新令和日本史編纂所

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未だ決着を見ぬ邪馬台国論争 献上したのは奴婢なのか  松本清張氏の『古代史疑』

2019-07-03 20:08:16 | 新日本意外史 古代から現代まで
未だ決着を見ぬ邪馬台国論争 献上したのはなのか 松本清張氏の『古代史疑』
 
「耶馬台国は何処なのか?」この論議はいまだに決着していない。ここで一応の考究はしてみたい。  そこは、かつて九州にあったのか、それとも本州の奈良県の辺りなのか、いま始ったことではなく、これは昔から騒がれている。それゆえ、『古史通惑間』をかいた新井白石でさえ、 初めは畿内大和説をとり、晩年には、「筑後山門説」になりかけ、九州ではないかと見解を変えたように、戦前から戦後へかけても種々の異論がでて、そのため、 「耶馬台国」の名称は知らぬ者はない有様である。
 
 
しかし、はたしてそこが何処なのかとするのは、まだまちまちの有様で、新井白石以降は明治になっても、九州説が盛んであったが、一九一〇年に内藤湖南が、中国の古書が方位を誤っていることを指摘して、 「畿内大和説」を提起してからは、白鳥庫吉の反論もでて、論争は今に到るも引き続き、電子計算機をもってする「耶馬台国論」まで現れてきて居るが、なにしろデータとなるべき史料たるや、  中国の魏、呉、蜀三国の興亡をかいた『三国志』の中の一節、『魏志東夷伝、倭人の条』略して『魏志倭人伝』といわれる僅か二千字ばかりの文章だけだから、 唯それだけの四百字詰五枚程の文献の分析では、これはどうでも自由、解釈もできるゆえ、「とても学界の人間になど委せておけぬ」と、盲目の人までが、この謎の解明に打ちこみだしたが、 今もってはっきりとはなんの結論もでていないようである。
 
しかし西暦二四〇年と二四七年の二度にわたって魏の国使は来訪し、詔書や印綬まで持ってきて滞在しているのだから、決してそれは、「幻の国」ではなく、れっきとして実在していたものなのである。
 これまで発表された研究の中では、私は故松本清張氏の『古代史疑』を一番高くかっているものである。さて、なんといってもこれは、「朝鮮帯刀郡から七千余里で、狗邪韓国につく。そしてそこから船にのって一千余里で対馬。また一千余里の海上を進んで壱岐の島」  という原文が、まず、こんがらかるもとであろう。いくら二千年近く前の世でも壱岐と対馬の間隔か、一千余里も離れているわけはない。
 
しかし原文は、一千余里というのか好きなようで、「壱岐より海上を一千余里進んだ末廈(松浦)から上陸し、そこから今度は、五百里陸行すると伊都国へでる。 そこから百里で奴国。さらに東南へ百里で不弥国。そこから南へ水行二十日で投馬国。また水路なら十日、陸行なら1ヵ月で、ようやく耶馬台国」とある。 が、これは連続説の解明で、これに対し、「並列説」は、伊都国へつく迄は同じだが、そこを分岐点にし、「不弥国や奴国へは各百里。投馬国へは水行二十日。耶馬台国へは水行なら十日、陸行なら1ヵ月の 距離である」と分析している。
だから伊都を福岡県の怡土郡に当てるのは、そこから金印も出土しているから問題はないのだが、そこから南下するか、本州へ北上するかで、まったく食い違った答がでてくるのである。  つまり、耶馬台国九州説になると、「熊本の球磨が、狗奴」という事になり、そしてからが、「奴国は、筑前の灘」「不弥国は宇弥」「投馬国は三猪か、都方」になり、[耶馬台国は筑後山門]と なってしまうようである。 ところが、幾内大和説になると、これが、「奈良の熊野が狗奴」になり、「投馬国は但馬か、出雲、備前の三祖郷、又は備後の鞆」ということになって、 「大和の国こそ、耶馬台国なり」となるのである。さて、中国の後漢時代の班固の著作といわれる史書の、『漢書』に、「それ楽浪海中に倭人あり、分かれて百余国となる」の記載がある。
 
