お好さん
今から百年余り昔には、瀬戸内の町や集落は開けすぎていたのと、御維新の改革で、どうも暮らしにくくなって、土地も広く人口も少ない土佐の国へと、伊予の人々が、四国山脈を越えて来て移り住んだ。
お好しさんも小さい子供の頃、父母に連れられて伊予の三島から、土佐の本山の土居に来てありつき、大きくなった。
小柄でしゃか、しゃかとした奇麗好きの娘に育ち、とみよし屋に女中奉公に上がり精出して働いた。
ところが少しそそっかしかったのか、よく唐津を割ったので、おかみさんが「お好しさんはよう働いてくれるが、しゃか、しゃかで長うおいたら家の唐津はのうなってしまう」、とこぼした程いそしい人でした。
その後縁あって母方の祖父、善太郎と夫婦になり。亀於、照吉と二人の子供にも恵まれ、ささやかな楽しい日々を過ごしていました。
夫の善太郎は名のとおり、善人で好い人であったが四十二才の時、大家の手伝い仕事で、屋根から落ち不幸な死となりました。
お好しさんは、その時、上の亀於十三、照吉八つの二人の子供をかかえ、三十七の若さで後家となりましたが、くじけず苦労に耐えて子供を育てた。
姉の亀於は、他家の子守りなどして手伝うていたが、十七才の時、片岡先生の女中になって、東京へ行った。
その後弟の照吉も、知り合いの世話で大阪へ丁稚奉公に出た。お好しさんやっと身軽になった。
その当時沖から雑こ売りに来て、本山にありつき商売を始めていた、池駒次とゆう人と知り合い後妻になった。池の店は桜橋通りの辻で、干物や青物など売り、お好しさんは、うどんやそばを打って飲食を商売にしていた。
私は小学四、五年で小さい弟の勝(四、五才)を連れて、お好しばあさんの所へ度々行った。おばあさんは心優しい人で、孫の私等を可愛ゆくて、売り物の沖の赤唐芋をくれたり、うどんや、飴めゆを食べさしてくれた。その後私が病弱になってからは、勝が弟の辰を連れて行って、色々と食べたかなぁ。
私の体調が良くなった二十才過ぎに、駒次の息子で船乗りしていた、隆治さんも帰って来て商売を手伝い嫁ももらった。その後駒次さんも死ぬ。おりづらくなった、お好しばあさんは池の家を出て、安岡時計店の前を借りて、一人でうどん、そばの商売を気楽にしていた。
毎晩の晩酌は二合、夜が主の商売にほろ酔い気分で、足はけつまげもって湯にひたしたそば籠を振りしぼって、うどん、そばを作って客に振る舞う、気合のえい人で皆に好かれた。
注文の出前は、けつまづいて倒けると危ないので、毎晩私の受け持ちであった。その後私が家内をもらった当時は、年もいき商売もやめ、早船の一間を借りて住んでいた。
私の長男、広三が生まれる時、母はてんでかまわなんだが、お好しばあさんは気を使い何時もつきっきりで世話をやいてくれ、お産の時には産婆さんを呼びに走ったり、湯は沸かす、ほんとにええ人でした。
秋、小学校の運動会で、弟等の走るのを見に行こうと出かけ、あばあさんと二人で肩を並べて鍛冶屋の前に来た時、お好しばあさん、ひょろ、ひょろとして、ぐなりっと寄り掛かったので、転ばぬように抱き抱えた、それがお好しばあさんの、軽い中風の起こりであった。
その後息子照吉の家に身を寄せて暮らしていたが、そう厄介も掛けず、長患いもせず、七十二才で生涯を終わった。
◎顧みて思うに、お好しばあさんは色白で角丸い顔に、すきな日本髪を何時もきちんと結い、小柄な体に着物をしゃんと着て、休む間もない程セカ、セカ、シャカ、シャカと働き、道を歩いてもけつまげかねない、きよいのある人でした。
それに奇麗好きで、人に迷惑は掛けない、借りはしないと自活心が強く、何時もお金は縞の袋財布に硬貨を重いほど入れ、紐のはなを首に掛けくるくると巻き、いつも懐に持っていた。その律儀な人が、若くして後家になった不運のせいか、子供には苦労が多かった。
それにそこひで盲らになった母合田亀さんを、後妻に行くとき父母に預けて見入れて貰った。その女手があった祖母に母は、お借し下されをきめこんで迷惑を掛けたことと思う。
お好しおばあさんの人生は、幸福とは言えないが、自分に負けず、孫等を可愛がり立派に生き抜いたことである。私等孫は祖母に十分な恩返しも出来ないが、共同で墓もなおした、せめて春秋の彼岸や盆には、努めて墓参し線香を燻らそう。
楽しさは 春の桜に秋の月
家内達者で 三度食う飯
楽しさは 貧しきままに人集め
酒飲め 物を食えとゆう時
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話
