この土曜日、会社に休日出勤して、工場の床塗り工事の立会いをしたついでに、合間を見つけて、日頃なかなか出来ない机まわりの整理整頓をした。
すると、古い罫線紙が出てきた。A4サイズの横罫で、昔の社名が印刷してあり、色はもう褪せて黄色っぽくなっている。
その罫線はしっかりと黒く、またお互いの線がキッチリと平行を保っている。そのあまりの存在感に虚をつかれた形となり、整理の手を休めた。そして考えは一瞬にして巡った。
何故?それは、そこに人間の精神の働きの機微を感じ取ったからである。
この手の紙には2種類ある。白紙と罫線紙。
まず、罫線紙から書いてみよう。
罫線があるということは、その目的からして、その線に従って書け、ということである。(線を無視して書いてもよいが、その時は白紙と同じ扱いをしているとみなす。)従うとはつまり、そこに規則、要求、目標、制限があるということである。心の働きで言えば、それに従えばよい、ということになる。ある意味、安心感が生じる。
このように、そのやり方が分かる、簡単に使える、誰でもがその恩恵にあずかれる、ということは、作業として効率的になり、効果も即出る。まさに、規則のポジティブな側面である。
ところが、その規則に沿うということは、その土俵からはみ出すようなポテンシャルはなかなか生み出せない、とも言える。100点満点のテストがあったとして、この罫線紙に書くということは、その制限内に留まるという意味で、実際に得点できる範囲は、0~100点である。70点もとれば、そこそこ良い成績といえる。100点とれば、満点でそれは素晴らしい。
白紙に移ってみよう。何も書くに当たって目標がない。自由である。縦だろうが横だろうが斜めだろうが、大きかろうが小さかろうが、混ぜようが、自由である。字で無く絵を描くイメージだろうか。書くにあたって、その規則も含めて自分で全てを決めなければならない。これは不安である。これで良いのか?自分で判断しなければならない。この時、自分の能力が全てあからさまに明らかになる。既に備えている能力、そして未知のまだ開拓されていない能力、その両方が。
ここで、それに耐えられず、せっかくのこの自由を放棄し、罫線を引き、その制限の中に逃げ込む場合もあろう。白紙は、それも許容する。それに甲斐があるかは別として。
白紙は、その上で成されることを全て許容する。それに制限を与えるのは、自分の想像力だけである。これもテストであるとして、その点数の範囲は、罫線紙に対して比較できない程広い。-∞から+∞。マイナスの無限からプラスの無限まで。
そこに何を書く?折って飛行機にしても良い。何かを包んでも良い。叩いて音を出し楽器にしても良い。煮物の落し蓋にしてもよい。まあ、これらは紙の使用法として既知の範囲であるが、ここまで書くということにからめて”制限”をテーマにしたのでその”制限”を越える例としてあげてみた。
こうしてみると、紙の上に引かれているたかだか一本の線が、人間の作り出した全ての規範の象徴であることがわかる。その存在感は大きい。そして、その一本の線を消し去ることで、その存在感はあにはからんや、まったくチャチなものに後退し、無限の可能性がそこに広がるのである。
私は、白紙が好きである。あとは、ただ、書くだけである。