唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

原節度使 その1

2011-12-30 23:01:54 | Weblog
・大暦三年[768年]邠寧節度使馬璘がその一部である・原二州の節度使として
対吐蕃最前線に移動したことにより成立した。
・連年の吐蕃の侵入に対して邠寧節度使単独では対応できず、河中・朔方節度使の郭子儀の出動が
必要であった。そのための前線基地として邠寧慶三州を郭子儀の管轄としたものである。
・原二州とはいえ、原州は実質的には存在せず、非常に貧しい藩鎮であり。
移動決定時にはそれを不満とする軍乱が発生したが、段秀實らの努力によって静まった。
・邠寧軍は四鎭北庭行軍の名称を持つ。これは安史の乱に安西四鎭北庭などから派遣されてきた部隊
[李嗣業や茘非元禮などに率いられていた]の流れをふむものである。原節度使はこれを受け継いでいる。
・大暦5年[770年]原領州はあまりに貧しく、軍糧を賄えないため、
馬璘は鄭・潁二州を李抱玉より譲られ遥領することになった。
・大暦9年[774年]馬璘は入朝し宰相を求めた。唐朝は検校左僕射に知省事をつけてなだめた。
・大暦11年[776年]馬璘は卒し、留後の段秀實が昇格した。
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魏博節度使 その8

2011-12-30 17:27:23 | Weblog
・樂彦禎は節度使となるが実権は牙軍にあった。そのため子従訓を相州刺史として私兵を集めさせた。
・樂従訓は義成節度から義昌節度へ赴任中の王鐸一行を襲って殺害し私財を奪った。
唐朝は衰弱していたのでこれを処分できなかったが、さすがに魏博内でも評判はわるかった。
・文徳元年[888年]2月牙軍は樂彦禎を殺し、新節度使には羅宗弁[賜名されて弘信]を擁立した。
従訓は朱全忠の援助を得て抗戦し内戦状態となった。
・4月牙軍は従訓を破り、朱全忠は軍を引いた。
・大順二年[891年]朱全忠は魏博を攻めて破り従わせた。
・光化元年[898年]羅弘信は卒し、子の紹威が嗣いだ。
・光化二年[899年]幽州劉仁恭が来寇したが、朱全忠の援軍を得て破った。
・天祐三年[906年]羅紹威は牙軍の横暴に耐えかねて、朱全忠の支援をえてこれを屠した。
魏博全域で内乱が起こったが鎮圧には成功した。しかしその戦力は大きく低下し、
朱全忠に全面的に従うしかなくなった。

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