クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

2014-02-27 23:18:20 | ♪出演ライブ


2曲目の仰げば尊しと最後から2番目の赤とんぼの時だった。

背筋をしゃんと伸ばして、いつも朗々と歌うおばあちゃん。

2月の慰問の時。

歌いながら、はらはらと。

ぬぐいながら。

何かあったのか。

思い出がよみがえったのか。

「おばあちゃん、目が汗かいてるね。暖房ききすぎかな?」

感謝の言葉を述べるだけで、訳を話してくれる訳ではない。

「また来るからね。そのときにまた、元気良く一緒に歌おうね。」

笑顔で別れてきた。

トランクにギターをしまって、運転席に座って、バックミラーを見たら、

少しまつげが濡れていた。

クラシックギター再び

2014-02-26 23:25:25 | ♪音楽

あんなに馬鹿にしていたハカランダ(ブラジル産のローズウッドという木)を使っているギター。発見がありました。

フォークギターの世界ではもうほとんど新作のギターには使われていない。なぜならば、ワシントン条約で輸出入が禁止されている、という情報を持っていました。しかしながら、クラシックギターの世界では、まだまだ新作ギターにどしどし使われています。ハカランダを使ったフォークギターはそれこそ新車が買える位の値段ですが、クラシックは大分年式の行った中古車程度の値段です。なんか、おかしいな。まだ、詳しい業界の情報をつかんでいないかもしれない。

ということはさておき、ハカランダを使ったクラシックギターを、親父の面倒見に帰省した往路の途中、小一時間ほど時間があったので、○澤楽器で弾いてみました。

音が大きい。低音が良く出る。これらは、ハードウェアとしての道具の特性値(音量、音質)の限界が広がるということ。ソフトウェア(いわゆる腕)に取って、その受け止め側の限界が大きくなるということ。やっぱり、下手が弾けば、そのレベル。上手が弾けば、そのレベル。それがつまびらかになる、ということを再確認しました。

普通のローズウッド(ブラジル以外)のギターは、弾いていてなんとなく、見通しがきいてしまった、という感じがしますが、ハカランダは、どこまで行ってもまだまだ弾き足りない、表現しきれない、底にたどり着いていない、天井につかえていない、音色を全て使い切っていない、なんとも自分の力は出し切っているけれど、まだまだやることはたくさんあって見当がつかない。そんな感じです。単に音がいい、とか言うことではないです。自分の音を映す鏡として、100%映してくれて、しかも、まだまだ伸びしろを感じさせてくれ、もっともっと練習というか表現し足りない部分を、なんとしても表現して行きたい、と思わせてくれます。

ということで、決まりました。クラシックのハカランダを買いに行きます。そして、下取りは、マーチンのD18GE(フォークギター)、ギブソンレスポール(エレキ)、スタインバーガー(エレキ)、松岡(クラシック)、ヤマハパシフィカ(エレキ)、イバニーズ(ベース)。これで一気に5本減ります。究極のギター3本化計画、エレキ1本、フォーク1本、クラシック1本に大分近づきます。RS GUITARWORKSのストラト(エレキ)、マーチン00-18V(フォーク)、新規購入クラシック、携帯フォーク、実家置きフォーク、ヤマハサイレントクラシックの6本か、まだ。

ただし、意味的にはほぼ目的を達していると言えます。携帯フォークは山登り用。実家置きフォークは、帰省時のボランティア演奏用。サイレントはマンションの夜間練習用。よって、メインは3本、ほぼ目的達成と言ってよいでしょう。ギターをたくさん持つ人を馬鹿にしてきましたが、これでやっと自分のことを棚に上げなくてもよさそうです。

そして、どれか1本にしろ、と言われたら、迷うこと無く、クラシックが残ります。表現力の幅、コントロールの繊細さ、人肌の暖かさ、まさに人と一体化しています。前に、自分がギターであることに気づいたと述べましたが、まさにその通り。ギターは人です。人がギターです。

そういう境地を感じさせてくれるクラシックギターが人生の1本。

という発見でした。

(考えを文にする、ということは大事ですね)

「佐村河内守氏」の音楽

2014-02-07 23:10:16 | ♪音楽

非常に残念である。

音楽自体はすばらしい。交響曲1番。高橋選手のヴァイオリンのためのソナチネ。新垣隆氏は、この音楽を作り出したということは、誇ってよいと思う。

有識者の新聞へのコメントで、「現代の聴衆はもはや音楽は聴いておらず、それにまつわるストーリー(感動秘話)を聴いているのである。そのストーリーが無いと売れない。」とかいう主旨のものがあった。が、それは違うだろう。いくらストーリーが感涙にむせぶものであっても、音楽自体がつまらなければ、1時間前後の交響曲など最後まで聴き通さずに人は退出するであろう。

しかし、それは無かった。少なくとも自分は。

本当に残念である。もう一度言うが、こういう音楽の作れる新垣氏は、著作権放棄などと言わず、改めて、正当に自分のものとされてはどうだろうか。

さて、佐村河内氏は、嘘でも良いからヒーローになることを喜びとした。ヒーローとして見られることに喜びを感じた。時間軸で見ると、その永続性が無いのは明らかであるのに、そこに踏み込んだ。その手段として、自分の物ではない、他人のものを使った。

そして、これは、結構シビアに誰にでも当てはまることだと気づいた。

ギブソンのSJ-200(フォークギター)をかかえてエルビス気取り。そんなあなたは、もう一人の佐村河内氏である。

ギブソンのJ-45(フォークギター)をかかえてよしだたくろう気取り。そんなあなたは、もう一人の佐村河内氏である。

フェンダーのストラトキャスター(エレキギアー)をかかえて、ジミヘン、リッチー気取り。以下同文。

ビトンのバッグをかかえて・・・・気取り。以下同文。

現代のベートーベン? そして僕らは、オラが街のエルビス、たくろう、ジミヘン、、、、、、、

自分自身だけであり続ける、って難しいね。

新垣氏の音楽。SJ-200、J-45、ストラト、ビトン。これらは本物である。

そして、僕らは偽物。

偽物にならないためには、自分自身であればよい。

さて、それはどこにあるかな?