唐史話三眛

唐初功臣傳を掲載中、約80人の予定。全掲載後PDFで一覧を作る。
その後隋末・唐初群雄傳に移行するつもりです。

魏博節度使 その4

2011-12-27 18:34:06 | Weblog
・田緒は貞元12年[796年]卒した。緒には嘉誠公主が降嫁しており、公主は実子はなかったが緒の末子
季安を養子としていた。そのため継承には問題がなかった。
・田季安は公主に育てられ、能力なく、軍中の人望はないが唐朝には忠順であった。
元和5[810年]年の成徳王承宗の討伐には一応唐朝側として働いたが功績はなかった。
・元和7年[812年]田季安がなくなると、幼子懷諫が嗣いだ。しかし取りまきが専横であったため牙軍は
反発し、一族の田興を擁立しようとした。興は温厚で唐朝に親近感を抱いていた。
・憲宗皇帝は学士李絳の進言を入れ、自己の継承の正当性に不安を感じる田興を一挙に節度使として公認
し、弘正と賜名した。これに感激した弘正は唐朝側に帰属し、多大の恩賞を与えられた軍もそれに従った。
・魏博軍は元和10年[815年]成徳王承宗の討伐に働き、特に元和14年[819年]の
淄青李師道討伐には全軍をあげて出撃した。
・元和15年[820年]成徳軍が唐朝に帰服し、田弘正は成徳節度使に転じ、
魏博には淮西討伐の名将李愬が就任した。
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魏博節度使 その3

2011-12-27 17:07:44 | Weblog
・田承嗣は大暦14年[779年]卒し、子達は幼少か無能であるため兄の子であるが嗣いだ。
・田悦は継承当時は唐朝に恭順であったが、兵力削減には応じなかった。
・建中二年[781年]成徳の李寶臣がなくなり、子惟岳が継承しようとしたが唐朝は認めなかった。
・田悦は惟岳の継承を支援していたため反乱をおこすが、惟岳軍は次々と崩れ、魏博軍も河東馬燧・
昭義李抱眞に敗北が続いた。
・成徳が平定されて分割されると、田は孤立したが、分割に不満を持った幽州朱滔、恒冀王武俊が
反し、淄青の継承を求める李納の支援もあり勢力を回復していった。
・建中三年[782年]連篋山で魏博・幽州・恒冀の反乱軍は、朔方・昭義・河東など唐朝軍を大破した。
しかし幽州朱滔が勢力をもったため、田悦は併呑されることを懼れた。
・興元元年[784年]疲弊した唐朝は反乱軍に和解を求め、田・李納・王武俊はそれに応じた。
特に魏博は大半の将兵を失い、所領は荒廃していたためこれ以上の継戦は耐えられなかった。
・三月継承に不満を持つ承嗣の子緒は、悦の方針を批判し軍乱を起こしてを殺した。
しかし魏博は反乱を続けられる状況ではなく緒もまた唐朝との和解に傾いた。
・五月幽州朱滔は怒り、魏博を攻めたが、昭義李抱真や成徳王武俊に經城で大敗して逃げ帰った。
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魏博節度使 その2

2011-12-27 15:56:39 | Weblog
・大暦10年[775年]みずから徴兵した10万の兵力の維持に苦しむ田承嗣は
昔の仲間である相衛節度使薛嵩の死を好機として、相衛刑洺の四州を併合しようとした。
・相衛將裴志を抱き込み一旦は相衛四州を制圧した。また唐朝の河陽・陝虢の藩鎭をそ
そのかし軍乱を起こさせることにも成功した。
・しかしその傲慢さを嫌っていた成徳李寶臣、淄青李正己、幽州朱は唐朝側に付き包囲
攻撃を加えてきた。
・配下の諸将が次々と降り、状況は不利ではあったが、仲間である河北藩鎭どうしの戦い
は手ぬるいものであり、唐朝からの軍費を食いつぶすようにだらだらと続いた。
・承嗣は軍費不足と孤立に苦しみ、大暦11年[776年]正月には一時講和を求めた。
・しかし5月汴宋將李靈耀が反乱を起こすとこれを全面的に支援して永平節度使李勉を滑州に破った。
・10月李靈耀は敗北、援軍として送った甥田も大敗して逃げ帰ると、再び講和を求めた。
・唐朝も長く続く討伐の軍費に苦しみ、また藩鎭どうしの戦意のない戦闘の無意味さを感じ、
12年[777年]3月田承嗣は赦された。
・魏博は相衛二州を加えたが、滄瀛二州を失い領州的には得るところは少なく、多くの兵力を失った。
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魏博節度使 その1

2011-12-27 14:07:52 | Weblog
・廣元年[763年]史朝義の乱が鎮定される時、賊将達が次々と帰順したが
最後まで抵抗したのが田承嗣であった。
・歸順が遅れたため成徳張忠志、幽州李懷仙・相衛薛崇らの節度使待遇に対し
て最初は魏博等州都防御使として一段下に遇された。
・しかしその実力によってすぐに魏博節度使[魏博貝瀛滄五州]に昇格さ
れ天雄軍の號を賜った。
・田承嗣は状況が平穏化した大暦年間に入っても臨戦体制を解かず、兵力
を強化しつづけ10万人の兵員を抱えるようになった。
・唐朝は承嗣に対して大暦3年[768年]司空兼検校僕射、8年[773年]平章事
を与え、子に公主を降嫁させるなど懐柔策をとっていたが、魏博は過大な兵力
を抱えていたため不安定な状況を続けていた。
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