クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

白紙と罫線紙(続き)

2013-03-25 23:11:02 | 雑感

先日は白紙が持つ無制限、無限の可能性について書いたが、いくつか補足しておこう。

1.白紙は無限のポテンシャルを持つが、生かしきれない場合、100点満点で非常に低い点数や0点になってしまうリスクもある。

2.制限のある罫線紙は、そこそこ書ければ、誰でもが十分及第点を取れる。一生懸命書けば100点も夢ではない。

3.制限のある罫線紙は、丁寧に書くと、そこに規律性の持つ美しさが生まれる。そして、これが制限が必要な理由である。美、調和、協調。人々を結びつけるものは、この制限である。

4.そして、個々の人間が自分自身を対象とするときは、白紙の上に無限を描くべきである。

5.そうか、自分を相手にするときは白紙、人と交わる時は罫線紙。これが答えであったか。

【説明】 このブログの見方

2013-03-24 23:58:59 | 雑感
ブログの見方が、ちょっと分かりにくので説明を。

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以上。

白紙と罫線紙

2013-03-24 22:42:50 | 雑感

この土曜日、会社に休日出勤して、工場の床塗り工事の立会いをしたついでに、合間を見つけて、日頃なかなか出来ない机まわりの整理整頓をした。

すると、古い罫線紙が出てきた。A4サイズの横罫で、昔の社名が印刷してあり、色はもう褪せて黄色っぽくなっている。

その罫線はしっかりと黒く、またお互いの線がキッチリと平行を保っている。そのあまりの存在感に虚をつかれた形となり、整理の手を休めた。そして考えは一瞬にして巡った。

何故?それは、そこに人間の精神の働きの機微を感じ取ったからである。

この手の紙には2種類ある。白紙と罫線紙。

まず、罫線紙から書いてみよう。

罫線があるということは、その目的からして、その線に従って書け、ということである。(線を無視して書いてもよいが、その時は白紙と同じ扱いをしているとみなす。)従うとはつまり、そこに規則、要求、目標、制限があるということである。心の働きで言えば、それに従えばよい、ということになる。ある意味、安心感が生じる。

このように、そのやり方が分かる、簡単に使える、誰でもがその恩恵にあずかれる、ということは、作業として効率的になり、効果も即出る。まさに、規則のポジティブな側面である。

ところが、その規則に沿うということは、その土俵からはみ出すようなポテンシャルはなかなか生み出せない、とも言える。100点満点のテストがあったとして、この罫線紙に書くということは、その制限内に留まるという意味で、実際に得点できる範囲は、0~100点である。70点もとれば、そこそこ良い成績といえる。100点とれば、満点でそれは素晴らしい。

白紙に移ってみよう。何も書くに当たって目標がない。自由である。縦だろうが横だろうが斜めだろうが、大きかろうが小さかろうが、混ぜようが、自由である。字で無く絵を描くイメージだろうか。書くにあたって、その規則も含めて自分で全てを決めなければならない。これは不安である。これで良いのか?自分で判断しなければならない。この時、自分の能力が全てあからさまに明らかになる。既に備えている能力、そして未知のまだ開拓されていない能力、その両方が。

ここで、それに耐えられず、せっかくのこの自由を放棄し、罫線を引き、その制限の中に逃げ込む場合もあろう。白紙は、それも許容する。それに甲斐があるかは別として。

白紙は、その上で成されることを全て許容する。それに制限を与えるのは、自分の想像力だけである。これもテストであるとして、その点数の範囲は、罫線紙に対して比較できない程広い。-∞から+∞。マイナスの無限からプラスの無限まで。

そこに何を書く?折って飛行機にしても良い。何かを包んでも良い。叩いて音を出し楽器にしても良い。煮物の落し蓋にしてもよい。まあ、これらは紙の使用法として既知の範囲であるが、ここまで書くということにからめて”制限”をテーマにしたのでその”制限”を越える例としてあげてみた。

こうしてみると、紙の上に引かれているたかだか一本の線が、人間の作り出した全ての規範の象徴であることがわかる。その存在感は大きい。そして、その一本の線を消し去ることで、その存在感はあにはからんや、まったくチャチなものに後退し、無限の可能性がそこに広がるのである。

私は、白紙が好きである。あとは、ただ、書くだけである。

ブショゲー、デセム 

2013-03-18 23:49:38 | 真実
ゲサーブソコデメッツ、ンー、っップボェパラ、、、、クーーーームッツ、

オピエゥエゥエゥ・スージョジュ(笑)     ヒュースイタン(泣)

お・ムー・ジュエビヤントーレッポ・サゲーレ、ジャン?

