新令和日本史編纂所

従来の俗説になじまれている向きには、このブログに書かれている様々な歴史上の記事を珍しがり、読んで驚かれるだろう。

戦国の名将斎藤道三 第二部 道三は他国を侵食したことは一度もない

2020-09-16 16:55:28 | 新日本意外史 古代から現代まで

戦国の名将斎藤道三 第二部
道三は他国を侵食したことは一度もない

 なにしろこれまでは織田信長を立役者にする関係上でもあろうが、「悪役」ということに、どうも斎藤道三はされているようである。
 何故かといえば、幼児は絵本や童話をみるときに、善玉と悪玉が明白に判りやすくしてないと、理解力がこんがらかってプロッ卜の展開についてゆけなくてしまうし、
 「黄色いリボンをなびかせた騎兵隊や白人たちは良い方で、色の黒いインデアンは悪者である」とする年少者向きの、昔の西部劇の設定が、誰にも判りやすかろうというので、
 「義務教育で皆が文字を一応は読めるという事は、脳が弱い者でも本を読むことになるのである」とする見解によって、すべからく、
 「善玉、悪玉のからみ合い」といった方式が利用され、それが一般的に、「読者への説得力」として通用しているのである。
 だからして、あわれ斉藤道三も、「まむしの道三」とか「悪党道三」といった具合に、信長の敵役に作られてしまい、それを鵜呑みにして書いている歴史屋も居る。
 なにしろ日本人の短絡思考なるものが問題にされるが、極端にすぐ右か左かはっきりさせたがるし、丁か半かにすぐ決めたがる性癖が国民に有るものだから、
 「善でなければ惡」と、いと単純に頭ごなしに決めつけてしまうような結果となり、
 「信長が良い側におかれるなら、どうもその反対に道三は悪い方へおかねばなるまい」とされているのであろう。しかし考えてみれば、こんな馬鹿げた話はない。
 読者など問題にせず良い本を出すだけに数十年にわたり努力してきたと、自叙伝を出して物議をかもした出版社の経営者も居たが、
読者を胝めきって程度の低いものと見下し、「ただ判りやすいから」というだけで、善玉悪玉式に歴史上の実在の人物を扱ってのけるのも、
これまた無暴というか無茶としかいえない。
 だいたい善と悪の二つに分けて、極端に対比させて、これを単純に、「惡は滅びやがて善は栄える」とする勧善懲悪方式で結ぶのは、
明治になってから、義務教育が施工されだした時点からのものなのである。
それゆえこれから一歩も出ていない現状では、書く方も怠慢としかいいようがないだろう。
だいたい、道三は史実として「他国への侵入」といった領土的野心を示した事実は、ぜんぜん一度もないのである。
『信長公記』をみても、村木砦へ今川方が押し寄せてきたときに、「救援のために美濃より斎藤道三は、安東伊賀、物取新五ら千余名を派遺す。
信長おたいに喜びたまいて礼せられる」といった個所があるくらいであって、
「斎藤道三が尾張を併合しようとして、兵を進めた」といった事実はまったくない。
                                         
 ただ一度、天正二十年三月に、道三みずから二千の兵をひきいて、美濃と尾張の境目まで出ばってきた事が、『美濃旧記』の〈道三出陣〉にはある。
 しかし、これは、その年の三月三日に織田信秀が流行性の病いで、ころりと急死してしまった時。
 かね道三は、織田信秀の三男三郎信長を尾張の跡目にさせる約定で、その一人娘の奇蝶を嫁入らせていたのに、
 「美濃の勢力が侵透してきては困る」とする尾張の重臣や豪族共が、丹羽長秀の舅に当る信秀の二男信広を立てようとしたり、
信長の異母弟で土田久安の孫に当る四郎信行をもって、次の跡目にしようとした。
 そこで道三は一人娘可愛さに、銭を尾張へ運ばせてばらまかせたり、やむなく己れが兵をひきいて境目まで出てきたのである。
 だから、仰々しく出陣などとなっていたところで、これは尾張へ攻めこむ為でなく、
 「娘が可愛いから、もし二郎や四郎を担ぐ勢力が那古屋城へ攻めこんだら美濃の軍勢を使う」と、それを牽制するために出てきたきりである。
そして、このバックアップのおかげで三郎信長が、尾張の跡目につけることになり、挫折した四郎信行は林美作兄弟らに担がれて挙兵したが、
篠木合戦で美作が殺され、翌、弘治三年にはその異母弟信行も母もろとも処分された。
 
