冷遇 [源休の怒り]
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「ふざけやがって、俺がどんな思いをしてきたと思っているんだ」
源休は荒れ狂っている。
遠く回紇へ使に行った功として、光禄卿に任じられたのである。
「光禄卿? 窓際族扱いじゃないか」
対応が難かしい回紇への使者なら、普通でももっと報われて当然である。
しかも今回は、振武の張光晟が回紇の使者達を殺害した後である。
当然、回紇国内は激高して、休達の生命すら危うかったわけである。
長時間、雪中に立たされ問責され続けた。
それを必死に陳弁して両国の平和を保ってきたのだ。
宰相に任じられてもおかしくないはずだ。
せめて実入りの良い節度使ぐらいに任命されて当然だ。
それなのになんの利益もない光禄卿だ。
「盧杞の野郎、今にみておれ」
休の宰相盧杞と德宗皇帝に対する怒りはつのっていった。
まもなく起こった朱泚の乱では真っ先に参加し、その宰相となった。
*******背景*******
回紇は安史の乱に唐を支援し、後は郭子儀と連携し吐蕃を牽制したことで、交易上優遇され、その使節は横暴でしばしば紛争を起こしてきた。
代宗皇帝はひたすら宥和政策をとったので回紇は増長してきていた。
しかし回紇を嫌悪する德宗皇帝が即位して方向性が変わった。
建中元年振武軍使張光晟は横暴な回紇使節千人を殺害し資財を奪った。
回紇は激しく抗議したが、德宗は光晟を閑職にまわす程度の対応しかしなかった。
その最中、京兆尹/少尹源休は回紇武義成功可汗の冊立の使者として行ったのである。
当然冷遇され、敵視される中、なんとか使命を果たしてきた。
当然昇進してよいはずであるが、宰相盧杞は休の宰相登用を懼れて、帰還途中に光禄卿という閑職に任命してしまった。
当時の光禄卿はまともな職務はなく、利権は宦官達に全て奪われていた。
回紇はこのあと幽州朱滔の誘いにのり河北へ侵攻し、吐蕃の侵攻を防がなくなった。
休は朱泚の乱が起こると率先参加し、中書侍郎同平章事判度支としてその体制づくりに協力した。泚の敗北後誅された。
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