・何進滔は開成5年[840年]に死に、子の重順[賜名されて弘敬]が嗣いだ。弘敬は父と違い
唐朝とは協調関係を築いた。
・會昌3年[843年]よりの昭義劉稹の自立にたいする唐朝の討伐には成徳王元逵とともに協力した。
・咸通7年[866年]弘敬がなくなり子の全が嗣いだ。唐朝は河北の回復の意志は失っていた。
・咸通9年[868年]全は徐州龐の鎮圧に出兵したが敗北した。
・咸通12年[871年]全の失政から牙軍は乱して、韓君雄[賜名されて允忠]をたてた。全は殺された。
・君雄の子簡は乾符元年[874年]継承したが、王仙芝や黄巣の乱により唐朝が弱体化するのをみて勢力拡張を図った。
・まず中和2年[882年]河陽を落とし諸葛爽を逐った。さらに天平を破り節度使曹全晸を殺したが、
鄆州を包囲中に河陽を諸葛爽に奪回された。
・中和3年[883年]簡は再び河陽を攻撃したが爽の將李罕之に大敗した、そのすきに澶州刺史樂行達[賜名されて彦禎]
は魏州で牙軍の擁立を受けて自立し、簡は殺された。
唐朝とは協調関係を築いた。
・會昌3年[843年]よりの昭義劉稹の自立にたいする唐朝の討伐には成徳王元逵とともに協力した。
・咸通7年[866年]弘敬がなくなり子の全が嗣いだ。唐朝は河北の回復の意志は失っていた。
・咸通9年[868年]全は徐州龐の鎮圧に出兵したが敗北した。
・咸通12年[871年]全の失政から牙軍は乱して、韓君雄[賜名されて允忠]をたてた。全は殺された。
・君雄の子簡は乾符元年[874年]継承したが、王仙芝や黄巣の乱により唐朝が弱体化するのをみて勢力拡張を図った。
・まず中和2年[882年]河陽を落とし諸葛爽を逐った。さらに天平を破り節度使曹全晸を殺したが、
鄆州を包囲中に河陽を諸葛爽に奪回された。
・中和3年[883年]簡は再び河陽を攻撃したが爽の將李罕之に大敗した、そのすきに澶州刺史樂行達[賜名されて彦禎]
は魏州で牙軍の擁立を受けて自立し、簡は殺された。