二郎信広の方は、のち三郎五郎と改名し鳴かず飛ばずだったが、道三を殺した斎藤義竜が、
 「どうも信長が煙たい。貴殿が尾張の国主になられたい」との密使をうけ、
 「美濃が力をかしてくれるならば、わしが信長に取って代ることも難しゅうはない」と、おおいにハッスルして、娘婿の丹羽長秀に計画をうちあけたところ、
 「はあ、はあ」と聞いてはいたが、長秀はすぐさま裏切ってこの事を信長に密告した。そのため信長は異母兄の信広も、やはり処分して後顧の憂いをなしにしてしまった。
 つまり道三は嫁にやった娘可愛さに、その婿の信長を庇護し、尾張の跡目につけてやったり、今川から侵略されると助勢をだして、おおいに力をかしたもので、唯それだけである。
つまり、だからといって信長に何の要求もしていなければ、礼にと領土の割譲をもさせてはいないのである。ただ岳父として娘いとしさに娘婿に尽しているだけのことである。
 これでは信長を善玉になし、道三を悪玉にしたりするのは、どだい無理としかいいようがない。もし、どうしてもそうしたければ、
 (道三が義竜に叛かれて、末子新五郎に美濃一国の譲り状までつけ、ぜひともと救いを求めたとき。
千余の兵を率いて加勢におもむきながら、双方の激戦を目前にみながら河州の葦原の茂みに兵を匿し、自分も隠れ通しで葉隠れしたまま、
ついに突撃せずさっさと戻ってきてしま二年四月二十日の、信長の行動)をこそ問題にすべきである。
 ドライといってしまえばそれまでであるが、従来の義理を無視してしまい己れの兵力の温存をはかって、岳父道三をみすみす見殺しにしてのけた信長こそ、
 「悪玉」とみるのが至当ではなかろうかといいたい。なのに、そうした事実には頬冠りして、
 「結婚しても入籍ということのなかった当時は、尾張から嫁入りしてきたのは尾張御前とよばれたように美濃から縁づいてきた奇蝶も、
美濃御前といわれていたけれど、みは敬称に通ずると、上を取って濃御前とよばれていたのを、個人名と誤って、濃姫とか甚しきに到っては、こいとよんで、
こいこいとやってのけるような読み物」の類では、あくまでも、道三を悪玉にする必要も別にないのに、わざわざ、
 「悪党」「まむし」としたがるのは何故だろうかと首を何度も傾げざるをえないものがある。
なお、奇蝶を「帰蝶」と書いている歴史書もあるが間違いである。信長の長男「信忠」が、側室から生まれると引き取って、己の一字(奇)を付け「奇妙丸」と名付けて育てている。

