クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

自分を苗字や名前で呼ぶ人:「矢沢はやりますよ!」とか、、、

2012-10-18 23:20:27 | 毒舌
私は私自身なので、自分のことを、「クワトロ郎はね、そういうやつじゃないんですよ。」なんて三人称で呼ばない。俺は俺である。苗字や名前は、人が人を区別・識別するために使用する便宜上のものであって、自分は自分を他人から区別して論ずる必要なないので、なんで、そんな人がいるのか分からない、、、、、、、、ので、ちょっと考えてみよう。

俺は、俺のことを裏も表も、真面目さも不真面目さも、少しの品行方正さと人に言えないような助平なところも、はっきりいって分かりすぎるほど分かっている。だから自分自身に相対する時、単純に正直にならざるを得ない。だって、わかってるじゃん。分かってるのに、知らないふりなんて出来ないよね。

ところが、自分を三人称で呼ぶ時、それは、たぶん、フィルターがかけられるのではないかな?他人のことは、自分のことよりは分からない。自分を「他人」のように呼ぶことで、中身の分からない「自分」という虚構を作り上げ、おどろおどろしい中身はフィルターで濾しとって、その良い部分、あるいは都合よく脚色された独りよがりの悪い部分だけに目を向ける儀式としている。

要は、真実と向かい合う度胸もくそもない、ということだ。と、言ったら言いすぎか。

「今日のクワトロ郎は冴えすぎて、少し爆走してるな、と思う今日この頃です。」

スマホの画面じゃない方を眺めて見た

2012-10-16 23:07:42 | 真実
そしたら、自分自身を取り戻せた。

電車の中、バス停、駅のホーム、路上、あちこちで、携帯が人を引き連れている。携帯はその画面から、人に餌を与え、そして人は携帯に指でお手をする。

その画面に中には価値のあるものがあるとでも言うのか?それを確かめたかったら、画面の反対側、いわゆる裏を見てみるといい。そこにあるのはただの物体、そして自分の考えが自分に手に取るように見え出すはずだ。それは、自分自身を取り戻した証拠。

画面の中の物は、それを見ている間は価値があるように見える。でも、裏側から見ると全ては消え去る。文字通りまずは映像的に、そして価値があると判断していた対象の概念も次第にあやふやになっていく。

iPhone5でもなんでも良いけれど、テクノロジーが進歩しても、人の考えが進歩するわけではない。電波、電線、手紙、のろし、手旗信号、声、伝達手段はあくまで伝達手段であり、それにより伝達される物の方が大事であるのは論を待たない。

が、そこにその大事さがあるのかどうかが、人を引き連れている携帯を見ていると、自信が無くなってくる。

スマホ、携帯の裏を30秒でもいいから、見てみてはいかが?

武中学校+α同窓会 イン 渋谷

2012-10-14 02:03:48 | 同窓会写真

またまた、集まってしまいましたが、今回は、TOBO君と特盛君とMRS.クワトロ郎の3名が加わり総勢8名。もはや武中同窓会とは言いがたく、武中+中央高校+甲南高校+岡山県出身者と広がりを見せております。

特盛君のおかげで、かなりぶっちゃけ話ができました。ありがとう。本音で話せるって、本当に良いよね。上っ面ばかり取り繕っても、もう意味なし世代なので、良かったねぇ。

その後、2次会は、徳守君+MRS.クワトロ郎で、池袋、一花にて、甲南同窓生、キシゲマチ君と合流。おかげで、終電無くし、所沢までタクシー^^;。

ひとえに人のつながり、人の暖かさ、に感謝の一日でした。