これが西暦紀前の日本列島の状態を記したものとしては、吾国にとって最古の記録なのである。  だから百余の群小国家があったものなら、九州と大和の両方に、伊都国や、奴国や、投馬国や、不弥国や耶馬台国と同じものの五つや六つが併立して有っても、別に差し支えないようなものだが、 ここで引っ掛るのは、「倭人」といった特殊な『漢書』における呼称である。  今でもドイツやオランダの、体格の大きなのが多い国へゆくと、日本人は肩をすくめて見降され、「オウ、スモウルピイプル」などと不愉快なことをいわれる事がある。  だから、それにこだわっての発想だが、「倭人」と彼らからいわれる程には、中国人は吾々に比べてそう大きくはないのである。
どんな奴隷が好まれたのか
『三国志』には二メートルの余もある英雄豪傑もでてくるが、あれは中国独特の、白髯三千尺式の物語でしかない。処がである。五世紀の宋の池瘁の手になったと伝わる、 『後漢書』の中にも、日本をやはり倭つまり、ピグミー扱いして西暦五七年とはっきりした時点において、 「倭の奴国王が後漢に朝貢しきたり、金印を賜った」旨の記載がある。そしてこの金印なるものは江戸時代の天明四年(一七八四)に、九州の玄賀島から現物が出土しているのである。
 
さて同書には、西暦一〇七年に、「倭国王の師女が、生口(生きていて口をパカパカ勣かす輩つまり人間)百六十人を、奴隷として後漢へ貢物として献上してきた」ともでている。これに私は引掛るのである。なにしろ昔でさえ、シナにや四億の民が居ると、「馬賊の唄」にうたわれていたが、今では十三億の民の居る中国である。  だから二世紀初頭にしろ、日本よりは遙かに土地も広いから人間が多かった筈である。
 
さて、それに奴隷というのは、これは原則的に労力提供の為にのみ、需要があってこそ供給されるものである。  だから当時の漢国がもし人手不足であっても、集める気ならいくらでも人間が居だろうし、もし多くを求めるのなら、満州や朝鮮からでも動員できたわけである。それをなにも七千里プラス千里プラス千里プラス 千里先の日本から、わざわざ僅か百六十人位を、海こえ山こえ集めさせ運ばせる必要はなかったろうと首をひねるのである。
 
という事は、当時の師女王から送られた人間が、もし中国人や朝鮮人と同様な、ふっうの黄色人種なら珍しくもないから、そんな無理する事はなかったのはであるまいかと、疑惑がわき、 何だろうと推理したくなるのである。つまり単純労働力の提供なら、師女王にしても、ろくな舟もなかった西暦一世紀の時代に、十人ずつ乗せても十六隻船団を、遥か彼方の漢国へ向けるのは大変なことだったろう。 経費はもとより多大な犠牲を払うことになるのだから、それ位ならその分の代価を送って、奴隷の現地調達をすべきではなかったろうかと想える。日本の歴史家は、しかし、 「生口百六十人を、後漢へ献上」という字句にとらわれ、倭国王が、漢王へ忠節を示す儀礼として自国民百六十人を献じた位にしか受取っていないが、はたしてどうであろうか。
 
 
 『古代ローマ史』をみても、『後漢書』の他国よりの貢物の個所をみても、そうした生身の人間を後進国より貢物として贈る、つまり進物にするという事は、 「絶世の美人」に近いような美女を、どういうタイプが先方に好まれるか判らないからして、グラマーや細いのを、よりどり混ぜてこれを送り、「どうぞ、この中でお気に召されるのが有りましてご愛用下さいますれば光栄でございます」と届けるのが普通のようである。「かためて百六十人。生きて居ます、口をぱかすかあけて居ります」と、鯉を盥へ入れて進物にするような、そんな贈り方は古今東西に例がないようである。可笑しすぎて変てこではあるまいか。
 
かって故スカルノ大統領の夫人であったデビさんにしても、色白の餅肌で、かなりの美女だったからこそ、国際友交の名目で商社の儲け主義で献上し、受納されたのであって、 インドネシアにざらに居る色黒で骨太な女だっならとても贈っても受取って貰えなかろう。
処が、この時の百六十人は、「」とも訳されているから女性も混っていたろうが、美女かどうかまったく判らない。 それにサーカス巡業に行ったのでもない筈だから、「美女献上」が国際的なマナーなら、男の奴隷は余分であるし、労力提供でもないのなら、常識として彼らは、送られても仕様のない無用の長物だった事になる。 となると、「そんな男女を何故に師女王は、向こうへ送ったのか?」という疑問にぶっつかる。せっかく苦労して送り届けても、徒労となっては意味がなくなる処か、反って叱られる事になるからだ。  なのに、その『後漢書』には、向うの王が怒ったとは出ていない。満足されたようである。
 
