唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使 その6

2011-12-26 19:00:24 | Weblog
・中和4年[884年]山西鹿晏弘,淮西秦宗權の挟撃に敗北し
山東節度使劉臣容は成都に逃れた。淮西將趙諲が自立した。
・朱全忠と秦宗權の戦いが全忠優勢に傾いた文徳元年[888年]
趙諲は宗權を裏切り全忠に附き、山東節度使[忠義軍節度使
と改名]を唐朝から公認された。
・趙諲は景福元年[892年]卒し、子の凝が嗣いだが、なぜ
か極めて唐朝に忠順であった。
・朱全忠が唐朝簒奪の姿勢を示すと趙凝は光化元年[897年]
天祐2年[905年]と反旗を翻し、敗北して淮南の楊行密のもとへ
走った。
・山東節度使は後梁の支配下となり楊師厚が統治した。
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山南東道節度使 その5

2011-12-26 18:41:28 | Weblog
・淮西平定後の山南東道は安定した藩鎭となり、宰相前後の回遊地として
淮南・西川などと同じような高い藩鎭格となったが重要性は低くなった。
・李逢吉・王涯・竇易直・裴度・牛僧孺などの宰相格が長慶~太和年間にみられる。
・大中~咸通年間になると藩鎭格は低下し、高位文官の就任先となった。
・大中・咸通・乾符年間になると各節度使は近隣藩鎭より警備兵力を強化した。
宣歙の反乱鎮定や、桂管からの龐の北進阻止などにはその力がしめされた。
・乾符6年[879年]賊黃巢は廣州から北上し荊州を攻撃し、鎮定するはずの
都統王鐸は遁走した。山東節度使劉巨容はこれを荊門に大破したが、唐朝の
軍人に対する処遇に不満をもつ巨容達はとどめをささず、黃巢の勢力が再び
回復することをゆるした。

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山南東道節度使 その4

2011-12-26 16:34:43 | Weblog
・貞元[789~805]元和[806~820]年間の山南東道は隣道淮西との戦乱の
連続であった。淮西は李希烈→吳少誠→吳少陽→吳元濟と自立が続くが、そ
の兵は強く、山東は常に受け身であった。
・節度使は貞元年間は賈耽・樊澤・嗣曹王皐・于頔と続く。その中では于頔
が最も専横であったが淮西ともよく対峙していた。
・元和に入り、于頔は入朝し、文官系の節度使が続き淮西の圧迫が続いた。
・元和10年[815年]淮西吳少陽が死に、子の元濟が嗣ぐ。山東節度使嚴綬は
これを伐ったが反って磁丘に大敗した。
・そこで憲宗皇帝は山南東道節度使を前線の唐隋節度[武将の高霞寓]と
後方の山南東道[文官李遜]に分割して淮西にあたらせたが。11年[816年]
高霞寓は鐵城で大敗した。
・その後唐隋節度には李晟の子愬、山東には鄭權を配置した。
・李愬はうち続く敗戦で沈滞した志気を回復するため、小規模の勝利を積み
重ね、淮西の驍將[李祐など]を捕らえることに専念した。
・元和12年[817年]宰相裴度がみずから大軍をひきいて淮西討伐に出陣し、
郾城に淮西将董重質と対峙した。その間隙をつき李愬は帰順させた李祐等か
ら入手した情報により長駆淮西の本拠地蔡州を襲撃し吳元濟を捕らえた。
・淮西は解体され、山東は再び統合されて李愬が節度使となった。
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山南東道節度使 その3

2011-12-26 15:52:40 | Weblog
・將梁崇義らは來瑱の讒死を怒り、廣徳元年[763年]襄州に自立した。
唐朝は吐蕃の侵攻・程元振の失態もありそれを認めざるえなかった。
・梁崇義は河北や淄青と連携し反唐朝の姿勢をつづけていたが、勢力的
には孤立し最も弱体であった。
・建中2年[781年]宗皇帝の成徳李惟岳討伐をみた梁崇義は、魏博と
連携して反した。
・隣道の淮西李希烈は虎視眈々と勢力拡大をねらっていたので、ただち
に山東軍を粉砕し、梁崇義は自殺した。希烈は山南東道も併せようとし
たが唐朝はゆるさなかった。そこで希烈は反乱に荷担することになった。
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山南東道節度使 その2

2011-12-26 15:34:49 | Weblog
・乾元1年[758年]將張嘉延が反し荊州を落とす。
・乾元2年[759年]將張維瑾が反し節度使史翽を殺す。など相次ぐ軍乱にたいして
唐朝は上元元年[760年]陝虢節度使來瑱を節度使に任命した。
來瑱はよく軍を統制し、將士の信望を集めた。
・無能な肅宗皇帝は宦官の言うがままに失政を繰り返していたが、來瑱を淮南西道
に異動させようして拒否され、かえって在任を認めることになった。
・代宗即位の後、権限を振るう宦官程元振は來瑱を憎み、寶應元年[732年]兵部
尚書平章事として優遇して京師に呼び寄せ、廣徳元年[763年]讒言して殺した。
李光弼など武将達はこれに反発し、吐蕃の京師攻撃に来援しようとせず、
代宗は京師を棄てて華州に走った。

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山南東道節度使 その1

2011-12-26 11:47:43 | Weblog
・安禄山の反乱軍は東都を陥落させ、長安を狙うと共に一部は
劍南と淮南・浙江の遮断をめざしては南下して荊州をめざした。
・唐朝は南陽[州]と襄陽[襄州]に防禦使を置き、魯等が
黔中や湖南・嶺南の兵も動員してこれに対抗した。
・しかし安禄山軍は強く、南陽は陥落し、魯は襄陽に逃れた。
・至徳2年[757]襄州に山南東道節度使が置かれ襄・・均・房・
金・商・唐・安・隋州を管轄し魯が節度使となつた。
・唐軍の反攻と共に魯も北上したが、乾元2年の滏水における九
節度使軍の潰滅においては、軍中に蛮族を多く含む魯軍は最も
惨めな敗走をし、魯は恥じて自殺した。
・その後山東節度使は統制がとれず諸将が節度使を逐う事件が頻発
した。
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