「わたしたちにとって神を礼拝することは、どのような意味があるでしょうか」
(礼拝 クリストファーソン長老)
真の礼拝とは‟心を尽くして神を愛する”ことだと思います。(マタイ22:37)
ある人は「わたしは充分に心を尽くしている」と言い、
またある人は「努力はしていますが足りていない」と言うかもしれませんね。
良し悪しを言うつもりはありません。
主の前にそう言えるのであれば、それでいいと思います。
ネルソン大管長はどうでしょう。
勝手な想像ですが、たぶん後者だと思います。
その理由は、
もうずいぶん昔のことですが、「大管長でさえも日々悔い改める」と教えられたからです。
ですから、わたしもそうするように心がけています。
なんとか‟一日の終わりにその日を振り返る習慣”だけは身についてきました。
わたしにとっては、それが日々の礼拝であり、安息日に聖餐を受けるための備えです。
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もしも見つけられないときには、コメントからご連絡いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
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真の礼拝とは‟心を尽くして神を愛する”ことだと思います。(マタイ22:37)
ある人は「わたしは充分に心を尽くしている」と言い、
またある人は「努力はしていますが足りていない」と言うかもしれませんね。
良し悪しを言うつもりはありません。
主の前にそう言えるのであれば、それでいいと思います。
ネルソン大管長はどうでしょう。
勝手な想像ですが、たぶん後者だと思います。
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もうずいぶん昔のことですが、「大管長でさえも日々悔い改める」と教えられたからです。
ですから、わたしもそうするように心がけています。
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