さて、なにしろ京に近い西岡に住み御所に仕えていた北面の武士、松波基宗の長男として明応三年(一四九四)に生まれ、十一歳から妙覚寺へ入って僧となったのが、
斎藤道三の来歴なりと、これまでの通説は作られている。
 しかし、その頃の西岡は、後の細川幽斉の祖先から代々の所領で、明応の頃は、「長岡」とよばれていて、西岡と呼ばれるようになったのは天正以降のことで、
これは、『お湯どのの上の日記』の中にもある。
 つまり長岡家代々の土地の中に、北面の武士の所領があったりするわけはない。
 そして松波基宗といった、もっともらしい名が出てくるのは、『勧修院記』に、「弘治二年二月、松波下向し、四月に討死」
 とあるのから誤られているのが、原因ではなかろうかと想われる。
 この松波というのは、左近将監の名も伝わっているが、斎藤道三が、北竜華見山妙覚寺の手をへて、当時窮乏していた御所へ、
銭千貫文の献納をしたのに対し、当時のことゆえ公卿の代りに、北面の侍所へ勤めていた松波が、女房奉書を賜って、それを伝えに美濃へ下向したのである。
一説には、山城守の称号と従五位下の宣下をもたらせて使いにきたものという。
 道三宛にもたらしてきたものか、その子の義竜へ届けにきたのか判らないが、せっかく京から美濃路へ入ってきたのに、
 「親子喧嘩も珍しくはないが、伜の義竜が自分の父親は道三入道ではなく、土岐頼芸の落し種だといいはって、戦をしあって居るのでは御思召の沙汰も伝達できぬ」
と、すっかり弱らされて、双方の取り持ち役をかって出ようと滞在していたところ、二ヶ月後の決戦に捲き添えとなって討死をした。
 つまり北面の武士の松波某が、道三入道と一緒に死んでしまったので、父子といったことに作られてしまったのではなかろうか。
 それでは道三の父親は誰だったか、といえばこれは本当のところは、判からないのか事実といえよう。
なにしろ明応三年の頃は、京は応仁の乱で焼野原の時代である。
「召しませ」「召しませ」と、河原から草の茂みには、多くの女がむしろを臥床にして客をよび、己が身体をもって一個の餅や、ひと握りの粟にかえ、飢えをしのいでいたと、
『応仁私記』にも、その情況が詳しく出ているくらいだから、道三の姉妹やことによったら母も、やはりそうした生き方をして困難な時代に堪えていたのかも知れない。
 というのはいつの世でもそうだが戦乱の巷になれば、軍関係か特殊なコネの有る者の他は、みな押しなべて窮乏するものゆえ、「身を売り」「子を売り」ぐらいは珍しいことではなかったろう。
 なんでも銭に換えねば生き延びられなかったのは、終戦後の満州と同様だったろう。
 つまり、そうした当時の特殊環境が判かっていないことには、綺麗事では道三の出自なぞ、とてもつかみようもないだろう。
 さて民は飢え、食うに物なく住かに家などなかった京にあっては、とても、「わが子の将来を考え寺へ入れて修業させ、やがては名僧智識にもしよう」
 などとゆったりした世相ではなかったのを考えると、親は当時のことゆえ焼け出され三条から七条の河原に、むしろ掛けしていた難民の群れの一人と見るのか妥当であろう。
 妙覚寺へ入れられたのも、行末のことを思って出家させたのではなくて、
 「稚児」とよばれるゲイボーイとして、いくばくかの銀によって身売りさせられたものと考えるしかなかろう。という事は、奴とよばれる雑役用に売られたのではなく、
愛玩用だったのだから、幼い時から人なみはずれた令質だった事になる。もちろん直接に妙覚寺へ売られたものか、はたまた、「色子屋」とよばれていた当時のゲイバーヘ先に身売りしたのか、
そこまでの記録はないけれど、その美貌によって客をとる仕事に、幼ない時から従わされたのは事実だろう。

 なにしろ一向宗つまり今日の浄土真宗が、勢力をおおいにもつようになって、
 「僧侶といえど本能の処理に悩まされるのは、御仏の慈悲にそむくものである」
 とご都合主義で妻帯が認められるようになるまで、一切の女色は寺では禁じられていたから若い時は煩悩と戦っていても、やがて、
 「お上人さま」とよばれるような身分になってくると、どうせ老齢でもう行末もないことゆえ、
「女人の代りに眉目よき、肌の艶やかな稚児こそ抱きて、極楽の思いいをせん」
 となり、その欲望の処理用に美しい少年を求めたのは、これは何処の寺でも当り前みたいなことで、それがしたさに若い僧は修業をつんで豪くなろうとしたくらいだから、
 「峯丸」とよばれた頃の道三は、月夜でなくともかまをぬかれるような境遇だったのだろう。
 
まあ色子屋から妙覚寺の上人さまの専用に身うけされていったにしろ、その身体が銀に換算されて次々と転売されていったということは、
 「斎藤道三は、せんだんは双葉より芳しで、幼時から世にも稀れな美童であったし、大きくなっても絶世の美男であった」とする証拠でもあろう。
現在、道三の画像は、坊主頭に虎髭の厳めしいものがあるが、あれは後世の想像画にすぎない。
 この美少年から美男になってゆく間違いない事実が見逃がされてしまい、つまり、ここか判らないでは、
 「何故に斎藤道三が土岐頼芸に重用されて、やがて取って換って、自分が美濃一国の国主に、すんなりなってしまうか」の謎ときも出来なくなるのである。
 天文十一年五月二日に、たしかに道三は大桑城の土岐頼芸を包囲して、ついに城を落してしまい、頼芸を追い出している。
 
   第三部へ続く