唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

山南東道節度使 その4

2011-12-26 16:34:43 | Weblog
・貞元[789~805]元和[806~820]年間の山南東道は隣道淮西との戦乱の
連続であった。淮西は李希烈→吳少誠→吳少陽→吳元濟と自立が続くが、そ
の兵は強く、山東は常に受け身であった。
・節度使は貞元年間は賈耽・樊澤・嗣曹王皐・于頔と続く。その中では于頔
が最も専横であったが淮西ともよく対峙していた。
・元和に入り、于頔は入朝し、文官系の節度使が続き淮西の圧迫が続いた。
・元和10年[815年]淮西吳少陽が死に、子の元濟が嗣ぐ。山東節度使嚴綬は
これを伐ったが反って磁丘に大敗した。
・そこで憲宗皇帝は山南東道節度使を前線の唐隋節度[武将の高霞寓]と
後方の山南東道[文官李遜]に分割して淮西にあたらせたが。11年[816年]
高霞寓は鐵城で大敗した。
・その後唐隋節度には李晟の子愬、山東には鄭權を配置した。
・李愬はうち続く敗戦で沈滞した志気を回復するため、小規模の勝利を積み
重ね、淮西の驍將[李祐など]を捕らえることに専念した。
・元和12年[817年]宰相裴度がみずから大軍をひきいて淮西討伐に出陣し、
郾城に淮西将董重質と対峙した。その間隙をつき李愬は帰順させた李祐等か
ら入手した情報により長駆淮西の本拠地蔡州を襲撃し吳元濟を捕らえた。
・淮西は解体され、山東は再び統合されて李愬が節度使となった。
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