この数年、注連飾りを生花店で購入している。
理由の一つは、注連飾りの形にも地方それぞれの特徴があって、家を出て何年もたっているのに、どうも自分の慣れ親しんだ形でないと違和感があるというこだわりの問題なのだが、もう一つは、うーん、何と言うか有り難みの話なのだ。
シンプルに縄のみの所もあるようだが、注連縄に、いろいろな縁起物が付いている所もある。
鏡餅の飾りと一緒で、橙やウラジロなどが付いていたり、豊穣を祈って稲が付いていたりする、あれである。
横浜近辺で普通に見かけるものには、伊勢海老が付いていたりする。
うちの実家の方でも、注連飾り自体の形を鶴に見立てて、そこに橙とウラジロがついていたと思う。
もちろん、その縁起物がありがたくない、という訳ではない。
御節と同じように、どれも謂れのある縁起物である。
ただ、どうしても、それらは注連飾りをはずす時季まで飾っていると、痛んでくるのである。
正月に暖かい日が続いたりすると、橙が黴ていたりする経験のある方もいらっしゃると思う。
縁起物とは言え、傷んでしまったのを見ると、ちょっと哀しい気持ちになる。
では、どうするかと言うと・・・プラスティック製の代用品を使うのである。
先に書いた「伊勢海老」なんてーのは、余程でない限り「本物」をつけているところはお目にかかれないとしても、実際に黴易い橙をプラスティックにしている奴を結構見かける。
それだけではない。
やっぱり、かさかさに乾燥してしまう、ウラジロや松葉までプラスティックにしているものもあって、それが、結構、高額な飾りでもそうだったりするのである。
しかも、高額になればなるほど、
「何々神社厄除け祈願済み」
の、札が付いていたり、狛犬や干支のミニチュアが付いていたり、紅白の水引だけでなく金糸銀糸の水引が付いていたりして、絢爛業火となる。
でも、私としては、そういうゴテゴテとしたもの見ても、あまりありがたいと感じないのである。
それよりは、生花店から松の枝を買ってきて、半紙で包んで水引で縛ったもの方が、なんとなく清々しくて、ありがたく感じる。
「鰯の頭も信心から」という言葉のとおり、「縁起物」だと思えば、プラスティックであってもありがたいのかもしれないし、何より本当に「祈願」されていたりするのであるが、どうしても馴染めなくて、ある年に生花店で「注連飾り風」のシンプルなアレンジメントを見つけて以来、毎年それを飾るようになったのである。
生花だから、松葉もウラジロも乾燥するし、南天は実がこぼれたりする。
しかし、そういうところに、「いのち」を感じつつ新年を迎える方が、なんとなくゴテゴテとして形式優先となった注連飾りで新年を迎えるよりも、良い様な気がしているのである。
まあ、好みの問題だけれどね。
ちなみに、偉そうな事、書いた割には、今年の鏡餅を買い忘れてしょげていたりするのであった。
もちろん、買いそびれたのは「鏡餅型容器」に「切り餅」の入ったやつである。