「安息日は人のためにあるものであり、この世を離れて休息を取り、体と霊を更新するためのものです」
(天へのナビゲーター バルガス長老)
安息日は‟この世のことから離れて、主を礼拝するため”にあります。
「この世のことから離れるために、TVを見ない、買い物をしない、教会に集い聖餐を受ける」
それは良いことだと思います。
ところで、それは「しなければならないこと」でしょうか。
それとも「したいこと」でしょうか。
わたしの信仰生活は「しなければならない」から始まりました。
そのためでしょうか、教会へ集うことが時々面白くなくなりました。
「何のためにこんなことをしているのだろう」と思えたのです。
行いの意味を見失ったのでしょうね。
そんな思いは祝福を知るにつれ、「しなければならない」から「~したい」に変化していくようです。
長い時間が必要でしたけど。
そのおかげでひとつのことに気づきました。
「~したい」という思いは人を改心へ導いてくれるようです。
※このブログは終了になります。
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もしも見つけられないときには、コメントからご連絡いただければ幸いです。
どうぞよろしくお願いします。
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「この世のことから離れるために、TVを見ない、買い物をしない、教会に集い聖餐を受ける」
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それとも「したいこと」でしょうか。
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「何のためにこんなことをしているのだろう」と思えたのです。
行いの意味を見失ったのでしょうね。
そんな思いは祝福を知るにつれ、「しなければならない」から「~したい」に変化していくようです。
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