となると、その百六十人の生口は、  (向うの王には、よし美人でなくとも、それは珍しがられた人間達だった……)という事になるのではなかろうか、という点をここで強調したい。
 というのは何んといっても「倭」という称号にどうしても引掛るからである。なにしろ日本の歴史家は、倭に「やまと」の訓を無理につけて読ませ、てんでこれに対して疑いをもたないようだが、 倭は、「倭小人民」の身長の短小をいうのであって、まだこの時代には日本列島全体の測量をした者も居ないから、どれ位の広さかも判っていないのゆえ、 (国が小さいから倭国といわれた)という考えは、後世のこじつけであろうからである。
 
卑弥呼が天照大神説もある
 
さて、天武天皇の御代に、稗田阿礼が暗記していたのによって、太安万侶が書き綴って、元明天皇の和銅五年(七十二)に完成した三巻からなる史書を、『古事記』とよぶ。  但し異論はあって、尾州徳川家の名古屋学派の石原政明は、「あれは本居宣長の手作りの歴史で、こしらえものである」と、三重松坂の本居学派を論難した。 が慶応四年明治新政府ができ、松坂派の国学者が平田派の神学グループと共に、その新体制へいち早くついたから、『大日本史』を編さんした水戸学派は認められたが、名古屋学派は、 「好い加減なことを書く」と斥けられた。そこで、「集義隊」をもって官軍に尽したり、兵庫に今の「湊川神社」を建立した甲斐もなく、がっての御三家も明治になると、 新政府にうとまれ疎外される羽目となってしまう。だから、その、『古事記』や『日本書紀』に、「卑弥呼女王は神功皇后さまの事である」  と書かれてあっても、それが正しいか否かは決めがたいにしても、「北畠箍房の神皇正統記」や、元禄時代の、「松下見林の異称・日本伝」には、その解釈が受けつがれているのはどうであろうかといいたい。 しかし耶馬台国は何処にあったか、論議が盛んになるにつれ、今では、「卑弥呼は、天照大神ではなかったか」と、歴史に現れる最古の女性は大神さまではなかろうかとも思推する向きもあるが、 はたしてそれは結びっくものであろうかとなる。              
邪馬台国は大和に在った
 
しかし神話の世界の大神と『漢書』の中のそれと同一視してしまうことは、はっきりいって裹付けする史料の貧しさから、それは単なる揣摩憶測でしかなくなる。 では、どういう具合に思考を展開してゆくかとなると、まず最初にいいたいのは、 「ヒミコは人間の女王として、二十八国を統合して君臨していたのだから、神様であるわけはなかろう」とする現実論においてである。 するとそれに代って、姙娠中の御玉体で渡海し、「三韓征伐」を遊ばされた神功皇后さまが、ヒミコと同一人ではないかとする処の、「ヒミコ神功皇后説」が出てくるが、これとて、 (中国の漢の都から朝鮮帯刀郡を通って、耶馬台国ルートがヒミコの頃にはちゃんと有ったというのに、まったくそれを無視した別個の海路から皇后さまが攻めこまれたとするのは辻つまび合わなさすぎまいか?)といった点からしても、これまた承服できないものがある。
 
 
それに、対馬国、一支(壱岐)国、末流国、伊都国、奴国、不弥国、投馬国ら親衛七力国の他に、斯馬国、己百支国、伊邪国、那支国、弥奴国、好古都図国、不呼国、姐奴国、対蘇国、羆奴国、呼邑国、 華奴蘇奴国、鬼国、為吾国、鬼怒国、邪馬国、躬身国、巴利国、支惟国、鳥奴国、奴国ら二十七国を押えていたとはいえ、日本列島全部を押えていたわけではない。  この当時、ヒミコの耶馬台ら二十八国に対し、はっきり敵対していた八幡連合国群があった。
 これは後世のように、「はちまん」とはよばず、「はちはた」「やあた」とよぶ連合国軍であるが、この中の「豊国」ともよばれた「宇佐国」などは、耶馬台国とは別個に、 「倭載斯鳥越」なる者を渡海させ、魏国に使者にたて、「中津国」も同様に、「難女米(中臣)」をもって貢物を届けた旨の記載が、『後漢書』にはあり、「臼杵国」からの、「伊声耆掖邪狗」の使臣の名も、 それにはでている。
 
