の末弟の、「楠木正式」は生きていて、河内東條城に後村上帝を奉じ、甥の正儀や和田正忠と共に足利勢に攻められるや、帝にも甲冑をきて頂き、四条隆資ら側近は討死したが、無
事に賀名主まで、正式は全身針鼠のように矢を射こまれながら供奉申し上げている。

『柳営三代記』や『後愚昧話』にはその後、長慶天皇が御即位されると、後亀山天皇派の楠木正儀は北軍に降伏したが、和田正式ら正成の甥共はあくまでも南軍にあって、正儀と戦っている。のち弘和二年には、
その正儀も南軍に戻ったが、その倅の、「楠木正秀」が和田正高ら楠木一族と共に、大和にあって北朝の粟をはむを潔しとせず砦をつくって頑張っていたのは、
『史籍集覧』に入っている『十津川記』にあるが、これはもう足利義満の頃での話である。


さて金閣寺を造った義満が死ぬと、1408年の応永十五年のこと。吉水院文書に、「上野宮が朝敵となり申し、このため河上三郷村は責をおわされ、伏降参列」とある。
上野宮というのは、御亀山帝のあとの説成(ときなり)親王さまのことである。
吉野吉水院は御醍醐帝の姫がご降嫁された寺で、ここに楠木一族い奉じられて、「反逆」の旗をたてられたが、戦い利あらず、三村の者がそれに連座して罰せられたのだという。
さて上野宮の御子円悟は円満寺門跡とされて、妻帯を許されずここに血脈はたえたが、上野宮の孫にあたられる小倉宮泰成親王は秘かに山中に隠れておられた。よって、
「満済準后日記・正長元年七月八日」に、「小倉殿(南方)昨朝御逐電」とある。この宮は伊勢の国司を願って、楠木党に奉じられ、逃避行されたのだが、
「安濃郡岩国(現在三重県津市)にて、美濃守護土岐持益の軍勢に破られ」と『薩戒記』にはあり、南朝の血統をたつために、やはり僧にさせられ、万里小路時房の、


『建内記』の同じ1428年10月の状にも、
「玉川宮(長慶帝の御子)がやはり寺へ入れられている」といった模様がでている。


 いくら楠木一族が正成が湊川で討死してから頑張っても、その後七十三年間の歳月に、持名院統以外の南朝の皇統は、足利政権によって、反体制として葬りさられてし
まったのである。そこで「看聞御記」の1429年9月18日の条になると、
「室町殿(足利将軍義教)東大寺の蘭奢待香を切りとるため奈良へおもむく。雨天なり。ところが僧衣にて門にかくれ居りし楠木五郎左衛門光正単身おどり出て天誅と叫び刺さんとす。ならず捕われて京へ引きたてらる」
「同二十四日。晴天。召捕られし楠木今夕六条河原にて首をはねらる。楠木党の来襲を恐れ侍所(赤松)所司代番衆紺色装束に楯をみな揃え、その数六、七百人警戒して取りまく」
 まるで今日の機動隊の規制の情景のような記載が、伏見宮貞成(さだふさ)親王によって、今日にまで書き残されている。
 なお1437年8月6日のその日記には、楠木光正の弟らが河内に挙兵。
 畠山持国が室町御所の命令で出動し、その楠木兄弟を捕らえて殺した旨もでている。


こうして並列して書いてゆくと、きりがない位に、楠木党の反乱の歴史は続く。
「戦国時代」に入る応仁の乱の終りの頃。


 山名宗全が、文明三年(1471)に奉じようと、女装にて迎え奉った小倉宮御孫一品親王さまを守り奉らんとした楠木正憲も居たが、この年代は湊川で正成が討死後、実に一世紀半後なのである。
 最近の歴史家は、楠木正成を、「悪党」「土豪」と解釈するが、もしそんな存在にすぎなかったら、子孫や郎党の裔までが、百五十年間も反逆し続けられる根性を、ひきついでゆけるものだろうか。
 また三国干渉に対する復仇の為、頭山満翁が桃中軒雲右衛門に作らせた<義士伝>の、<花は桜木、人は武士>式の、いわゆる、
「パアッといさぎよく散れ」と、説く玉砕精神に当てはめるための、<青葉しげれる桜井の>といった小学校唱歌による既成概念も頂けない。
 楠木一族の一世紀半に及ぶ反体制蹶起は、仏教や神道ではない<天朝教>といったような、宗教的色彩をおびた信念によるらしい。が、今となってはガタがきているらしい。
 だから、チェコのごとく、ある朝突然にキャタピラをならし北朝鮮か、中国の重戦車隊が入ってきても、「われら日本人」として日本国土を、日本の国民を、しっかりと守りぬきレジスタンスを続けてゆける根性こそ今や吾々には望ましい。




最新の画像もっと見る

コメントを投稿