・中和4年[884年]山西鹿晏弘,淮西秦宗權の挟撃に敗北し
山東節度使劉臣容は成都に逃れた。淮西將趙諲が自立した。
・朱全忠と秦宗權の戦いが全忠優勢に傾いた文徳元年[888年]
趙諲は宗權を裏切り全忠に附き、山東節度使[忠義軍節度使
と改名]を唐朝から公認された。
・趙諲は景福元年[892年]卒し、子の凝が嗣いだが、なぜ
か極めて唐朝に忠順であった。
・朱全忠が唐朝簒奪の姿勢を示すと趙凝は光化元年[897年]
天祐2年[905年]と反旗を翻し、敗北して淮南の楊行密のもとへ
走った。
・山東節度使は後梁の支配下となり楊師厚が統治した。
山東節度使劉臣容は成都に逃れた。淮西將趙諲が自立した。
・朱全忠と秦宗權の戦いが全忠優勢に傾いた文徳元年[888年]
趙諲は宗權を裏切り全忠に附き、山東節度使[忠義軍節度使
と改名]を唐朝から公認された。
・趙諲は景福元年[892年]卒し、子の凝が嗣いだが、なぜ
か極めて唐朝に忠順であった。
・朱全忠が唐朝簒奪の姿勢を示すと趙凝は光化元年[897年]
天祐2年[905年]と反旗を翻し、敗北して淮南の楊行密のもとへ
走った。
・山東節度使は後梁の支配下となり楊師厚が統治した。