 
つまり反耶馬台国勢力が、豊前中津、臼杵、宇佐、宗像といったように九州に塊っている点から、『魏志倭人伝』の千九百八十五字の謎にひっかき廻されて、 何千里、何百里にふり迴される解釈はとらず、耶馬台国は九州の敵国群の中に囲われて存在するわけはなかろうと、私はそれは、「大和」であろうと奈良県を推したい。さてそうなると、その時代にあった国々は、 「ヒミコ」を頂く「耶馬台系二十八国」 「豊国」を名のる「九州連合国家群」  の二つが対立しあっていたように考えられ、(宇佐八幡)の関係から、八幡国家群も、豊国グループに加えて、一つにも見られやすいが、この八幡国家群というのは大和以東にあった別のグループである。
 
後の朝鮮系の韓神さまの宇佐八幡や、山崎八幡、鶴岡八幡とは、まったく別個の、「村の鎮守の……」といった名もなく貧しく、村社位の格しか貰えなかった、関東土俗八幡の、「八はた」さまなのである。 すこし脱線するが、彼らは弓に使う矢竹を近くに一杯栽培していたから、近年まで見世物小屋などには、「八幡の薮知らず」というのも必らず作られていた。  
 
そして判りきった事だが、それは決してハチマンとよばず、ヤハタ乂はヤータとよび、甲州街道や木曾街道、奥州街道には、その名もは今も残っている。つまり、古代国家群の中で、耶馬台系や豊国系は、 中国の王化の波に押し流されていったが、「大和国以東の八はた系国家群」というのは、やがて、「ヤハ夕のオロチ退治」といったような目にあっても、戦国時代まで生き残り、 江戸時代まで名称だけは伝えるようになるのである。
 さて、当時の日本が、『漢書地理志』のごとく、百余の群小国家に別れていたか否かは別にして、耶馬台国二十八国群に対して、勝手に魏国へ貢物を届けていた豊国グループが在った。 それに中部以東以北の八はた国家群と、三等分していては、「ヒミコが、神功皇后さま」として、マタニティードレスの甲胄を召されても、後顧の憂いなく海外出兵など出来るわけはなかろう。 とはいえ、(イザナギ、イザナミの二神からお産れ遊ばして、高天原を治めたもうたオオヒルメノムチノ神さまであって、のち皇孫ニニギノミコトに、天壌無窮のご神勅と、三種の神器を授けられし大神さま) なるものが、もしもヒミコであったと仮定した場合には、どういうことになるだろうか。
まさか九州の御方が伊勢で祀られることはないから、耶馬台国は大和よりも伊勢という事になるが、『魏志倭人伝』には、ヒミコの死にふれた個所で、「径百余歩の墳に埋む」の記事がある。 その頃の人間の歩巾は明白ではないが、今ならば直径百四十メートルのお濠という事になる。
 
もちろん『魏志』というのは、おおざっぱに、千余里とか、百余里といった書き方をしているから、百余歩も当てにはならない。考古学上でもそうした規模の古墳は、存在していないとされて居るようである。  それに恐れ多くも、わが国の皇祖であらせられる御方さまが、魏の国へ朝貢して向うの王様から、「よし、よし、忠勤ぶりを賞してっかわすぞ」と、いたわって貰い、  「親魏倭王」の称号を頂かせて貰ったというのは、どうしても心情的にも納得できない。
 またヒミコはシャーマンであって呪術をもって、人民を威怖せしめ、巫女のごとく神に仕え生涯独身で、人前には姿をみせる事もなく、その弟が代って政務をみていたか、死後、その跡目をついで、「男王」になったところ、女権の強い人民が承服せず、各地で争乱が起った。そこでやむなく、「伊代(壱与)」とよぶ匕ミコの身内の娘をたてて、男王が退位して彼女を主権者にしたところ、 さしもの国内外の騒乱がおさまり、耶馬台国初め他の二十七国にも、ふたたび平和が訪れてきた。
 
といった『魏志』の所載をもとにすると、  「天照大神の弟君スサノオノミコト」は、神話とはいえ、根の国へ追放されていて、お跡目などついでは居ないからして、この点からも、ヒミコを天照大神に結びっけようとする説は、 こじつけ以外の何物でもないようである。  それでは、耶馬台国の人民や、そこに君臨していたヒミコやイヨといった女王と、のち平家を倒して、己が名をとり、「政所」とよぶ行政府を、鎌倉屏風山の下にもうけさせた政子との間の関連性が、 その女尊男卑の民族性からして、どうしても何らかの命脈をもち伝えそれを続けるもの、としての結びつきを考えざるを得ないのだが、これは後に考察したい。
生口の謎解き
 
