クワトロ郎

人生の彩りをアレコレ描いたり、歌ったり、知恵しぼったり、
牛乳しぼったり、  ん?  てな具合で
オヤジギャグ三昧

自動車保険

2013-07-27 23:42:57 | (^o^)オヤジギャグ


♪チンチロリン

お電話ありがとうございます。ユーラシア自動車保険です。はい、車両保険のご加入ご検討ですね。おいくらぐらいになるか、すぐに計算できますので、いくつがご質問させてください。よろしいでしょうか。

はい、お客様のご年齢は、18歳。35歳以上ではないですね。免許取立て、当然ゴールド免許ではないですね。お車は、昭和63年式のセドリック。排ガス、燃費は悪い、はい。車高短、出っ歯、煙突、マジンガーゼットデコレーション、はい。マフラーは柿沼のうるさいやつ、はい。タイヤはブリスターでさらに10センチはみだしてる、はい。車の色はピンク、はい。ナンバープレートは折り曲げて、しかも色つきプラスチックカバー付き。ターンシグナルもストップランプも全部ホワイト。

で、事故歴すでに、10回。全部、自責。駐車違反、速度違反、一方通行違反で、免停前ギリギリ、はい。以前入っていた保険会社からは、もう断られた、はい。

いろいろ情報ありがとうございます。

車両保険はいかがいたしますか?はい、250万円。

はい、もう計算できましたよ。保障金額は少々お安くなってしまいますが、対人10、000円、対物10、000円、免責は各々5000円。搭乗者障害は1人1,000円、合計3人まで。車両は2500円となります。

保険料ですが、お客様の場合、ここまでお安くなります。56万9800円、年間です。ハイブリッドではないですね、残念ですが割引はなしです。イモビも、、ない。はい。

そうそう、JAFのバッテリ上がりや牽引のサービスは当然ついています。事故時のレンタカーサービスは残念ながら、はい。弁護士費用特約も、はい、残念ながら。

いつもあなたのことを、まごころと安心をお届けするユーラシア保険の、ここまでお安くなる保険、お見積もりサービス、いかがでしょうか?

お客様、お客様?お客様? あれ、切っちゃったか。まあ、無理だわなぁ。

(ちゃんちゃん)

もう一生ギターは買わない、ことにした

2013-07-23 23:10:30 | ♪音楽

今55歳である。
15歳からギターを弾いているから、もう40年か。あいかわらず下手である。謙遜で無く、弾かない人に比べればそれはかなりのレベルであるが、自分の審美眼はごまかせない。

とりあえず90歳まで生きるとして、あと35年。ふむふむ。さて、どこまでこれから上手くなるかな?と考えると、まあ、たかが知れている。

ギターが勢い良く上手くなるのは、たぶん10代~20代だろう。

年を取ってから上達するのは、演奏技術そのものでなく、うまく聴かせる技(ごまかし技)である。

よって、ギターを変えても、別段上手くなるわけでも、うまく聴こえるようになるわけでもない。

だから、表題のギターを買わないことにした、というわけではない。前振りが長かったかな、本題に入ろう。

なんでもいい、自分の好きなジャンル、趣味の世界で、いろいろ買いたくなるものが、皆あるだろう。私の場合は、ギターである。メインだけ考えて、周辺小物はこのさい置いておこう。サイクリング好きは、自転車がそうだろう。ボウリングだと、ボールかな。書道家だと、筆?すずり?墨?

なぜ、もうたくさんそれを持っているのに、新しいのが欲しくなるのか?

このブログでも以前から何度も書いているが、それは、自責でなく他責ですまそうとするからである。あるいは、自力で無く、他力ですまそうとするからである。

木に登ることにたとえると、幹に抱きつき腕力と脚力でじわじわと自力で登るのでなく、はしごで登るようなものである。

腕力と脚力を鍛えることをせず、道具に頼る。

木の上からの眺めは、汗びっしょりの体に心地よい風を受けながら、ほうっと大きな息をしながら見るほうが、喜びは大きいと思うがどうだろう。しかも、さらに上に登ることも可能である。

ハシゴをかけて、しゃかしゃかとのぼり、景色をさらっと見ても、それは目線が違うだけで、脳へのインプットは地上で見るものと同じ程度の刺激でしかない。上に行くには、またハシゴを調達しなければならない。

