小学六年生のとき、理科の公開授業があり、見知らぬ大人が何人も来ていた。理科の授業で、酸とアルカリがその時のトピックだった。
先生が言った。「酸性の液に青色のリトマス試験紙をつけると赤くなります。アルカリ性の液に赤色のリトマス試験紙をつけると青くなります。それでは、酸性の液とアルカリ性の液を混ぜると、リトマス試験紙の色はどう変わるでしょう?」
僕は元気良く手を上げた。先生が指名してくれた。「はい、青い試験紙は赤くなり、赤い試験紙は青くなります。」先生「・・・・・・・・、他に答えのある人? ハイ君。」「試験紙の色は変わりません。」先生「そうだね。」
今でも腹が立つ。
この理科の授業の場合、せっかく理科であるのに、既知の領域に先生も答えた生徒も留まっており、教育の一番の目的である、未知を既知にする、という能力の伸ばすところから程遠いところにいる。小学生だから、条件を網羅的に想定することはなかなか出来ないだろうが、知りえていない事に対する想像力をいかに働かせていくか、そのキッカケをとにかくたくさん与えることが必要である。
この生徒は明らかに答えを知っていたのである。
本来、未知の問いに対する答えは、以下を網羅することが必要である。
・青は赤くなり、赤は青くなる。←和の効果。
・青も赤も変わらない。←帳消しの効果。
・青だけが赤に変わり、赤は不変。←なにか未知の効果。
・赤だけが青に変わり、青は不変。←なにか未知の効果。
・赤も青も赤と青以外の色に変わる。←なにか新しい現象の発生。
・試験紙が溶けてしまう。←なにか想定外の現象の発生。
・試験紙が燃える。同
・試験紙以前に、混ぜた途端に爆発する。煙が出る。沸騰する。など
ただし、子供らしい素直な答えは、やはり僕の答えと同じだろう。塩と砂糖を混ぜるとしょっぱくて、甘い。それと同じである。あるいは、絵の具からの連想で、全く新しい色になる。
また仮に試験紙の色を不変にするには、酸の程度とアルカリの程度を同程度にして、尚且つ同じ容量同士を混ぜることが必要である。少しでもバランスが崩れれば、酸かアルカリかどちらかの領域に留まり、試験紙はいずれかの変化を示す。この、程度(定量的表現)という概念はおそらく高校にならないと出てこない。小学生レベルではまだ、項目(定性的表現)、という概念に留まる。
僕の自由な発想は、この公開授業の中で抹殺されたのである。
まあその程度で失われるほど、発想力はやわではないことは、今の僕が証明している。オヤジギャグは、この自由な発想以外の何者でもない。ある意味、なにくそうという根性がこのときから醸成されたのかもしれない。いまだに覚えていて、腹が立つのであるからね。