 一九四八年五月に、岡正雄、八幡一郎、石田英一郎、江上波夫の四氏が、シンポジュームを始め、 「日本国家の起源は、東北アジアの騎馬民族の日本列島征服」によるものとして提起された「騎馬民族説」というのは、 「東北アジア系騎馬民族が南鮮を支配、やがて弁韓(任那)を基地として日本の北九州へ侵入、さらに畿内を征服し大和朝廷をたてた」となすもので、『旧唐書』の日本国の条には、  「日本もと(旧)小国にして倭国の地を併す」とでているからと、それを援用して、天孫民族は、任那にあった日本国から、今の日本列島である倭国へ進出し国をたてたのだとして、 『古事記』にでている所知初国之御真木天皇は、崇神天皇さまで、『日本書紀』にある御肇国天皇さまと同じことで、これは、『常陸風土記』にある初国所知美麻貴天皇さまとも同一人物で、 「任那を、みまき」とよんでいたから、当て字は違うが音はみな同じであると説明し、それをもって北方系であるとみなしているが、それでよいのだろうか。
 崇神王朝以前の天の朝が、まだ統一国家でないとしても無視してしまえるものであろうか。そして崇神系の四道将軍がいと簡単に、天の朝を征圧してしまっているという事実は、 (彼らもまた壇の浦における平氏らのように、筏や丸木舟をつなぎ合せ、折柄吹きだした季節風にのって、スメルやスーサヘまでは無理であったとしても、もっと手近かな安全な方角へと逃避したからして、 それで、あっさり源氏が天下を掌握したように、崇神王朝も天の日嗣を受けられてしまったのではなかろうか?)といった疑義か生ずる。  というのも何処にも痕跡の残らぬ平家が、天の朝の最後の女帝を神とお祀りする伊勢にだけは、その名残りを止めて、「伊勢平氏」の呼称を戦国期まで残す不可思議さと関連しての連想なのである。
 
なにしろ、すべてが判りにくくなる根源たるや「倭国」を大和とするため「やまと」とよませてしまうためではなかろうか、ともいいたくなる。  もしこれを単純明快に、その文字そのままに受けとって解明していったらどうなるだろうか。 つまり一つの仮説だが、崇神王朝が入ってくる以前の日本列島に、「倭」とよばれるスモールーピープルーネーションが、居住していたのではないか……としてみるのである。さて、倭小民族といいきってしまうとアフリカのピグミーしか知られていないが、今でもカルカッタやボンベイへ行けば、小学生位の大人がいくらも居る。
 
 
男は子供でない証拠に必らず髭をたくわえ、女はそこだけは大きい乳房をつきだして歩いている。  吾々はハリウッド映画の影響で「ベンガルの槍騎兵」などという映画で、印度人というのは2メートル近い長身の大男みたいに思い勝ちだが、現地へゆけば渦状毛を有した平均身長1メートルの、南インドの、  「カダル族」そしてペラマビクラン山地に今も多いところの、「プラヤン族」などがそれである。そして都会へ出てきている彼らは、物乞いやぽん引きをしている。 これはポンペイやカルカッタヘ旅行された人は、彼らにつき纒れることが多く知っていると想う。  というのは、かっては南インドで彼らは栄えた民だったが、インドアーリヤ人とよばれる部族が侵入してきて、  「ダーサとかダスユ」とよばれていた中南インドの原住民を滅ぼした時、彼らも体格が貧弱だったので、瞬く間に征服されてしまい、「カースト制度」がしかれたとき、被占領民族として彼らは、  「スードラ(別名ダーサ、エターラ)」といった賎民階級に落されてしまった。
 
