排斥 [牛李の狭間]
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「なぜいつまでも言われねばならないんだろう」
「たいしたことをしたわけじゃないか」
李商隠はとぼとぼと長安の街を歩いている。
河陽節度掌書記になったことに対する批判は強かった。
仲間からは裏切り者という目でみられた。
もともと若い頃の商隠は、牛李の党争では牛派の山西節度使令狐楚の配下であった。
その庇護のもと進士に合格したが賢良方正科には及第しなかった。
そして楚の死後、職がない時に
河陽節度使王茂元に気に入られ娘をもらい秘書郎として登用されることになった。
茂元は李派の軍人であり、当時は李徳裕の絶頂期であった。
貧乏な商隠としてはおいしい話であったので、あまり考えもせず引き受けたのだ。
ところが今は宣宗皇帝の時代、うってかわって牛派全盛。
李派に寝返ったことが旧悪とされ、徹底的に排斥されるようになってしまった。
今日も楚の子の綯に頼みに言ったのだが、一顧だにしてもらえなかった。
「おまえは節操がなさすぎる」という返事だった。
もっと小物なら赦してもらえるはずなのだが、世間には詩人として有名なのでより厳しくあたられるのだろう。
「もう官界では生きていけないのだろうか」
商隠は長安の街をとぼとぼと歩いていた。
*******背景*******
文宗皇帝の時代より牛李の党争が激しくなり、宰相から少壮官僚にいたるまで色分けされ、一方が主導権をとると、他方は都落ちして地方官となった。
次の武宗次代は李德裕の全盛時代で、牛派は迫害された。
宣宗が即位すると牛派が勢力を持ち、李派は地方に逐われた。
商隠は生活のため何度も両派をわたりあるいたため余計に信用されなくなった。
しかし抜群の詩才のため完全に排斥されることはなく、名目だけの官や地方官を渡り歩くことになり昇進はしなかった。