ハシゴはまだ、景色を見るという実をとれるかもしれない。ギターであれば、この実がそもそもあるかというと、はなはだ疑問である。

道具はなんでもそうだが、それ自体はやはり脇役であり、主人公は別にいる。ギターであれば、流れ出すメロディーであり、和音であり、歌心である。

この感は、最近、クラシックギターを弾いていて特に思うようになった。アール・クルーのダンス・ウィズ・ミーを練習しだしてからである。これまでは、クラシックギターはそれほど弾いていなかったが、このギターの弾きやすさ、ニュアンスの出しやすさ、柔らかな音色に虜になった。それでいて激しい音も出る。ギターとの一体感が従来のエレキやフォークにはなかった。エレキやフォークはそれぞれが強烈な音を出せるので、一体感というよりも、仲間、相棒、って感じ。クラシックは自分そのもの、と思える。

仲間や、相棒なら、その時、場所、自分の心情によって、相手が変わることもあるだろう。ところが、自分そのものであれば、変わる必要がない、変える必要が無い、そもそも変われない。

しこうして、私は、もうギターを新たに買う必要が無い、と思うに至ったわけである。私自身がギターであることに気付いたのだ。

15歳のとき、ギターが欲しくて欲しくて、親にねだって、全音のクラシックギターを買ってもらった。あのころは、ギターにフォークとかクラシックとか種類があるのを知らなかった。平凡、明星の歌本の後ろのほうに載っている、全音ギター入門セットであった。

その後、いろいろたくさんのギターを手に入れ、手放し、また買って、また売って、年が行ってからは昔憧れだったマーチンのギターも買えたりした。エレキに手を出し、エフェクターも新しいものが出るたびに試した。ギターシンセも飛び道具として使っていた。コンピューターミュージック(MIDI)のはやり始めは、キーボードとパソコンでかなり凝った音楽を作っていた(面白すぎて、奥さんがほったらかしになるぐらいで、ある時点でこれは麻薬だと気付き、すっぱりやめた)。そして、もう全音のギターは手元には無いように、それらのいろいろな楽器は本来の役目をもう果たせずに、出番待ちでいる。

そうしながら40年経ったのである。

今弾いているクラシックギターは、30年前(?)に買ったものである。まさから、これがこれほどの転機のきっかけになるとは。買ってきたクラシック、ジャズ、ボサノバ、などの楽譜をときどきめくりながら弾いていたが、直ぐに飽きて、そのあとはしばらくほったらかし、そういうことの繰り返しだった。別段、暗譜するわけでもなく、技術的にちょっとひっかかると、もうそこでストップ。

今でも、暗譜がなかなか出来ないことや技術的ひっかかりの頻度はそれほど進展してはいないが、対峙すべきは、自分と悟った。

すでにこれからの一生、困らないぐらいのギターは持っているが、おいおいバンド用にエレキは1本、フォーク弾き語り用に1本、そしてこのクラシック、都合3本に集約していこう。

そうなのです。もう一生ギターは買わないことにしたのです。そして、それは、もう買う必要が無くなったからなのです。なぜなら、自分自身がギターであることに気付いたからです。

裸の自分 : 飾りを取り去った跡に残るもの

2013-07-14 00:00:58 | 雑感

それは、具象という物質ではなく、抽象という自分の心の中にしか存在しないもの。

そしてその心の中のものも、攻撃とか、防御とか、見ぬ振りとか、気付かぬ振りとか、誇張とか、自己愛とか、嘘とか、自己憐憫とか、怒りとか、憎しみとかも除いて、最後に残るもの。

それは、良心とかいうきれいごとで表現されるものではない。

それは、ありのままの物を、ありのままに捕らえる、という鏡張りの心だろう。

それでは、個性が無いって?個性を先に考えなくて良い。良くても悪くても、個性は後でおのずと付いてくるものだ。

物でも、知識でも、知り合いがいることでも、立場でも、役職でも、金銭でも、何かが出来ることでも、なんでもよいから、自分の方が人より上にいる、何かとそういうものに頼りがちである。しかし、頼りたくない。

自分の弱さを認めず、なにかと正当化(自己欺瞞)しがちである。しかし、自己欺瞞はしたくない。

ああ、人間は、結局は、これらに頼らなければ生きていけないのか?

閉じた小さな世界で事象が完結していると、なかなかその構図に縛られていることに気づかない。小さな世界とは、家族、友人、職、国、人間界、時間、などである。

裸の自分とは、イコール この世の全てである。全てであれば、良いも悪いも無い。全てが見えている以上、飾る必要は無い。

そいういうことである。