田 役
吉野川の南岸の岡に開けた本山の町は、春は桜や石南花、川辺のつつじは南北連山の燃え立つ緑に映えてほんとに美しく、それに加えて山水か育む清々とした空気も美味い、のどかな町である。
その本山の下町から南山の傾斜に若宮公園があり、この桜の園を挟んで上と下を、兼山掘りのゆ溝が二筋に東から西へ豊かな水をたたえて流れ、吉野川の川沿いに開けた田んぼや町をうるほし、昔から幾度かの町の大火も防いだ防火用水としての大役も兼ねている大切なゆ溝である。
この二筋のゆ溝は帰全山(鴈山)公園の鶴嘴、川原を大きく迂回した吉野川王瀬の肩に、南から突き当たるように出た小川(樫の川)。水源は国見山と三郷の峰合いから泉み出て、大石と吉延のさこあいを流れて吉野川本流に達している。
樫の川の中腹、両の下、大きな岩瘤巻の小川を、岩や石垣でせき止め水を入れた兼山掘りのゆ溝は、町の南上を、上ゆ下ゆと流れて十キロ余りもある。
四国の連山と吉野川、町並みを望観できるゆ溝の小道は、町の人たちに静かな散歩道でもある。
さて、年中水を湛えてゆるやかに流すゆ溝。このゆ溝の管理や修復は、主にお百姓さんの仕事で、日々の見回りは当番制で、当番に当たった人は朝早くから歩いてゆ関からゆじりまで往復し、ゆの戸(田へ引く水落とし口戸や、山あいからの小谷水は全部ゆ溝が受け止めているので、小谷が下へ涸れてはいかんので落とし水を調節する戸板)ごとに水加減を見ては調節して回る。
修復工事で一番大変なことは田役という行事である。冬の寒風に震えていた草木も、暖かい春の日ざしと共にふきのとうやつくしの芽がふき、菜の花に蝶が舞い桜花へと自然は順次ほころび、人々も身も心も浮き立つ好季節。
日々は夢の間に過ぎ桜花も風に散り、川辺は躑躅に色染まる五月。梅雨やしつけ(田を耕し稲植えるまで)を控えて、さあ田役(年中の通水に洗い流されたゆ溝の土手修復)じゃ。
この作業中は、水を止める(水の干上がったゆ溝の小溜まりで、ゴリやどじょうの小魚を手掴みで取るのは、子供達の楽しみであった)。
さて、作業の段取りは、ゆ掛かり田んぼの反別に応じて、歩役と日数が前もって決められていた。
さあ、お百姓さんは男も女も総出で、男はかるさん股引き向こう鉢巻き、きよい(張り切る)の姿で、棕櫚のもっこに赤土入れて天びん担いで足取り軽くほいほいほい。
かますのもっこに赤土山盛り、前後を二人で担いでほいこらほいと運んでは、ゆ溝の傾斜(六、七十センチ)の土手に順次移して、また土取り運ぶ。狭いゆ道は天びんともっこ担ぎが行き交う長い列。
土入れた傾斜の土を年役がひら鍬でぺたぺたと塗りならす。
その後に続いて女ごし(婦人)は、白い手拭、姉さんかむり、紺の仕事着に赤たすき、裾を尻からげにまくって臑から下は赤いお腰で艶やかな、十人余りの人数で、みな手に手に一ひろほどの竹竿(破竹)の先に木の丸太(直径五センチ、長さ二十五センチ、金槌ゲンノウの形)の土たたきで、塗りならしたあぜ土を、艶な女ごし連が横に並んで竹竿槌を、天まで振り上げては叩きつける。
その音はぱんぱんぱんぱんと拍子が合うたり乱れたり。そのうちに唄声がはいり、叩きつける槌音は太鼓と鼓に代わって調子を合わし、ぱんぱんぱんと叩きつけながら、隊列はゆっくりゆっくりと横しもへ移動して行く。
和やかな流れ作業の姿は、まことにユーモラスで、見る人の心を飽きることなく楽しませる。
この山河にマッチした見事な田役の光景は、町のゆ溝を上から下へと一週間余り続けて見られた。
今はゆ溝のあぜ土手や、水漏れ箇所はコンクリートで全部が固められて、楽しく見えた田役作業の光景も、時は流れて昔の夢となった。
◎追話 野中兼山が百姓人夫を大勢駆使して、初めてゆ溝を造ったとき、川水を堰こんで流したが、水はゆ溝にだんだんとしみこんで下へ流れ着かない。
なんでかなあと兼山は頭を悩ましていた。それを見たある老人が、学問があってもまだ若い、知らんことがある。ひとつ教えてやろうと、「ゆ元で赤土を踏み、濁してどんどん流してみよ」と。
兼山は言うとうりに作業を進めたら、赤泥の水はゆ溝のしみ穴を逐次ふさいで水は順調に流れた、と。嘘か誠か?
