元和14年10月
容管より報告があり、安南將楊清が亂し、都護李象古[曹王皋の子.道古の兄]とその一族・部曲千餘人を殺害したことが知らされました。
象古は貪縱で苛刻なため人望はありません。
楊淸は安南の蠻酋で、牙將となっていましたが冷遇され、黄洞蠻を討つことを命ぜられましたが兵を返して都護府を襲撃したのです。
唐州刺史桂仲武為安南都護として征討にあたります。
楊清を赦し瓊州刺史としましたが従いません。
元和15年2月
安南都護桂仲武は安南に至りましたが、自立した楊清は入れません。
しかし清は残虐であったため、仲間は離れていきます。
仲武は他の有力酋豪を説き味方を増やし、兵七千餘人を得ました。
朝廷は仲武が逗留しているとして、桂管觀察使裴行立を安南都護として征討させようとします。
そして仲武を安州刺史に左遷しました。
元和15年3月
安南將士は開城して桂仲武を迎え入れ、楊清は殺されました。
裴行立は海門に至った時に病死し、仲武が安南都護に復しました。
容管より報告があり、安南將楊清が亂し、都護李象古[曹王皋の子.道古の兄]とその一族・部曲千餘人を殺害したことが知らされました。
象古は貪縱で苛刻なため人望はありません。
楊淸は安南の蠻酋で、牙將となっていましたが冷遇され、黄洞蠻を討つことを命ぜられましたが兵を返して都護府を襲撃したのです。
唐州刺史桂仲武為安南都護として征討にあたります。
楊清を赦し瓊州刺史としましたが従いません。
元和15年2月
安南都護桂仲武は安南に至りましたが、自立した楊清は入れません。
しかし清は残虐であったため、仲間は離れていきます。
仲武は他の有力酋豪を説き味方を増やし、兵七千餘人を得ました。
朝廷は仲武が逗留しているとして、桂管觀察使裴行立を安南都護として征討させようとします。
そして仲武を安州刺史に左遷しました。
元和15年3月
安南將士は開城して桂仲武を迎え入れ、楊清は殺されました。
裴行立は海門に至った時に病死し、仲武が安南都護に復しました。
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