 もちろん奴隷たることを拒む者は、山間奥深く命からがら逃げこむか、さもなくば海上へでて潮流に乗って流され逃避行をする冒険しかなかった。  もちろん紀元前五二一年に生れたペルシャのアケメネス王朝のダイオレス王が、インダス河右岸の殆んどを占領し、アレクサンダー大王が生れる前のギリシャとも交易していたから、 海上へ逃れた倭小民族はギリシャ語をも知っていたしそれを使っていたろう。だから、これが明治になって前述したような、「ギリシャ語と古代日本語は似ているから、大和民族の祖先はギリシャ人ではなかったか」との木村鷹太郎氏の説にもなるのであろう。
アレクサンダー大王によるインドの征服 日本とベトナムの繋がり
さて紀元前三二七年にアレクサンダー大王はインドへ侵攻してきたので、アケメネス王朝は倒れ、ナンダ王朝になり、その将軍が反乱してマウリヤ王朝をたてる。そして、 その三代目のアソカ(阿育)王の時は勢威がふるったが、やがて滅亡。ついでシュンガ王朝、そして紀元前七三年にはカンヴァ王朝ができ、西暦紀元前後のインドは、 ギリシヤ語がサンスクリッ卜語に移入され用いられた。そして逃げ損ねて帰順した倭小民族のインド原住民は、当時のインド植民地であったチャムパー(ギリシヤ名カテイガラ)今のベトナムへ、
 
その頃のマライ半島のインド植民地のタツコーラやカターハから移されて、強制労働を課せられた。
私共は、隣接した中国の魏志や唐書にのみ、日本の古代史を探ろうとするから、ヒミコもヤバダイ国も、八幡国や富国も判らなくなってしまうのだが、南支那海に面したベトナムへ、 倭小民族が大量に移されていたギリシヤ史をみれば納得ゆく点も多い。
 
つまり今のマレーシア連邦の地図をみても判るが、ベトナム植民地へ倭小民族の奴隷が送られた中継地の南支那海へ面した地域は、 これは後で詳述するが、「バハン州」の名で今もよばれている。現在はマレーシアの州名にすぎぬが、十五、六世紀のバタビヤ文書館の資料では、半島全部がそう呼ばれていたのであるし、 西暦紀元前後のギリシヤの征服時代は、港名だけでもあったのである。という事は、もし今のように、「バハン」=「八幡」と読ませうるものならば、『魂志倭人伝』に現れてくる「八幡連合国家群」というのは、 (そのバハン港からカンボジヤの沖を廻って、ベトナムのカティガラ港へ送られる奴隷輸送船団) が、集団脱走を企てたか、又は、季節風の潮流にのって日本列島へ漂着し、そこで土着してしまって、グループごとに塊りあって国家群、となったのではあるまいかとする思惟の展開である。
 
 その例として、戦前の日本人移民というのは、その渡航してきた年月や乗船ごとに組を作って居た。これはブラジルやハワイでもまったく同様で、そこでも何年渡航組といった具合にグループごとに分れ、 相互扶助をしあう単位がそれぞれはっきりしていたから、『漢書地理志』にいう、 「それ楽浪海中に倭人あり、分れて百余国となり、歳時を以て来たり、献じみゆ」という弥生時代中期の倭人が、百余のグループに分散していたのも、それと同じではあるまいか。
つまりその漂着した地点とか、到着時ごとに群を作って別れていたのではあるまいかと想えるのである。
 
また漂流してきた彼らやその子孫は、海洋民族のようなものゆえ、 (東方にある日本列島と、それより西南に位置する漢国との間は、冬から春にかけては、北東風が吹き、夏から秋へは南西風となる)という年に二回交互に吹く貿易風と季節風を、身をもって知っていたから、潮流を計って漢国へ船をだし進貢していたから記録を向こうにされたのだとも受けとれる。  また普通は征服され占領されてから、初めてやむなく進貢するものなのに、自発的に彼らがそうしていたという事も、彼らが被占頷下にあって圧迫され逃げてきた民族ゆえ、 あっものに懲りての智恵だったのだろう。
 
 
もちろん、この時代の倭人の子孫も日本には多く残っている。東京の下町の日本橋界隈は昔から居ついている大が多いせいか、病的ではないきわめて健康な父っちゃん坊やのような大たちを何人もよくみかける。 全国的にみたら、そうしたナチュラルな倭人そのままの大人は、かなり今でも相当に多かろうと想える。  しかし、その西暦紀元前から一、二世紀にかけて、日本列島へ漂着してきていたギリシャ人に追われた倭人は、ヒミコをたてヤバダイや、バハン国を日本に作ったのかもしれないが、だからといって これをもって、のち大和朝廷に結びっけてはならないと考える。なにしろ国家として形態をととのえるのは、『記紀』にあるごとく前述の、御肇国天皇(『古事記』では前述のごとく所知初国之御真木天皇」の御代、 つまり崇神朝からとするのか今日では常識である。
 
