”いじめ”は槍玉に挙げられるだけで、その本質は語られない。
何事でも、ある問題、課題を解決しようというときは、現象面だけ見たり、単なる意気込みだけではまとが外れる。原因、メカニズムを明らかすることが必要である。
考えてみる。
いじめとは、自分と異なる相手(自分が理解しづらい相手、自分の価値観と異なる相手、自分が属する集団と異なる諸相を示す相手、自分より優れていることが我慢ならない相手など)に対した時、その異なることが自分のアイデンティティを脅し、不安な状態となり、その不安な状況から自らを解放し逃れるために、その対象を排除、あるいは、その対象に対し優位に立とうとする、精神的自己防御ではないのか。
ちまたでは、いじめとは、自分より弱い相手、弱者に対し、肉体的、精神的暴力を行うことで、自分が優越感を得る、という説明もされているが、”弱い”からその相手を選ぶのかには、自分はすこし疑問を感じる。というか、もう少し深い意味があるような気がして、前段の精神的防御という考えを持っている。
すなわち、相手が”弱い”のではなく、相手が”怖い”のではないか。特に精神的に成熟していない若年世代では、その比率が高い。徒党を組むのも、同質な仲間同志であればより安心感が得られ、異質なものに対してより優位に立てる。さらに、相手を排除できるチャンスがあれば、ある一線を越えてしまう。
歳をとり、物事のいろいろな幅を見聞きし、経験を積んでくれば、恐怖心は少しずつ薄らいでくる。歳をとれば、若い頃に比べいじめにいたる率は減ってくる。ただ、そのまま大人になりきれず、いじめ行為が習い性となるものもいる。
であれば、いじめをしなくてすむような精神的状態を確立できるようにすれば良いのではないか。相手に対する恐怖心を抱かないですむようにすれば良いのではないか。
未知を知る喜び、世界観が広がる楽しさ、それを人と共有する喜び、こういったことを通して、分からないものに対する恐怖感を克服する筋道を築ければ、いじめは無くなるのではないかと思う。
親の責任重大だな、これは。