登用 [憲宗の遺臣]
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大中元年
朝議の後、宣宗皇帝は宰相白敏中と雑談をしていた。
「父憲宗皇帝の葬送の時だがな、途中で急な豪雨にあって、私を含めて百官達は雨宿りを求めて四散した」
「ふとみると、白髭の山陵使一人が雨に打たれながら憲宗の靈駕に残って守っていた」
「激しい雨に打たれ号泣しているように見えた」
「あれは誰だったのかな?」
「故宰相の令狐楚でしょう」と敏中。
「子はいるのか?」
「長子緒が隋州刺史と次子綯が湖州刺史として仕えています」
「宰相になる素質はありそうか?」
「緒は多病ですが、綯は才器がありそうです」
宣宗はすぐ綯を考功郎中知制誥に任じて召し出した。
入謝時、宣宗は元和[憲宗]時代の事を問い、綯は詳しく答えた。
宣宗は満悦し宰相候補として翰林院に入れた。
早くも大中四年に綯は宰相となり宣宗時代を通して在任した。
--------背景-----------
宣宗皇帝は憲宗の十三男であり、本来即位する可能性はなかったが、武宗没後に宦官達が傀儡にしやすい愚人と傍系から即位させた。その時37才であった。
しかし宣宗は賢明で果断であり、専権を振るっていた李德裕を排除し、牛党の白敏中を登用して李党を排除した。
宣宗は父憲宗時代に憧れを持ち、その重臣の子孫を次々と登用していった。
白敏中が令狐楚・緒・綯とすぐ答えられたのも、三者が牛党であったからである。当然綯の登用にも賛成であった。