なんといっても、 「千早ふる神代も知らず竜田川」の、「ふる」が、韓語の「フル」つまり村落の意味であることや、「新唐書・倭国伝」に、これも前に援用したが、「初主は天御中主と号し、ヒコナギサに至る三十二世は、 みな『尊』をもって号となし、筑紫城に居る、ヒコサの子の神武たって、天皇を以って号となし、わたりて大和州を治す」と、神武天皇御東征の記事には出ているのであるから、 大和朝廷はピグミーではあり得ない。  なにしろ崇神王朝が騎馬民族であるならば、いくら小さな馬であったにしろピグミーではそれに跨ることは出来得ないからである。そして『記紀』は、 「天神と国神の争い」といった具合にこれを扱っているが、国神の方はスメル系のペルシャ人か、インド人の今のカダル族やプラヤン族の祖先の倭小民族と、彼らと共に漂流してきて居ついたマライ系バハン人、 そして当時のチャムパー(今のベトナム人)であったことは、まあ想像であっても間違いなかろう。
追われた平家哀れ
 
つまり東南アジア系の、主として身長一メートル位の倭人が、騎馬民族が現れてくる以前の日本列島へきて、「追われて見たのは……」と赤トンボを眺めて、ほっとしたところから、 蜻鈴の別名を、「アキヅ(秋津、平安朝以後はアキツという)」とよぶのは、古事記にもあるし、それからして、「秋津州」「秋津島」と、日本の古名は生れるのだが、 トンボやヤンマの原産地はアジア西南部だからして、任那経由できた騎馬民族の者達が、「おうトンボ、アキツ……」と目を見張るわけはなく、これはやはりそちらからきた倭人だからこそ、初めて日本へきて、 それを心痛く感じたのだろう。また一般に何処の国の詩歌でも、
 「スプリング・ヘズ・カム」式に、春がくるのを待ちかねる式のものが多いのに、日本だけは反対に、「秋くるとものな思へそ」といった具合に、感傷的なものが圧倒的に多いのも、 これとて西南アジア中近東の地方の温暖というより熱帯に近い地方から来ているからこそ、「秋風が立つと、やがて冬がくる、寒くて堪らなくなるぞ」と、メランコリックになったとも想像されるのである。
 
 
かって砂川基地で機動隊と学生たちか向き合って対峙したとき、双方で赤トンボの歌を唄いあって、流血沙汰をせずに引きあげたのも、多くの日本人の心情の中に、 アキツ精神なるものかあるせいではなかろうかとも想えるのである。さて、
「倭国」とよばれていた形態は、のちの大和朝ではなく、それは西南系の漂流民の各でインド系の倭人だったかも知れぬと解明してゆくと、 (美男美女でもない人間百六十人を生口として、倭王師女王によって、つまり動いて生きているというだけで、わざわざ中国の後漢の王へ献上され、それで向うから叱られもせず反って珍しがられて賞された) という事実も、「よくぞ贈り届けてきよった」と、その百六十人たるや一メートル位しか身長のない粒の揃った倭人だったからこそ、倭国の使者は労をねぎらわれたのだと、その謎ときができるのである。
 
 
 しかし、そうした天の朝は間もなく弱者として、馬蹄で踏みにじられて消えてゆく。だが季節風や貿昜風は相変らず年二回は、地球の上を交互に吹くからして、十一世紀から十二世紀にかけては、 向うの政変に追われて洋上へ逃げてきた面々が、又しても集団で日本列島へ渡来してくる。そして、「海の彼方からきた外来系ゆえ」と、彼らは歓迎され、そして慣習によって、 「平」の姓を誰彼なしにみな賜わるのである。そこで、彼らを系図的にみると、いくら「平氏系図」などが尤もらしく作られていても、てんで辻つまが合わないが、その、「平」を姓とみずに、 外人登録証の記号とみてしまえば、「一人残らず、平を名のっていた集団」なる可笑しな現象も理解できるというものだろう。  しかし向うで追われて日本へきて、「夕やけ小やけの赤とんぼ……」と涙していたのが、また追われて何処かへ行ってしまう平家の人々は、想うだに哀れを催させる。 だからして『平家物語』の悲しさは、琵琶法師の奏でる旋律にのって、今になっても広まって居るのだろう。                                                                                           
 

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