今から百年余り昔には、瀬戸内の町や集落は開けすぎていたのと、御維新の改革で、どうも暮らしにくくなって、土地も広く人口も少ない土佐の国へと、伊予の人々が、四国山脈を越えて来て移り住んだ。
お好しさんも小さい子供の頃、父母に連れられて伊予の三島から、土佐の本山の土居に来てありつき、大きくなった。
小柄でしゃか、しゃかとした奇麗好きの娘に育ち、とみよし屋に女中奉公に上がり精出して働いた。
ところが少しそそっかしかったのか、よく唐津を割ったので、おかみさんが「お好しさんはよう働いてくれるが、しゃか、しゃかで長うおいたら家の唐津はのうなってしまう」、とこぼした程いそしい人でした。
その後縁あって母方の祖父、善太郎と夫婦になり。亀於、照吉と二人の子供にも恵まれ、ささやかな楽しい日々を過ごしていました。
夫の善太郎は名のとおり、善人で好い人であったが四十二才の時、大家の手伝い仕事で、屋根から落ち不幸な死となりました。
お好しさんは、その時、上の亀於十三、照吉八つの二人の子供をかかえ、三十七の若さで後家となりましたが、くじけず苦労に耐えて子供を育てた。
姉の亀於は、他家の子守りなどして手伝うていたが、十七才の時、片岡先生の女中になって、東京へ行った。
その後弟の照吉も、知り合いの世話で大阪へ丁稚奉公に出た。お好しさんやっと身軽になった。
その当時沖から雑こ売りに来て、本山にありつき商売を始めていた、池駒次とゆう人と知り合い後妻になった。池の店は桜橋通りの辻で、干物や青物など売り、お好しさんは、うどんやそばを打って飲食を商売にしていた。
私は小学四、五年で小さい弟の勝(四、五才)を連れて、お好しばあさんの所へ度々行った。おばあさんは心優しい人で、孫の私等を可愛ゆくて、売り物の沖の赤唐芋をくれたり、うどんや、飴めゆを食べさしてくれた。その後私が病弱になってからは、勝が弟の辰を連れて行って、色々と食べたかなぁ。
私の体調が良くなった二十才過ぎに、駒次の息子で船乗りしていた、隆治さんも帰って来て商売を手伝い嫁ももらった。その後駒次さんも死ぬ。おりづらくなった、お好しばあさんは池の家を出て、安岡時計店の前を借りて、一人でうどん、そばの商売を気楽にしていた。
毎晩の晩酌は二合、夜が主の商売にほろ酔い気分で、足はけつまげもって湯にひたしたそば籠を振りしぼって、うどん、そばを作って客に振る舞う、気合のえい人で皆に好かれた。
注文の出前は、けつまづいて倒けると危ないので、毎晩私の受け持ちであった。その後私が家内をもらった当時は、年もいき商売もやめ、早船の一間を借りて住んでいた。
私の長男、広三が生まれる時、母はてんでかまわなんだが、お好しばあさんは気を使い何時もつきっきりで世話をやいてくれ、お産の時には産婆さんを呼びに走ったり、湯は沸かす、ほんとにええ人でした。
秋、小学校の運動会で、弟等の走るのを見に行こうと出かけ、あばあさんと二人で肩を並べて鍛冶屋の前に来た時、お好しばあさん、ひょろ、ひょろとして、ぐなりっと寄り掛かったので、転ばぬように抱き抱えた、それがお好しばあさんの、軽い中風の起こりであった。
その後息子照吉の家に身を寄せて暮らしていたが、そう厄介も掛けず、長患いもせず、七十二才で生涯を終わった。
◎顧みて思うに、お好しばあさんは色白で角丸い顔に、すきな日本髪を何時もきちんと結い、小柄な体に着物をしゃんと着て、休む間もない程セカ、セカ、シャカ、シャカと働き、道を歩いてもけつまげかねない、きよいのある人でした。
それに奇麗好きで、人に迷惑は掛けない、借りはしないと自活心が強く、何時もお金は縞の袋財布に硬貨を重いほど入れ、紐のはなを首に掛けくるくると巻き、いつも懐に持っていた。その律儀な人が、若くして後家になった不運のせいか、子供には苦労が多かった。
それにそこひで盲らになった母合田亀さんを、後妻に行くとき父母に預けて見入れて貰った。その女手があった祖母に母は、お借し下されをきめこんで迷惑を掛けたことと思う。
お好しおばあさんの人生は、幸福とは言えないが、自分に負けず、孫等を可愛がり立派に生き抜いたことである。私等孫は祖母に十分な恩返しも出来ないが、共同で墓もなおした、せめて春秋の彼岸や盆には、努めて墓参し線香を燻らそう。
楽しさは 春の桜に秋の月
家内達者で 三度食う飯
楽しさは 貧しきままに人集め
酒飲め 物を食えとゆう時
三郎さんの昔話・・・作者紹介
三郎さんの昔話
すんげぇ時代になっちゃいましたね(笑)
でも、これ金もらえるんだぜ!カネ!
うひょほほぉぉぉぉ!!!!(゜∀゜≡゜∀゜)