中国では皇嗣の即位例はない
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どこかの国に「皇嗣」という存在が居ます。
皇太子・皇太孫・皇太弟・皇大叔などいろいろあるが、皇嗣には「太」がつきません。
「太」という字は「最も尊い・最上位」という意味があるので「皇嗣」は格が低いということなのかもしれません。
載初/天授元年[692]九月、則天は即位して「大周帝国」を建国しました。
つまり「大唐帝国」は滅びたわけです。
いままでの唐の傀儡皇帝の李旦は格下げされて皇嗣となり、輪と改名しました。
旦/輪は則天の実子であるので「武氏姓」を与えられました。
そして旦の子供達、皇太子成器は皇孫に、隆基達は「親王」から「郡王」に格下げされました。
しかし皇嗣が則天を継承すると明確に定められたわけではなく、皇太子の座は空いたとも考えられます。そこで則天の甥にあたる魏王承嗣や梁王三思などは継承をねらって策動しました。
天授二年[693]九月鳳閣舎人張嘉福を指嗾して承嗣を皇太子にと請願させますが、宰相岑長倩や格輔元が反対したため成りません。長倩や輔元はこのあと誣告され殺されました。
そして承嗣の勢力はどんどん強くなりましたが、則天の寵臣李昭德が「甥が伯母の祭祀を行うことはありません」と警告し、則天は承嗣への継承をあきらめました。
中国では、家系を重視し血縁に拘らない日本と違い養子の概念が厳密であり、同じ武氏とはいえ実子のある則天が承嗣を継承者とするのには抵抗があったのでしょう。
結局、聖暦元年[698]に一度廃した廬陵王哲[中宗]を呼び戻し皇太子としました。
皇嗣輪/旦は兄が復帰したため、皇嗣を辞し、聖暦二年相王となりました。
つまり唐/周では「皇嗣」が即位することはなく、中国の歴史では例はありません。
-----------背景----------
光宅元年[684]高宗の後を継いだ皇帝哲[中宗]は則天により廃され廬陵王として地方に安置されました。
そして弟り相王旦が皇帝とされましたが、則天の傀儡でしかありませんでした。
則天は嗣聖/天授元年[690]即位し、旦は廃されて皇嗣となりました。
皇族となった武氏一族は策動して承嗣・三思の立太子をねらいましたが、則天は決断できず、そうこうしているうちに男妾である張易之・昌宗の策動で廬陵王の復帰ということになりました。
旦は神龍元年[705]の哲[中宗]の即位後、安国相王となり、景雲元年[710]の韋后の乱の後に擁立されて皇帝[睿宗]となりました。
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