・大暦三年[768年]邠寧節度使馬璘がその一部である・原二州の節度使として
対吐蕃最前線に移動したことにより成立した。
・連年の吐蕃の侵入に対して邠寧節度使単独では対応できず、河中・朔方節度使の郭子儀の出動が
必要であった。そのための前線基地として邠寧慶三州を郭子儀の管轄としたものである。
・原二州とはいえ、原州は実質的には存在せず、非常に貧しい藩鎮であり。
移動決定時にはそれを不満とする軍乱が発生したが、段秀實らの努力によって静まった。
・邠寧軍は四鎭北庭行軍の名称を持つ。これは安史の乱に安西四鎭北庭などから派遣されてきた部隊
[李嗣業や茘非元禮などに率いられていた]の流れをふむものである。原節度使はこれを受け継いでいる。
・大暦5年[770年]原領州はあまりに貧しく、軍糧を賄えないため、
馬璘は鄭・潁二州を李抱玉より譲られ遥領することになった。
・大暦9年[774年]馬璘は入朝し宰相を求めた。唐朝は検校左僕射に知省事をつけてなだめた。
・大暦11年[776年]馬璘は卒し、留後の段秀實が昇格した。
対吐蕃最前線に移動したことにより成立した。
・連年の吐蕃の侵入に対して邠寧節度使単独では対応できず、河中・朔方節度使の郭子儀の出動が
必要であった。そのための前線基地として邠寧慶三州を郭子儀の管轄としたものである。
・原二州とはいえ、原州は実質的には存在せず、非常に貧しい藩鎮であり。
移動決定時にはそれを不満とする軍乱が発生したが、段秀實らの努力によって静まった。
・邠寧軍は四鎭北庭行軍の名称を持つ。これは安史の乱に安西四鎭北庭などから派遣されてきた部隊
[李嗣業や茘非元禮などに率いられていた]の流れをふむものである。原節度使はこれを受け継いでいる。
・大暦5年[770年]原領州はあまりに貧しく、軍糧を賄えないため、
馬璘は鄭・潁二州を李抱玉より譲られ遥領することになった。
・大暦9年[774年]馬璘は入朝し宰相を求めた。唐朝は検校左僕射に知省事をつけてなだめた。
・大暦11年[776年]馬璘は卒し、留後の段秀實が昇格した。