・安史の乱。揚子江中流の拠点荊州(江陵)を守るために置かれたのだが、
永王璘が謀叛したため混乱した。
・一応、至徳二年[757年]に荊南(荊澧)節度使が荊・澧・・郢・復五州を領州
としておかれた。もうすこし上流には蘷峽節度使が蘷峽涪忠萬五州を領州として置か
れている。ただ臨戦地域でもないため置かれているという程度であった。
・文官系の節度使杜鴻漸でありろくな兵備もなかったようで、乾元二年[759年]
山南東道の叛将張嘉延に襲われるとすぐ荊州を棄てて奔った。
・まともに機能したのは上元元年[760年]元宰相の呂諲が節度使となった頃からで
、江陵府を置き団練兵を整備していった。
・廣元年[763年]武将衛伯玉が節度使となると大暦11年[776年]まで長任し
半ば藩鎭化していった。
・その後は大暦・貞元年間は対淮西戦略の後方基地として機能していた。
永王璘が謀叛したため混乱した。
・一応、至徳二年[757年]に荊南(荊澧)節度使が荊・澧・・郢・復五州を領州
としておかれた。もうすこし上流には蘷峽節度使が蘷峽涪忠萬五州を領州として置か
れている。ただ臨戦地域でもないため置かれているという程度であった。
・文官系の節度使杜鴻漸でありろくな兵備もなかったようで、乾元二年[759年]
山南東道の叛将張嘉延に襲われるとすぐ荊州を棄てて奔った。
・まともに機能したのは上元元年[760年]元宰相の呂諲が節度使となった頃からで
、江陵府を置き団練兵を整備していった。
・廣元年[763年]武将衛伯玉が節度使となると大暦11年[776年]まで長任し
半ば藩鎭化していった。
・その後は大暦・貞元年間は対淮西戦略の後方基地として機能していた。