・・・・・・・・・・・プッ・・・・・・・・・・・

ブショゲー、デセム? アレ? ドーソンミゲーレビッチノコフ、、、

ブショゲー、デセム? スィージ、メメスッツィン エ。

ブショゲー、デセム!!!! ブショゲー、デセム????






言葉を知らない国に行ったら心細いだろうなぁ。

生きる:飛鳥野の里ボランティアコンサート 3/16

2013-03-17 01:37:07 | 雑感
今年は、唱歌を皆さんと一緒に歌うことにしており、今月で3回目だが、今日、職員の方から、歌うことで入居者のかたがたが生き生きとしてきた、と伺った。やはり、受動的に聴くだけよりも、能動的に歌うほうが、心(意志)と体(口、舌、あご、肺、目、首)を働かせる分、「生」が動き出すのだろう。期待通りでほっとしている。

この「生」ということについて改めて考えてみた。

入居者の方々は、たまたま老人ホームに住んでいるだけで、「生」という意味では、その外にいる人と変わりがあるわけではない。人生の終盤で、体は弱り移動能力は極小である。記憶力と思考力もかげりが見えてくる。活動時間も一日の中でその割合は減ってくる。感情の発露やそのコントロール能力も減ってくる。しかし、その不足分を職員の方々が肩代わりしているだけで、生きていることでは変わりは無いのである。

しからば、ボランティアとか称して行ってはいるが、それは、ホームの玄関をくぐった時に、そこに異世界があるわけではなく、自分の住んでいる世界とまったく同じものがあるだけである。

ここで生きている人間が、そこに生きている人に会いに行き、同じ時間を共有するだけである。「ボランティア」とあえて、呼ばなくて良い気がする。

はてさて、「ボランティア」というと、私には忸怩たる思いがある。

個人的には、アリバイ作りなのではないか?自己正当化、あるいは自己満足?という疑問がいつも付きまとう。少なくとも、自由に、健康に、仕事もあり、家族・友人もいて、金銭面でも特に困窮するほどではなく、趣味も持てているが、自己完結しているだけで、そこに何か意味のある価値があるのか?という疑問が付きまとう。そして、それに対する苦し紛れの答えが、この「ボランティア」なのではないか?

対人的には、この「ボランティア」をやっているということが、優越感を醸成し、なんとか他人との社会生活を送りやすくするための枠組みを築けているのでは?

という、自己欺瞞をいつも感じていた。

感じつつも、肯定的に次のように考えるようになったのは、最近のことだ。

ボランティアとは、同情ややってあげているという自己満足の押し売りではなく、ある尺度で見ると制限の程度の差があるもの同志(弱者と強者)が、同じ地平感、一体感のもとに、その差を越えて、この一瞬を一緒に共有しているということである。そのこと自体に価値を見出している、見出していたいと考えている。

たとえば、老人ホームでは、体や心の制限の差があるものの、ただ集まったもの同志が一緒に歌うという喜びを共有するだけである。

たとえば、交通遺児への援助は、経済環境の差だけで学ぶ機会が得られないという状況を解決したいという共通の思いである。学びたい者と、学んでほしいと思っている者の学ぶことへの熱意・欲求である。

たとえば、紛争地域でたずさわる医師団への援助は、戦地でも平和な国でも、体さえ健康で、怪我や病気の心配が無ければ、どんな困難にもまずは取り掛かれる、という共通の願いである。

たとえば、盲導犬への援助は、文字通り暗黒の世界に光をもたらしてくれるものである。我々健常者が見る太陽の共有化である。

狭い意味のボランティアに限らなくても良い。

自分が生きるうえで関わる全ての人々を対象としてよい。

「共に生きる」ために、自分で出来ること、それは、自己欺瞞ではないと胸を張ろう。