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話
吉野川の南岸の岡に開けた本山の町は、春は桜や石南花、川辺のつつじは南北連山の燃え立つ緑に映えてほんとに美しく、それに加えて山水か育む清々とした空気も美味い、のどかな町である。
その本山の下町から南山の傾斜に若宮公園があり、この桜の園を挟んで上と下を、兼山掘りのゆ溝が二筋に東から西へ豊かな水をたたえて流れ、吉野川の川沿いに開けた田んぼや町をうるほし、昔から幾度かの町の大火も防いだ防火用水としての大役も兼ねている大切なゆ溝である。
この二筋のゆ溝は帰全山(鴈山)公園の鶴嘴、川原を大きく迂回した吉野川王瀬の肩に、南から突き当たるように出た小川(樫の川)。水源は国見山と三郷の峰合いから泉み出て、大石と吉延のさこあいを流れて吉野川本流に達している。
樫の川の中腹、両の下、大きな岩瘤巻の小川を、岩や石垣でせき止め水を入れた兼山掘りのゆ溝は、町の南上を、上ゆ下ゆと流れて十キロ余りもある。
四国の連山と吉野川、町並みを望観できるゆ溝の小道は、町の人たちに静かな散歩道でもある。
さて、年中水を湛えてゆるやかに流すゆ溝。このゆ溝の管理や修復は、主にお百姓さんの仕事で、日々の見回りは当番制で、当番に当たった人は朝早くから歩いてゆ関からゆじりまで往復し、ゆの戸(田へ引く水落とし口戸や、山あいからの小谷水は全部ゆ溝が受け止めているので、小谷が下へ涸れてはいかんので落とし水を調節する戸板)ごとに水加減を見ては調節して回る。
修復工事で一番大変なことは田役という行事である。冬の寒風に震えていた草木も、暖かい春の日ざしと共にふきのとうやつくしの芽がふき、菜の花に蝶が舞い桜花へと自然は順次ほころび、人々も身も心も浮き立つ好季節。
日々は夢の間に過ぎ桜花も風に散り、川辺は躑躅に色染まる五月。梅雨やしつけ(田を耕し稲植えるまで)を控えて、さあ田役(年中の通水に洗い流されたゆ溝の土手修復)じゃ。
この作業中は、水を止める(水の干上がったゆ溝の小溜まりで、ゴリやどじょうの小魚を手掴みで取るのは、子供達の楽しみであった)。
さて、作業の段取りは、ゆ掛かり田んぼの反別に応じて、歩役と日数が前もって決められていた。
さあ、お百姓さんは男も女も総出で、男はかるさん股引き向こう鉢巻き、きよい(張り切る)の姿で、棕櫚のもっこに赤土入れて天びん担いで足取り軽くほいほいほい。
かますのもっこに赤土山盛り、前後を二人で担いでほいこらほいと運んでは、ゆ溝の傾斜(六、七十センチ)の土手に順次移して、また土取り運ぶ。狭いゆ道は天びんともっこ担ぎが行き交う長い列。
土入れた傾斜の土を年役がひら鍬でぺたぺたと塗りならす。
その後に続いて女ごし(婦人)は、白い手拭、姉さんかむり、紺の仕事着に赤たすき、裾を尻からげにまくって臑から下は赤いお腰で艶やかな、十人余りの人数で、みな手に手に一ひろほどの竹竿(破竹)の先に木の丸太(直径五センチ、長さ二十五センチ、金槌ゲンノウの形)の土たたきで、塗りならしたあぜ土を、艶な女ごし連が横に並んで竹竿槌を、天まで振り上げては叩きつける。
その音はぱんぱんぱんぱんと拍子が合うたり乱れたり。そのうちに唄声がはいり、叩きつける槌音は太鼓と鼓に代わって調子を合わし、ぱんぱんぱんと叩きつけながら、隊列はゆっくりゆっくりと横しもへ移動して行く。
和やかな流れ作業の姿は、まことにユーモラスで、見る人の心を飽きることなく楽しませる。
この山河にマッチした見事な田役の光景は、町のゆ溝を上から下へと一週間余り続けて見られた。
今はゆ溝のあぜ土手や、水漏れ箇所はコンクリートで全部が固められて、楽しく見えた田役作業の光景も、時は流れて昔の夢となった。
◎追話 野中兼山が百姓人夫を大勢駆使して、初めてゆ溝を造ったとき、川水を堰こんで流したが、水はゆ溝にだんだんとしみこんで下へ流れ着かない。
なんでかなあと兼山は頭を悩ましていた。それを見たある老人が、学問があってもまだ若い、知らんことがある。ひとつ教えてやろうと、「ゆ元で赤土を踏み、濁してどんどん流してみよ」と。
兼山は言うとうりに作業を進めたら、赤泥の水はゆ溝のしみ穴を逐次ふさいで水は順調に流れた、と。嘘か誠か?
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話